「犬も宇宙の一部ですね…」

先日、茨城の(こども園を返上した)幼稚園で講演した時のこと。

子どもを優先に考える園長先生が、しっかり親たちに守られている、そんな園でした。こども園を辞めたのも、子ども主役の風景が、壊れるのを警戒してのことでしょう。

自分の子どもに親身になってくれる人を大切にする、その人が年配であれば、信じて、まずは従う、そんな人類の知恵というか、カタチが垣間見えます。子どもたちを中心に、身近な「伝承」が「社会」をつくる。幼稚園は、村のような単位で社会が整うための「練習」に丁度いい。

園長先生に頼まれていたので、最後に、演奏もしました。音楽で終わるのは、いいものです。講演会というより「祭り」の終わり、子育てが「祈り」へ還っていく感じがします。

しばらくして、講演の感想文が送られてきました。その中に一つ、思わず笑ってしまうのがありました。ああ、こんな風に理解してくれた……。

講演で、いつものように、

「私が一人で公園に座っていれば、変なおじさん。でも、二歳児と座っていれば、『いいおじさん』です。この仕掛けに気づいてください。そして感謝しないと人生の目標がわからなくなる」

と説明します。

私が一番大事に伝えようとしている、古(いにしえ)の法則です。

幼児と過ごしているお母さんたちは、うんうんと頷きます。

素晴らしい仕掛けを、何度も、体験している。知らず知らずのうちに、体験していたことに気づく。ともすれば忙しくて忘れそうになるのですが、幼児の不思議さを実感した、自分だけの秘密を思い出して笑顔になるのです。

横に座っているだけで、宇宙の相対性の中で、二歳児は人間を「いい存在」にする。子育ては、宇宙の「働き」そのものですから、その「働き」に気づくことが、生きる目的でもあるのですね。あとの人生は、時々その思い出に浸って過ごせばいい。

子どもを(孫を)可愛がり、自分の価値が高まっていることをはっきりと意識する。その時期が、人類には必要なのです。関係性の中で生きていることが、嬉しくなる。三歳までに、子どもはすべての親孝行をする、と言いますが、あの教えですね。様々な文化で、この同じ教えが伝えられていた。

不思議な感想文に、こう書いてありました。

自分は一人で散歩しながら、他人の家の形を眺めたり、庭をキョロキョロ覗き込んだりするのが好きで、いつも怪しまれていました。でも、柴犬を飼い始めて、犬を散歩しながら同じことをしても、怪しまれないことに気づいたんです。

犬も宇宙の一部ですね……。

私が講演しているのは、この柴犬を含んだ「仕掛け」の話なんです。

社会学者が見過ごしている、柴犬の「位置」づけの話。芭蕉や世阿弥が愛で、賞賛してきた、日本人には馴染みの深い「仕掛け」の話なんです。その主人公が、〇歳児たち、というのが私の主張です。

言葉を発しない者たちとの会話、たとえそれがお地蔵さんであっても、盆栽であっても、風の音であっても、逝ってしまった両親であっても、その会話が、「生きていること」の大切な一部であって、人生という道はその会話で方向づけられていく。そのことに気づかせるのが〇歳児を育てるという、人間が避けることができない行いで、その人たちの「寝顔」なのだ、と思うのです。

その後、しばらくして子どもが1歳になり、言葉による会話が、少しずつ始まり、言葉の意味よりも、それを発した人の「心持ち」を知ることの方が大切、と教えてくれる。そして、2歳児がとなりに座ってくれる、そんな風に考えています。

(犬の話では、私はインドの野良犬について、随分考えてみたことがあります。足すと一年半くらいインドで過ごしているのですが、夜、吠えるのを聞きながら、同じ空間に彼らがいること、彼らとの関係などを考えたのです。

野良犬はペットではありません。かと言って外敵でもない。大自然と人間社会の中間点でウロウロしている、不思議な位置にいる連中です。彼らは、自由なのだろうか。

昼間はダラダラ、面倒臭そうにしているのですが、夜中に俄然活気づく。強いリーダーに煽られて……。

彼らの存在が、人間と大地の橋渡しをしているような気がする。でも、油断すると喰われるかもしれない……。

明け方、それにカラスの鳴き声と羽ばたきが加わったりすると、謙虚になるべき、自分の位置を感じる。)

「ママがいい!」という幼児たちの言葉を広めて下さい。その言葉に向き合わないと、会話にどんどん深さがなくなっていく。口コミ、友達リクエストやシェア、ツイッターのフォロー、リツイートお願いいたします。

流れが、少し変わり始めている気がします。ブログの更新もしています。よろしくお願いします。

(ブログ:http://kazu-matsui.jp/diary2/、ツイッター:@kazu_matsui)

 

児童文学と私

 

銀座の教文館で父、松居直の回顧展が始まりました。そのイベントの一つとして、「児童文学と私」という題名で講演をします。4月5日、6時。教文館9階ナルニア国店内 定員:40名 参加費:1000円 申込み電話番号:03-3563-0730(午前10時~午後7時)。配信もされるそうです。ぜひ、お問い合わせください。

 

内容に関しては、ちょっと心配です。

話したいことがあり過ぎる気がする。うまくまとまると良いのですが。思い出語り、のようになるのかもしれません。

 

父の仕事上、児童書の出版社から新刊が出ると献本があり、次々に読んでいった子ども時代は恵まれていました。大人の理屈、まやかしの論法に誤魔化されない視点を、児童文学がくれた。

去年出した七冊目の本、「ママがいい!」もそうです。そう発言しているのは子どもたち。その意図に駆け引きがないから価値がある。その価値、その信頼から、目を背けてはいけない。時に叫びとなってきているこの言葉は、「慣らし保育」という、奇妙で、不可解な舞台に現れる、古(いにしえ)の法則からの抗議なのです。今、日本中あらゆるところで抗議の声が上がっているのに、気づかない、気づこうとしない。

最近の学問や政治、損得勘定が生み出した法則に支配され、その向こうに隠されている、はるかにパワーのあるルールを意識しなくなっている。アスランがそれによって蘇り、チョルベンが体現し、ドレムがノドジロと確認しあった、あの古(いにしえ)の約束事が蘇ってくる順番なのです。

児童文学の作家には、ちょっと変わった人が多いわけです。学校に行けない人。子どもの頃、長く天井を眺めていた人。往々にして会話の次元が普通とは違う、いわゆるグレーゾーンの人と言ってもいいかもしれませんね。世間で活躍する人たちとは一味違う人たちがこの分野では活躍する。

感受性を運命として引き受け、時には仕方なく、あちら側と交信し、慎重に「古の法則」を探る人たち。世間では弱い人に見えても、だからこそ真実が見える人たち。自分の幼児期をそのまま体の中に据えている人たち。

 

特に触れたい本、講演当日、準備してもらおうか、と思う本をリストアップしてみました。

「ママがいい!」の論旨や、三十年間話し続けてきた講演内容、インドに取材したドキュメンタリー映画を支え、十五枚出した自分の音楽アルバムに影響を及ぼした児童文学が、いっぱいある。でも、読んでいない人には通じないかもしれない。こうして、これを書いているだけで、もう自分の世界に行ってしまってる気がします。

でも、会場が、教文館のナルニア国ですから。

この空間は、圧倒的に条件がいいのです。願えば、リストアップした本が揃ってしまう。書いた人たちの魂が、背中を押してくれる。

この場所が選ばれたことに、すでに意味がある気がします。ナルニア国に入れば、そろそろ「児童文学と私」という講演をしてもいい。父と母に感謝です。

三十五年前、義務教育が普及すると家庭崩壊が始まり学校が成り立たなくなる、と本に書きました。

高卒の二割が満足に読み書きができない、三割の子どもが未婚の母から生まれる、そんなアメリカの状況を目の当たりにし、リンドグレーンの「長くつ下のピッピ」、ワイルダーの「農場の少年」、そして「わが魂を聖地に埋めよ」にあるジョセフ大酋長の発言に照らし合わせ、すぐにそう理解したのです。義務教育が人類にとって諸刃の剣だということ。それを書いて日本で話し始めると、保育者たちが、「福祉」もそうです、と強く訴えてきたのです。

欧米の、半数近い子どもが未婚の母から生まれるという状況が、児童文学の世界から見ると、あってはならないこと、に思えた。保育士たちの「施策」に対する憤り、利権争いを繰り返す人たちへの絶望感が伝わってきた。この人たちもまた、子どもたちに教えられた人たちなのだ、と思いました。

声なき声、〇歳児との会話が、自分との会話であり、同時に宇宙との会話でもある。人類を祈りの方角へ導くものだと思うようになったのも、「太陽の戦士」に登場するノドジロ、「カラスが池の魔女」の湿原の老婆、バンビにでてくる「死にゆく枯葉」、メアリー・ポピンズに出てくる窓際の雀たち、に影響を受けたからでしょう。

それに、ガンジーの非暴力、親鸞の他力本願が重なると、絶対的弱者の存在意義が歴然としてくる。三歳未満児との会話を怠ることが、人間性の維持にとっていかに危険か、見えてくる。

ピーターパンの話でも、調子に乗って、自己肯定感で傲慢になる男の子の際どさが、せっかく田園詩的な風景に感動し、立ち去ろうとするフックを立ち止まらせ、毒を仕掛けさせた。一方、フックはハープシコードの名手ですし、物語の中心には、ほぼ神格化に近い「母親」のイメージが主題としてあります。(私が、「ママがいい!」というタイトルの本を出しても、何ら問題ない。☺️)

ジェンダーフリーなどと安易に唱えていると、やがて「ピータパン 」も燃されてしまう気がする。ミロのビーナスも壊さなければならなくなる。そんなことは、人類は絶対しないだろうから、そういう流れはやがて消滅していくのですが、その過程で、陰陽の法則に基づく調和を失い、どれだけ弱者が追い込まれるか、が心配なのです。ナルニア国という小さな本屋さんが、どういう役割を果たすのか。

お爺さんは柴刈りに行って、お婆さんは洗濯に行くのはだめ、みたいな理屈が、教科書には入り込んでいるのです。(子どもたちには、真実の情報を得る異なる経路がたくさんあるので、学校教育など大したことではないのですが、)この手の平等論が、政府の経済政策に隠れ蓑のように利用され、保育施策に名を借りた母子分離が人々の意識を操り始めている。そのことが、欧米を見てしまった私にはかなり怖いし、児童虐待、不登校児が過去最多という報道に、ああ日本もいよいよ、と恐ろしくなります。

以前、ジェンダーフリー的な主張をする絵本を書いた女性との興味深い会話が、ロサンゼルスでありました。

六十年代の人種差別撤廃運動が、女性差別に反対する運動につながっていった中で生まれた、世界的にも有名な絵本なのですが、私が、その流れの先に、これほどまでの家庭崩壊がこの国に起こると知っていたら、この本を作りましたか?、と質問したのです。

その女性が、とても正直で、いい人だと直感したので、訊けたのです。

彼女は、私の言っていることをすぐに理解しました。

しばらくじっと考えて、作らなかったと思う、と静かに言いました。言い訳はしませんでした。その時、私は、児童文学を共有する、古(いにしえ)の法則の側から返事をもらった気がしたのです。この女性の電話番号を私にくれ、訪ねるように言ったのは、父でした。

 

ワイルダーの「長い冬」を読んで、包装紙代わりの新聞紙を、しばらく読まずにとっておくことで簡単に幸せを創造できること、貧しさがその道を照らすこと、をインガルス一家から教わりました。幸せは、「物差し」の持ち方で決まるのであって、格差や損得に関わる問題ではない。その持ち方は、損得勘定から離れた「絆」から得るもの。

ですから、子どもたちは必ず親と一緒に過ごさなければいけない、ということではないのです。それが子どもたちの「願い」だという意識が強く存在していれば、利他の幸福感は「願い」や「祈り」の次元で、より強く育っていきます。家族という形は、手紙一本でも、お互いの「思い」だけでも成り立つ。それを、ケストナーの「飛ぶ教室」から学びました。などなど。

 

今回、内容に触れてみたい本のリストです。

リンドグレーン:長くつ下のピッピ、わたしたちの島で、やかまし村の子どもたち

ワイルダー:長い冬、はじめの四年感、農場の少年

ルイス:ナルニア国物語シリーズ

ケストナー:飛ぶ教室

ザルテン:バンビ、バンビの子どもたち

スピア:カラスが池の魔女

ピアス:トムは真夜中の庭で

中川李枝子:いやいやえん

バリー:ピーター・パンとウェンディ

トールキン:指輪物語

サトクリフ:太陽の戦士

イェップ:ドラゴン複葉機よ 飛べ

ヘップナー:急げ 草原の王のもとへ

そして、たくさんの宮沢賢治、新美南吉、椋鳩十。

好きな本、となるともっとあります。「ちびっこカム」「ムーシカ・ミーシカ」「ながいながいペンギンの話」「龍の子太朗」「わらいねこ」「かえるのエルタ」寺村さんの「王様シリーズ」「点子ちゃんとアントン」「エミールと探偵たち」「二人のロッテ」「アーサーランサムシリーズ」「ドリトル先生シリーズ」「ハイジ」「あしながおじさん」など、など。

二十歳くらいまでは主として児童文学を読んでいた気がします。ある年齢までに読んで、その中から好きなものを、繰り返し読む、それがいいのだと思います。ほぼ実体験として、体の一部になるんですね。物語に入り込まないと読めないのが児童文学の特徴です。ピーターパンが飛べると実感できなければ、読む意味がない。でも、考えてみてください。「千と千尋の神隠し」が、「鬼滅」が来るまで、長い間、興行収益一位だった国です。ドラゴンボールは、心が清くなければ雲に乗れない。日本人は、こちらの方に真実がある、と見抜ける人たちなのです。

「学術的な本」は、まず読みません。一見、真実のように見えても、物差しに誤魔化しがあったり、本能的に実体験の引き出しに入らない。(私の場合は。)出だしがつまらないと入っていけない。

ですから、保育や子育てについて話しながらも、モンテッソリーとか、シュタイナー、とかは知りません。フロイトなんかは、ふーん、そうだろうな、と思う部分はあっても、病的すぎる。(感じがする。)親身な「相談相手を失う手段」くらいにしか思わない。

 

(児童文学ではないですが、以下の四冊も、考える支柱をくれました。)

ブラウン:わが魂を聖地に埋めよ

ヘリゲル:弓と禅

ガンジー:わたしの非暴力

渡辺京二:逝きし世の面影

絵本については、好きだった作品、そして、作者との交流が人生に影響を及ぼした、という視点で語りましょうか。でも、時間があるかな。

こんとあき、かばくん、ぴーうみへゆく、ペニロイヤルのおにたいじ、三匹のやぎのがらがらどん、くろうまブランキー、12のつきの おくりもの、ねずみじょうど、ねこのごんごん、フレデリック、まるのうた、あまがさ、からすたろう、きんいろのしか、こすずめのぼうけん、とべ!ちいさいプロベラき、わにわにのおふろ、

私を孫のように可愛がってくれた人。インドへ呼んだ人。パリで居候させてくれた人。アウシュビッツへ連れて行ってくれた人。ロサンゼルスで俳句の会に入れてくれた人。人生の紆余曲折の度に、絵本関係者に救われていた気がします。

親父の人脈のお陰です。人間は、「自立」なんて出来るはずもない。

 

(衆議院で参考人をした時に読んだ、小野省子さんの詩集も、お配りしようと思います。これは、私のホームページからダウンロードできます。:http://kazumatsui.com/genkou/014.html  省子さん、いつも伴走してくれて、ありがとう。)

そして、作った映像作品と最初のCDは、持参します。

CD「Time No Longer」は1枚目のアルバムで、当時の4大ギタリスト、リー・リトナー、ラリー・カールトン、スティーブ・ルカサー、ロビン・フォード、が参加しています。さて、超難問です。「このアルバムのタイトルは、どの児童文学から来ているでしょうか?」

 

 

DVD作品

 シスターチャンドラとシャクティの踊り手たち ~インドで女性の人権問題で闘う修道女の話~:http://kazumatsui.com/sakthi.html 

一人でカメラを回し、簡易ソフトで編集した作品ですが、第41回ワールドフェスト・ヒューストン国際映画祭、長編ドキュメンタリー部門で金賞を受賞しました。こんな内容です。

南インドのタミルナード州で、ダリット(不可触民)の少女たちを集め、裁縫や読み書き、権利意識について教えているカソリックの修道女が、彼女たちにダンスを教え、カーストや女性差別反対のための公演をしている。それが素晴らしいという友人の話に引き寄せられ、私はそれを映像に残そうとインドへ行きました。

ダリットの少女たちのダンスの美しさ、強さ、潔さに魅了されテープを回し、話を聞き、カースト制がいかに人々を抑圧差別しているかを知りました。最下層の娘と結婚しようとした男が兄弟に殺されるような事件が起こり、カースト内の人に出すコップでダリットにお茶を出したお茶屋さんが、焼き討ちにあったりする。現実に起こっているカースト制度の凄まじさに驚きました。

しかし、私が出会ったダンサーたちは美しかった。「ダンスの素晴らしさ」から「カーストの問題」へとテーマがシフトしかけていた私の視点は、踊り手たちと親しくなるにつれ、「絆」の方に向いていきました。少女たちの村に招待されてその世界に入って行くことによって、再度「人間の美しさ……」に引き寄せられました。

「園長先生と刺しゅう」

保育士は、資格を取る際、「福祉(保育)はサービス、親のニーズに応えよ」と政府の方針を教えられます。経営者の中にも、そう思っている人たちがいる。

これは、体験に基づいていない情報です。

(「情報は知識ではない、体験が知識なのだ」と、アインシュタインが言いました。政府がつくる「仕組み」や高等教育によって、「智の退化」が進んでいる。)

人間を管理しようとする作為的な情報に保育士が支配され、子どもの「願い」、「古(いにしえ)のルール」が見えにくくなっている。優先順位を忘れる人が現れ、保育現場における不信感が広がっている。

共感が遮断され、子どもの気持ちになれる人たちが「子育ての現場」に居づらくなっているのです。その悲しみがネット上の告白から伝わってきます。

保育者養成校では、政府の保育施策における優先順位が、「子育て」のそれと完全にずれていることを学生たちに教えていない。「社会で子育て」という言葉でごまかして「仕組み」の維持を優先している。そこに、園児虐待のような、常軌を逸した行動が起こる原因があるのです。

保育現場は、いまや、多くの子どもにとって生まれて最初の五年間になっています。人類にとって一番大切な、「輝くべき」「驚くべき」「感謝すべき」五年間が、社会が「利他」という人間性を失っていく場所になりつつある。

保育室における心の分断は、親のニーズと子どもたちの願い、その食い違いから起きています。

本来は次元の異なる、あってはならない矛盾の板挟みになった保育士たちの、自分は「どう生きるか」という選択が、「子育て」という最小単位の「社会」に亀裂を生んでいるのです。

 

 

「園長先生と刺しゅう」

全国あちこちに師匠と思っている園長先生たちがいます。先進国社会特有の家庭崩壊の流れを止められるとしたら園長先生たちが鍵を握っている、と思っています。

親が、まだ親として初心者のうちに幼児としっかり出会わせることが一番自然で効き目のある方法です。長く、こういう講演をしていると、達人のような園長先生に出会うのです。

 

もう三十年前になるかもしれません。こんな人に会い、こんな文章を書きました。一見無駄のように思える「刺しゅう絵」という作業が、親たちの人生に深みを与え、その感性を豊かにする。こういう園長たちが大地の番人のように、居た。

 

先日(注:30年前)、横浜南区のあゆみ幼稚園で講演しました。

講演の一週間前に、30年間の園の歴史をまとめた一冊の本が送られてきました。「育ちあい」という本でした。感動しました。

母親たちに毎年、園長先生が子どもが描いた絵を一枚選んで、その絵を元に、刺しゅう絵を作らせているのです。布を一枚渡し、子どもの絵を丁寧にトレースし、布の上に写しとり、そっくりそのままに刺しゅう絵に刺してゆくのです。

園長先生は言います。

「子どもがどこからパスをスタートさせたかを読みとり、パスの動きを追いながら一針一針進めます。そして約一ヶ月をかけて完成し、原画と共に園に提示して家族そろって鑑賞しあいます。もちろん祖父母のみなさんも大勢・・・」

子どもたちが10分ほどで描いた絵でしょう。

普通だったら幼稚園から持って帰ってきた絵をちょっと眺めて、ああ上手だね、と誉めてやって終わってしまったことでしょう。その絵を母親が何日もかけて同じ大きさの刺しゅうに仕上げてゆくのです。

本には、子どもの絵と母親の刺しゅうが上下に並べられたカラーのページがあって、それは見事でした。筆先のかすれているところまでちゃんと糸で表現してあるのです。

そして、その絵の下に、母親たちの感想が載っていました。私はそれを読んで、園長先生の達人ぶりに驚かされました。

 

「『やった!やった! ああよくやった』13日午前1時30分、一人で声をだしてしまいました。この4~5日、深夜に集中できました。子どものために、こんなに一生懸命になれることって何回あるでしょうか。さあ、今夜はゆっくり・・・」

「鳥の後ろ足の部分は主人が刺してくれました。刺し終えた時は、主人と二人で思わず『できたね』と声をかけあいました。いい思い出になると思います。」

「どんな巨匠が描いた絵より『ステキ、ステキ』と自画自賛しています。刺しながらどんどん絵の世界に引き込まれていきました。試行錯誤しながら作る過程は、まるでキャンバスに絵の具をおいていく楽しさでした。」

「できました! 3枚目です。もう最高です。産みの苦しみも赤ちゃんの顔を見たとたん忘れてしまう、今、そんな気持ちです。息子は左利き、私は右利き、同じような線にならず何回もほどきました。もうこの子のために、こんなに長い時間針を持つことはないだろう・・・、そう思いながら刺しました。今、一つのことをやり終えた充実感と三人分無事終えた安堵感でとても幸せです。」

「『お母さん、まだ、こんなところなの? ボクなんて、サッサと描いたんだよ』と息子が横目でチラリ。私だってどんなにサッサとやりたいか・・・。眠い目で遅くまで刺し、目を閉じると絵の線が、はっきり浮かんで夢にまででてくるのです。やっと終わった!という喜びと、もうこれで最後なのだという寂しさと・・・。この素晴らしい刺しゅうを持っている子どもたちは幸せだと思います。」

「途中でめげそうになった時、主人が少し手伝ってくれ、その姿を見て子どもも目茶苦茶ではありますが『手伝っておいたよー』と。よい思い出と、よい記念ができました。」

「この一ヶ月睡眠時間を削り、家族には家事の手抜きに目をつぶってもらい本当に大変でした。でも苦労した分だけ満足感も大きく主人から『ご苦労さま!』と声をかけられ、こどもからの『ママとても上手だよ。そっくり!』のひとことでやってよかったと思いました。」

「先輩のお母さまが相談にのってくださり、前年度の作品を参考にと貸してくださいました。『私だって初めの時は、同じように先輩にしていただいたから』のことばに胸が熱くなる思いでした。くじけそうになった時に応援してくれた主人と子どもたちにも感謝の気持でいっぱいです。」

「一針一針刺していると小さな針先から子どもの気持が伝わってくるのです。こんな素敵な、あたたかい気持との出会いができた刺しゅうに感謝します。」

「でき上がりました。目の疲労を感じながらも心は軽やかです。刺しゅうをしていくうちに、だんだんとこの絵が好きになっていくのです。とても不思議なことでした。いとおしいとまで思うようになりました。」

「すてきな絵を描いてくれた娘に・・・。家事を協力してくれた主人に・・・。アドバイスや励ましをくれた友達に・・・。何よりこの機会を与えてくれたあゆみ幼稚園に心から感謝を込めて。」

 

人間社会を家庭崩壊の流れから救う鍵がここにある。教育論や社会論、子育て論や福祉論、保育論を吹き飛ばす、すべてがある。

母親たちを動かすのは園長先生の人柄でしょうか。(祖母のような方です。)

 

園長先生にたずねました。「強制的に全員にやらせるのは大変でしょう」

すると園長先生は「いえいえ、強制じゃないんですよ。やりたい人だけなんです。でも100%志願なんです。それが嬉しいです」

私はハッとしました。そうなんだ。まだ日本の母親たちはすごいんだ。こんな園長先生の心を生き続けさせているのは、それにしっかり応えている母親たちなんだ。

「もう30年もやっているんですが、最近になって母親たちの間に、刺しゅうのやり方を伝えるノートが代々受け継がれていることを知ったんです。先輩の母親から、本当に詳しく、少しずつ書き加えていったんでしょうか。このクレパスの赤い色を出すには、何々社製の何番の糸がいいとか、かすれている部分をうまく表現するテクニックとか色々あって、そのノートが伝承されていくんです。子育てもやっぱり伝承ですから、先輩から次の世代のお母さんへ、受け継がれてゆく大切なもの、気持ち、がその中にあるような気がして嬉しかったんです」

 

わが子の絵を刺しゅう絵にする。

この一見意味のないように思える妻の無償の努力を傍らで見つめる夫。自分の描いた絵が時間をかけて少しずつなにかとても立派なものになってゆくのを、わくわくしながら見つめる子ども。一枚の刺しゅうを囲んだ家族の心の動き。

 

自分の手で再現されてゆくわが子の絵を見つめ、針を運びつづける母親の心。針の先に見えてくる絆・・・。

将来この一枚の布を見るたびに、母親の心に一ヶ月の凝縮された過去の時間がよみがえるのでしょう。

こんな課題を母親に与えてくれる園長先生がいた。

これは理論ではないな、と思いました。

 

子育ての「負担」を軽くしようと、延長保育やエンゼルプランを園に押し付けてくる文部省や厚生省の役人には、こういう大自然の摂理は理解できない。

 

発想が全然違う。

幸福感の次元が違う。

宇宙に対する見方が違う。

魂に対する理解度が違う。

 

園長先生が、幼児を見つめながらこれほどまでに心眼を磨いて真理を見ている。

親たちに「親」というひとつの形を舞わせている。その様式美に夫と子どもがちゃんと気づく。

「かたち」から入る日本の文化の真髄がここにあるのでしょう。理屈ではなく、かたちなのです。

人生は出会いだと言います。こういう人に出会える親たちの幸運。子どもたちの幸運。私の幸運。

さっそく次の日、鹿児島でこの話を園長先生たちにしました。

 

「すごい!」

「鳥肌がたつわ」

「私も頑張らなきゃ!」

 

口コミやSNSで、「ママがいい!」に書いた子どもたちの願いが少しずつ、広がっている気がします。保育士会からもっと聴きたい、と講演依頼が来ます。

マスコミも、保育施策に対する見方が変わってきているように思えます。義務教育における教師不足と、不登校児の異様な増えかたが、もう待ったなし、という感じです。やっと、みんな幼児の願いに耳を傾け始めている。

幼児期の体験の重要性が言われますが、昨今の母子分離(広く、幼児と過ごす時間の欠如)が仕組みによって行われていることを考えると、様々な形で、「幼児を体験すること」の方が重要になってきていると思います。

小学生、中学生から「幼児と過ごす」機会を増やしていく。やり方については、「ママがいい!」に実践例を書きました。

 

「ママがいい!」と、言っているのは、私ではありません。子どもたちなのです。その言葉に素直に反応していけば道筋は整うのです。

 今、世界中で、人間社会の土台になっていた「共感」の断絶が、進められている。

どんなに予算を使っても、保育も学校も、児相も養護施設も人材的に限界が来ています。共感に幸せを感じる人間の本能が、「社会で子育て」、実際は「仕組みで子育て」という学者(強者)の言葉に背を向け始めている。

子育てを、親に返していくしかないのです。それが、子どもたちの願いです。

FBの友達リクエスト、シェア、ツイッターのフォロー、リツイートなど、どうぞよろしくお願いします。このままでは、学校教育が持ちません。子どもたちが導き、その存在が社会を鎮める。その感覚を取り戻せばいいのだ、と強く感じています。

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(ブログ:http://kazu-matsui.jp/diary2/、ツイッター:@kazu_matsui)

児童文学と私 (教文館、ナルニア国での講演です)

4月5日、午後6時から、銀座の教文館ナルニアで講演します。3月15日から4月12日まで行われている父、松居直回顧展の一部です。

「児童文学と私」というタイトルで、私の思考、「ママがいい!」を書いた土台にある児童文学や絵本について話してみようと思います。初めての試みですが、楽しみです。

https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=pfbid0UZQG2hjMBi6NRai22mzxiNecV3KJSYp2iqTZQ9KsrpsJ7ppMKxHHAAAxugY4CnDtl&id=100057827763167

 

 

松居直追悼展関連イベント

 

松居和さん(松居直氏次男)講演会

“児童文学と私 ~考える道標としての児童文学~”

アメリカの音楽界で尺八奏者として多数のハリウッド映画に参加、プロデューサーとして100枚近いアルバムを制作し、同時に日本で長年教育・保育の問題で発言してきた、松居直氏の次男・松居和さんに、児童文学から学んだことや考え方の秘密についてお話をしていただきます。

また、今回の追悼展では息子にとっての父・松居直はいかなる存在だったのか、和さんの子どもの頃の読書やその後の人生にどのような影響を与えたのかなど、ご家族から見た松居直氏の姿もうかがってみたいと思います。

皆さま、ぜひご参加ください。

日時:2023年4月5日(水) 午後6時~7時半

 

※当日は午後5時までの短縮営業となります。

受付は5時40分頃からです。

会場:教文館9階ナルニア国店内

定員:40名(大人対象・託児なし)

参加費:1000円 ※現金のみ、当日受付でお支払いください。

●お申込み方法●

参加ご希望の方はお電話でナルニア国までご連絡ください。

申込み電話番号:03-3563-0730(午前10時~午後7時)

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【講師紹介:松居和(まつい・かず)】

1954年東京に生まれる。20歳でインドに行き、シルクロードを1年半旅する。カリフォルニア大学民族芸術科卒業。スピルバーグ監督の太陽の帝国ほか、多数のアメリカ映画に尺八奏者として参加。

日本では保育・教育関係の講演を行っている。元埼玉県教育委員長。7冊目の著作『ママがいい!』がアマゾンのジャンル別で1位に。

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「保育者体験」と「読み聞かせ」

 

逝った父(松居直)の、福音館書店主催の「お別れ会」があって、会社が作ってくれたパネルに、懐かしい絵本に囲まれた父の幸せそうな笑顔がありました。

私が好きだった本。読んでもらった本、自分が子どもに読んだ本、小学校の授業で使われたものもありました。

元々、金沢の書店だった福音館は、母方の祖父が起こした会社です。

東京に出てきたとき、父が編集長として絵本の出版を始めたのです。(その前に、同志社大学の学生だった父と母の恋愛という出来事があり、それがなかったら、絵本の福音館はなかったわけですが……。それどころか、私も、なかった。)

小さい頃、家にいろんな人が下宿をしていて(今江祥智さんとか、学生服姿だった藪内さん)、祖父の家に編集部があった時期は、学校帰りに「お邪魔」し、夏休みには、母や祖母が、大きな釜でご飯を炊いたりするのをながめたり、昼休みに路上で社員の方がするバドミントンに入れてもらいました。

ですから、この本たちは、私の人生の一部でもありました。

(その後、ミュージシャンやプロデューサーとして、私自身もカタログを作っていきました。デジタルドメインに滑り込んだお陰で、ネット上で「Kazu Matsui」や「Kazu Matsui project」で検索すると、まだ生きています。Google Musicやアップルストアでも扱っています。まるで、子どものような気がします。)

 

私は、三十年以上日本で講演をしてきましたが、松居直との関係については特に言わなかったので、知らない人も多いと思います。いま、父が逝ってしまったことをきっかけに、もう一度、読み聞かせの素晴らしさ、その不思議な力、重要性について、発信しなければと思っています。

 

インターネットを使う幼児の低年齢化が進み、二歳児の平均利用時間が一日六十五分だそうです。https://www8.cao.go.jp/youth/youth-harm/chousa/h28/net-jittai_child/pdf/gaiyo.pdf 。これは、「平均」です。

使わない子どもも居るでしょう。でも、2時間、3時間という子どもも、相当数いるはず。二歳児です。つまりこれは、親たちの選択なのです。

「失われた時間」と見なすには、この時間がもし「読み聞かせ」に使われていたら、と想像し、質を比較するか、なぜ、失われたのかという「動機」を考えてくしかないのですが、幼児と過ごす時間に対するイメージと価値が、急激に変化している。

少子化に煽られ、0歳児保育を税金を使って増やしていった政府や経済界の意図を考えれば、操られている、と言ってもいい。

「ママがいい!」と言おうとした声が、ゲームや映像、機械によって封じられて、やがて、それが「子どもたちの選択」になったとき、コミュニケーションの中心から「心」が欠けていく。

ある保育園の理事長が、0歳児を預けに来た親たちに言っていたフレーズが聞こえます。

「いま預けると、歳とって預けられちゃうよー」。

 

「可愛がる」ことの価値が希薄になってきている。

利他の幸福感や、優しさの肌ざわりが、双方向に親子の時間から奪われていく。それが、社会全体のモラルや秩序の欠如につながっている。

幼児期の親の意識の格差が、「集団で行われる保育や教育」に確実に影響し、「二歳児のインターネットの平均利用時間」の増加から、それが読み取れる。「失われた時間」が連鎖し、幾人かの子どもが流れを遮ることで学級崩壊が起こり、教師の精神的健康が保てなくなる。

二千人と言われる教員不足が、二倍三倍になっていくのでしょう。その原因を文科省は、特別支援学級を増やしたこと、と言うのですが、増やさざるを得ない状況にしたのは、就学前の母子分離に基づく政府の労働施策でしょう。

一体、どうするつもりなのか。

先日、私学会館で、私の講演の前に、子ども家庭庁を進めている内閣府の責任者が講演しました。子ども真ん中、とか、子どもたちの意見を聴く、とかパワーポイントを使って説明するのですが、願いの一番はじめにあった、「ママがいい!」という叫びを未満児保育・長時間保育で封じておいて、何を言っているんだ、と腹が立ってきました。私の番になって、講演で爆発してしまいました。

政府が、0歳から預けることを「補助金の出し方」で強引に推し進め、労働施策を「子育て安心プラン」と名付けたあたりから、(それを世論が、受け入れたあたりから)、この国も、危うい一歩を踏み出したのです。

0歳児の「願い」が、唐突に視界から消えていった。

その流れの中で、人間の脳が育つ環境が、「利便性」や「損得勘定」で汚染されつつあります。それが、学級崩壊や家庭崩壊につながっている。

「出会いの場」としての絵本の存在意義を見直すときです。

 

前回のブログにこう書きました。

よく、講演の後で、子どもが言うことを聞いてくれない、どうしたらいいでしょう、と質問を受けることがある。そんな時、絵本の読み聞かせをしてみてください、と言います。

絵本から始めて、パディントンや寺村さんの王様シリーズにつなぎ、リンドグレーン(長くつ下のピッピ、やかまし村、わたしたちの島で)、インガルス・ワイルダー(長い冬、はじめの四年間、農場の少年)、そして、サトクリフの「太陽の戦士」にまでつなげるのが、私の「オススメ」です。

小学校を卒業するまで、いや、中学生になってからも……。自分自身に語るのでもいい。いい児童文学には、人生を計る「ものさし」が生きています。

親子の体験の絶対量が減り、様々な問題が起こっている。だからこそ、読み聞かせ、という双方向への「体験」が、親子の絆にいい。就学前に、この習慣を身につければ、この国の、あの雰囲気が戻ってくる。

「お別れの会」に展示されたパネルを見ながら、絵本は子どもが読むものではなく、語ってもらうもの、という父の主張が、今こそ、生き還る時だ、と思いました。私たちにとっては、「別れ」ではないのです。これからが、ともに生きる、共同作業です。(前回からの引用、ここまで)

 

文章をブログに上げてから、私の保育や子育てに関する考え方や、七冊目の著作「ママがいい!」を書いた土台になっている児童文学が、我も我もと浮かんできて大変です。

スピアの「カラスが池の魔女」、ピアスの「トムは真夜中の庭で」、ルイスのナルニア国物語、トールキンの「指輪物語」、ブラウンの「わが魂を聖地に埋めよ」。児童文学ではありませんが、幼児の存在意義と重なった、ガンジーの「わたしの非暴力」。

そして、読み聞かせながら、背後にある静けさ、宇宙を親子で感じる、新美南吉と宮沢賢治。

 

児童文学から受け取ったものさし、それは即ち「子どもの目線」ということですが、そういう基準から私は考えることができます。

「ママがいい!」と子どもが言ったら、そうなのです。

これは、正直な、大地の宣言。

それを覆すことはできないし、その言葉から耳を塞ぐことで、人間は「人間らしさ」を自ら封じ込めていく。自由だとか自立、なんて言葉は児童文学では、絶対に通用しない。

(「わたしたちの島で」のチョルベンから、それを教えてもらいました。)

このくらいにしておきますね。とりあえず。

 

(銀座の教文館で3月15日から4月12日まで行われる父の回顧展、4月5日6時、「私と児童文学」というタイトルで私も講演します。児童文学からもらった「感覚」について、話します。)

 

「こどものとも」は、月刊という仕組みが良いのですが、岩波の「はなのすきなうし」「ちいさいおうち」「ひとまねこざる」「おかあさんだいすき」なども、石井桃子さんがご自宅でやっていた「桂文庫」で、一人ずつ応接間に呼ばれて石井先生に読んでもらいました。(石井桃子さんは、松居家では「石井先生」です。安野(光雅)先生は、本当に私の小学校の工作の先生でしたから、安野先生です。)

その後、自分で読む方に移って、岩波書店に、よりお世話になりました。

 

「読み聞かせ」という習慣を、子どもたちのためだけではなく、親たちが「気づき」「育つ」ために、もう一度習慣づけていければ、「親子の愛着関係が土台になる」社会が蘇ってくる。政府が進める母子分離政策に対抗するとしたら、「保育者体験」と「読み聞かせ」、この手段しかない。

このやり方で耕せば、「学校が成り立つ社会」が返ってくる。「ママがいい!」という言葉が尊ばれる社会が復活する。

「義務」である九年間が、多くの子どもにとって「いい時間」であってほしい、いま、それを強く感じています。

 

中学生くらいから、幼児に読み聞かせる「喜び」を体験させていくのがいいのです。幼児と過ごす体験が、いいもの、という感覚を取り戻せば、人生における利他の幸福感を味わえるようになる。

(「ママがいい!」に、中学生の保育者体験について書いた文章です。)

長野県茅野市で家庭科の授業の一環として保育者体験に行く中学二年生に、幼児たちがあなたたちを育ててくれます、という授業をして、保育園に私も一緒について行った。

生徒たちは、図書館で選んだり自宅から持って来た幼児に呼んであげる絵本を一冊ずつ手にしている。

昔、運動会の前日てるてる坊主に祈ったように、絵本を選ぶ時から園児との出会いはもう始まっている。

男子生徒女子生徒が二人ずつ四人一組で四歳児を二人ずつ受け持つ。四対二、これがなかなかいい組み合わせなのだ。幼児の倍の数世話する人がいる、両親と子どものような関係となる。一人が座って絵本を読み、二人が園児を一人ずつ膝に乗せる。もう一人は自分も耳を傾けたり、園児を眺めたりウロウロできる。このウロウロが子育てには意外と大切なのだ。

園児に馴染んできたところで、牛乳パックと輪ゴムを利用してぴょんぴょんカエルをみんなで作って、最後に一緒に遊ぶ。

見ていてふと気づいたのは、十四歳の男子生徒は生き生きと子どもに還り、女子は生き生きと母の顔、お姉さんの顔になる。慈愛に満ちて新鮮で、キラキラ輝きはじめる。保育士にしたら最高の、みんなが幼児に好かれる人になる。中学生たちが、幼児に混ざって「いい人間」になっている自分に気づく。女子と男子が、お互いを、チラチラと盗み見る。お互いに根っこのところではいい人なんだ、ということに気づけば、そこに本当の意味での男女共同参画社会が生まれる。

帰り際、園児たちが「行かないでー!」と声を上げる。それを聞いて、泣き出しそうになる中学生。一時間の触れ合いで、世話してくれる人四人に幼児二人の本来の倍数の中で、普段は保育士一人対三十人で過ごしている園児たちが、離れたくない、と叫ぶ。その声に、日本中で叫んでいる幼児たちを聴いた気がした。涙ぐんで立ち去れない幾人かの友だちを、同級生が囲んでいる。それを保育士さんと先生たちが感動しながら泣きそうな顔で見ていた。

 

 

「別れ」でもないかな。

父(松居直)の「お別れの会」が、2月22日に如水会館で、福音館書店主催で行われました。都合上、招待者に限られた会になってしまいましたが、引き続き銀座の教文館で、3月15日から「松居直、回顧展」が、4月の12日まで行われます。よろしければ、ぜひお越しください。

「お別れの会」に、上皇后様が、いらして下さいました。

絵本や児童文学を通して、五十年以上の長きにわたり、父はお話し相手をさせていただいたのだと思います。感動しました。

父が、最後にお誕生日会に呼ばれた時、私は運転手役で御所に行きました。

隣の部屋で待っていると、上皇后様のピアノの演奏で、ドクトル・ジバゴの「ララのテーマ」が聴こえてきました。

ハッとし、不思議な感じがしたのをいまでもはっきりと覚えています。

 

曲を作ったフランス人作曲家モーリス・ジャールを私は、人生の友人と言っていいほどに、よく知っていました。ドクトル・ジバゴの他に、「インドへの道」、「アラビアのロレンス」でアカデミー賞を受賞しているモーリスは、映画音楽に私の尺八を使った最初の人でした。「将軍」でした。

その後も、何本かの製作に関わり、スペインやフランス、ポーランドでのモーリスのコンサートに参加しました。たった一曲吹くだけですが、モーリスは私と旅をするのが好きだったのだと思います。

旅の間に、様々に興味深い話を聴き、私の日本での講演活動などについて議論しました。

 

D-day、ノルマンディー上陸作戦の日に、潜伏しながら、その情報をラジオから聴いた時のこと。

第二次大戦後、フルトベングラーがフランスでの指揮を解禁され、初めてのパリの演奏会でフランスのオーケストラを振ったときティンパニーを叩いたこと。カミュやコクトーと演劇の仕事をしたこと。

彼の誕生日には、ウエストハリウッドのオランジエリに招かれました。私の二枚目のアルバム「幻の水平線」に、一曲書いてもらいました。音楽監督をした映画「首都消失」の作曲も引き受けてくれました。

病を押して、最後に来日した時、レコード会社を通じて私に連絡してきて、帝国ホテルのロビーであったのが、「別れ」になりました。

モーリスとのことは、いつか、しっかり書きたいと思います。また、いつか旅をしたいです。

上皇后様がお選びになり、演奏された、モーリスの曲を聴きながら、父の運転手の私は、音楽の不思議さを思い、メロディーの凜とした優しさを、魂で感じていました。音の並びが、「心」になって次元を超えていくのです。 人間は、こういう領域で会話をする。人生が交差する。

ララのテーマ: https://www.youtube.com/watch?v=phpRjeQdOFg 

(写真は、ポーランドでのコンサートです。)

 

 

父と私は、東洋英和女学院の短大保育科で同じ頃教えていたことがあって、教え子が八年間ほど重なっています。

「お別れの会」に、教え子代表のように二十人ほどを招待しました。(みんなに声をかけることが出来ずにすみません。教文館の方で、集まりませんか? また、現場の話を聴きたいです。)

そのうちの数人が、授業で父に絵本の読み聞かせをしてもらった時のことを言うのです。それが楽しみだった、と。

授業の内容よりも、絵本を読んでもらった体験のことを鮮明に覚えている。

「絵本は体験です」と言っていた父の言葉が、彼女たちの思い出から伝わってきました。授業も、そうなのです。情報よりも、体験であって欲しい。

私も、そういう気持ちで授業をしました。いまでも、一期一会、そしてそれが伝わっていくように、と思い、講演をします。

 

よく、講演の後で、子どもが言うことを聞いてくれない、子育てに失敗しました、どうしたらいいでしょう、と質問を受けることがあるのです。そんな時、ふと思いついて、いまからでも遅くはない、絵本の読み聞かせをしてみてください、と言います。

絵本から始めて、パディントンや寺村さんの王様シリーズにつなぎ、リンドグレーン(長くつ下のピッピ、やかまし村、わたしたちの島で)、インガルス・ワイルダー(長い冬、はじめの四年間、農場の少年)、そして、サトクリフの「太陽の戦士」にまでつなげるのが、私の「オススメ」です。

小学校を卒業するまで、いや、中学生になってからも、もし聴いてくれるなら、読み続けることを勧めます。聴いてくれなくても、自分自身に語るのでもいい。いい児童文学には、人生を計る「ものさし」が生きています。

私の、オススメ本は、いまの私の考え方の土台を作っているのです。

こんな、有効な、便利な方法を、私に残してくれた親父に感謝です。

 

いま、親子の体験の絶対量が少なくなって、それが原因で様々なことが起こっている。だからこそ、読み聞かせ、という「体験」が、親子の絆に有効で、いいのです。就学前にこの習慣を徹底させれば、この国の、あの雰囲気が戻ってくる。

「お別れの会」に展示されたパネル、お袋とシナイ山に登っている写真を見ながら、絵本は子どもが読むものではなく、語ってもらうもの、という父の主張が、今こそ、生き還る時なのだな、と思いました。私たちにとっては、「別れ」ではないのです。これからが、ともに生きる、共同作業なのです。

 

追伸:会には、父が仕事をした絵本関係者の子どもたちが、一度「子どもたち会」を開きたくなるほど来ていました。みんな60を越えているのですが、なぜか、似たような環境で育った者同士、「子どもたち」という感じがします。堀内さんとこの紅ちゃん(花ちゃんは、堀内誠一展が四国巡回中のようで欠席)、ちひろ美術館の松本さん、藪内さん、丸木美術館の久子さん、ぐりとぐらの絵をお描きになった山脇百合子さんのご子息の健太郎さん、いらして下さり、ありがとうございました。

凄い保育

 

「子育ては一人ではできない。性的役割分担がなければ始まりもしない。

これは良い仕掛けです。」

と前回書きました。

 

種の存続に必要な「子育て」を、人生を支える喜びとして受け入れ、その責任を自分の価値と重ねる、そうやって人間は調和を目指した。もちろん全ての人とは言いませんが、多くの人がその道筋を理解し、その責任を人生の中心に置かなければ人間社会は成立しない。

その土台が、福祉と教育によって誤魔化され、歪められていく。

 

乳児という「足かせ」が本能を刺激して、生まれて初めての小さな笑顔に「嬉しくなる」自分に気づいたとき、人間は自分の人間性を確かめる道を歩み始めるのでしょう。

人生は、自分を体験することでしかない。

幼児たち、特に0、1、2歳児が、その年、その年の、二度と繰り返すことができない役割を果たすことで、育てる側に助け合いの絆が育ち、利他の幸福感へ導かれていった。

 

以前。と言っても十年くらい前でしょうか。三人目を産めば保育料無料、と決めた自治体があって、タダだから、と0歳から預ける親たちが結構出ました。

市長は、自慢げに言うのですが、私を講演会の前に市長と会わせた園長たちが、食い入るような目で、二人の会話を聴いていました。

直感的に、選択肢を持っていない、三人目に生まれた子どもの人権問題だと思いました。兄弟や姉妹がこの短い特別な時期を一緒に過ごす機会が、いいことをしている気になっている市長によって奪われていく。

もちろん、その道を選択したのは親たちです。

しかし、初心者と言える、まだ育っていない親たちに、十一時間保育は「標準」と国が言い、子育ては負担で大変だからタダでやってあげる、と首長が誘い、プロに任せた方がいいんだ、と学者や厚労大臣が言って、責任の所在をあやふやにしたら、「なんとなく、そんなものか」と預けてしまう親たちが増えてもおかしくない。

国が用意した一見いいことのように見える選択肢が、労働力確保のための巧妙な誘導になっている。一番困るのは、それが0歳児の願いや役割と相反していることが忘れられていくこと。その結果、「子育て」が心を失い、保育士不足と質の低下が学校教育を破綻させようとしている。

国によって作られている道筋が、いかに子どもたちの将来を苦しいものにしていくか、もういい加減にわかったでしょう。少子化なのに「児童虐待過去最多」、「不登校児も過去最多」、保育士不足に連動するように拍車がかかる「教員不足」。

それでも、やめない。

働いていなくても預けられるようにすべき、などと言い出す保育学者さえいる。自主性、自己肯定感などと、1対20で出来るわけがないことを言い続ける学者もいる。彼らは、実習生の受け入れ先が、どれほど破綻してきているか知っている。実習先の園で、虐待まがいのことを学習してくる学生たちさえいることを知っている。

 

〇歳児一人の保育に毎月三十万円から五十万円使っている税金を、直接給付で、月に五万円でも親に渡し、支援センターとの組み合わせで友達や相談相手を作りながら、自分で育てる道を薦めたら、そうする親たちはまだ相当数いる。数年前に国が行った保育のニーズ調査にそれは表れていた。(それをしなかったのは、保育施策が雇用労働施策の一部で、女性の就労率のM字型カーブを無くすことが、国際社会の仲間入り、みたいに思われていたから。実は、この「国際社会」は、「欧米社会」でしかないのですが、この種の欧米コンプレックスは忘れた方がいい。犯罪率で比較すればわかりますが、真似すべき、欧米社会などどこにもない。)

子どもたちの願いを含んだ選択肢を用意し、親たちの意思によって、親たちの選択で保育士不足を解消していかないと、このままでは学校教育がもたない。

それがすでに現実になっている。

 

(その後、私の講演を聴き、園長たちが必死に頷くのを見た市長は、ずいぶん考え方を変えました。)

 

保育園がたくさんある市が子育てしやすいと宣伝され、誰もそれに疑いを抱かなくなっている。間接的に、母子分離をさせるほど、いい街なんだと政府が言っているようなもの。

土曜日、日曜日でもどこかの保育園が開いていて、短時間でも、リフレッシュでも、親のニーズに応えて、誰かが預かる街を、子どもにやさしい街、とマスコミが報道する。躊躇せずに仕組みに預ける若者たちが、そのことに慣れていく。誰に預かってもらうかなど気にせず、慣らし保育も無しに、「ママがいい!」と叫ぶ子どもを、初めて訪れた園に置いていく。

それが当たり前になってしまった親たちの子どもを、義務教育である学校は引き受けなければならないのです。

そんな街が、本当に「子育てしやすい」街なのでしょうか。

 

政府の「子育て安心プラン」で保育の質が下がり、虐待や事故がこれほど報道されているのです。子どもにとっての日々の安心が、いつの間にか消えていっていることを、立ち止まって、考えてみて欲しいのです。

集団の中で成長していくためのカリキュラムとか、週や月をまたぐ保育の流れなどは、もうどうでもいい、子どもと保育士の入れ替わりが激しすぎて、保育計画など立てようがない、家庭へつながる親との連携などできるはずがない、そんな保育園が増えているのです。

保育園の常識が壊れていく。

 

それでも一向に構わない政治家たちは、単に親のニーズに応えて選挙に勝つことが「保育施策」だと思っている。

 

一歳半から二歳までの園児を相手に、三十分ほど続く「ごっこ遊び」、しかもストーリー性のあるものをさせることができる保育士たちがいました。それができることの「すごさ」を知っている人はあまりいないのですが、実はこれは凄いことです。この年齢だと、通常、集中力が続くのは五分が限度でしょう。

そのごっこ遊びに、突然、隠れていた親が登場し、子どもたちを救ったりすると、もう子どもは唖然としてしまい、次に大喜び、保育室がまさに「不思議の国」になるのです。そんな、保育園と家庭をつなぎとめる保育をやっている園が、以前あっちこっちに残っていたのです。

こんな風に育った子どもたちは、きっと将来、童話作家になったり、オペラ歌手になったり、魔法使いのような保育者になったりするのでしょう。

その、すごい保育士たちの努力と、日々の積み重ねによって創造された次元を超える時間が、リフレッシュ保育や、一時預かり、といった、突然見知らぬ子どもが入ってくる「サービス」で細切れにされ、伝統が途切れていった。

幼稚園が「不用意に」こども園化したりする時もそうですが、保育者たちの工夫や、子どもたちと作った歴史が、「あと四十万人預かれ」という首相の掛け声や「子育ては専門家に任せておけばいいのよ」という、何も知らない厚労大臣によって踏みにじられていったのです。

 

集団保育の中で、様々な「流れ」を作ることで育っていた、子どもたちの感性、協調性や「秩序の楽しさ」「可愛らしさ」が、「保育は成長産業」「福祉はサービス」という閣議決定で壊され、幼稚園や保育園が次々と託児所化されていった。

それが、学級崩壊や不登校児の急増を招いていることなど、誰も知らないのだと思います。その経緯を、ぜひ、「ママがいい!」を読んで、理解していただきたい。

国が進めた「保育のサービス産業化」によって、私たちの社会から何が失われていったか、知って欲しい。

 

子育てに多く税金を使えば、それが子育て支援だ、と安易に報道し続けるマスコミが一番問題なのかもしれません。ワイドショーの司会やコメンテーターが、待機児童をなくせ、と疑いも抱かずに言い始めた頃から、報道も市場原理の一部になり、「欲の資本主義」に取り込まれていったのでしょう。

待機児童は、常に、0、1、2歳児だったのです。この人たちは、保育園の前に並んで、「入りたいなぁ」と、一度も言わなかった。弱者たちの願いは、常に私たち大人の想像力の中にあった。この国の将来は、利便性ではなく、私たちが選択し、維持する「常識」に委ねられていた。(そして、多くの場合、現場の保育士の人間性に委ねられていた。)

 

 

「ママがいい!」、ぜひ読んでみてください。同意できないこともあるでしょう。でも、「欲の資本主義」が仕掛けた罠が限界に達していて、このままでは学校教育がもたない、しかし、私たちには、なんとかするチャンスが与えられていることだけでも、知ってほしいのです。

FBの友達リクエスト、シェア、ツイッターのフォロー、リツイートでも結構です。よろしくお願いします。

(ブログ:http://kazu-matsui.jp/diary2/、ツイッター:@kazu_matsui)

 

良い仕掛け

最近、気になるのは、子育ての現場で保育士同士の信頼関係が揺らいでいること。辞めていく理由にもなっている。あえて「子育ての現場」と言ったのは、「仕事」と見なすことが、不信を生む原因の一つだからです。

考えてみれば、「資格」という言葉もまさにもろ刃の剣です。

 

子どもたちの視線を正面から受ける、子育ての最前線にいる人たちの生き方が揺らいでいる。

心が一つにならない。

子育ての存在理由、人間性の基本を鍛え、支えるはずの「信頼」が、子育ての社会化(仕組みで子育て)によって壊されようとしている。

 

 

同じ部屋で保育をしていても、他の保育士の保育には口を挟まないことが不文律になっている園があります。それが、「保育」を持続可能にするための「知恵」、手段なのです。

0、1、2歳児を挟んでの「見て見ぬ振り」、主任や保護者に対する「沈黙」、保育室で始まるこの断絶がどれほど危ないものなのか、気づいて欲しい。

 

同類の「心の動き」が、いま世界中に広がっています。様々な「分断」の根っこに、それがあるのがわかる。赤ん坊を育てる、という体験が、共通項として消え始めているからです。

この分断は、子どもたちにとって、異常な環境の変化です。

人間が、「社会」を形成する「動機」を自ら壊し始める。子育ては、絶対にお金では買えないし、買おうとしてはいけない。

 

マザー・テレサは、愛の反対側にあるのは憎しみではなく、無関心です、と言いました。そこには無関心を装うことも含まれます。

「親身な」絆を手に入れ、人間同士が信じて、守り合うためにあった「子育て」が、仕組みの手に移り、それを維持することで、存在意義を捨てていく。

(結果としての家庭崩壊と人生の孤立化が、地球温暖化にまで連鎖している。)

 

子育ては一人ではできない。性的役割分担がなければ始まりもしない。

これは良い仕掛けです。

 

その「良い仕掛け」を、イライラの原因、負担だ、不公平だ、と言って、政府が「福祉」の名で、(本質は「労働力確保」なのですが)肩代わりしようとした。三年離れると職場復帰が難しい、と言って、0歳から預けることを奨励した。

専門家や学者たちも、幼児を集団にする「この非常に新しい仕組み」を、それが進歩であって、いいもののようにいう。保育の質の低下を知っていながら、「ママがいい!」という言葉に耳を貸さない。

最初の三年間を大切にしないと、生きること、その後の人間関係を作ることさえ難しくなる、と国連もWHOも言っているのに、「エビデンスは?」とか、「神話に過ぎない」と言って「利他への道筋」を閉ざそうとする。

それなら最初から、子どもの権利条約など批准しなければいいのです。

 

最近の教師不足や、児童養護施設における子どもたちの荒れ方、苦境に立たされる保育士や指導員たち、政府の施策に憤る園長先生たちの姿を見ていると、学問が「子育て」に関わることの危うさを感じます。

自主性とか、自己肯定感などと、わけのわからないことを言っていてもいい時期は、とっくに終わっている。

こういう言葉は、親がそこそこ親らしかったから使えた言葉。個々の保育士の資質と、無資格やパートでもいいとした政府の規制緩和を考えれば、ほぼ机上の空論でしょう。むしろ、仕組みとしては言ってはいけないこと。親たちが、「私にはできない」「専門家に任せた方がいい」と思ったら、保育界は絶対に受けきれないのですから。

保育学者たちはいますぐにでも、無理です、予算があっても人材がそろいません、と正直に言って、十一時間保育を「標準」とした国の施策の撤回を求めるべき。少なくとも、どちらの味方か、立場を鮮明にすべき。

子どもたちが「ママがいい!」と言ったら、ママがいいのです。その叫びが、最近、悲鳴に聴こえます。

例えば、気の弱い子がいて、この子にはもっと自主性を、とか、自己肯定感を持って欲しい、そんな使い方ならわからないことはない。

でも、これ以上自主的にやられたら迷惑だ、集団保育が成り立たない、成長して、自己肯定感が強くなったら、第二子は保育料無料なんて言いかねない、場合もある。

「自己肯定感」を強くしたら傲慢になって、ウクライナに攻め込むかもしれない人間もいる。

 

「個性を大切に」と言う学者がいたのですが、個性の半分は明らかに短所です。「怒りっぽい」という個性は、あまり大切にしてはいけないですし、「のんびりしている」「涙もろい」「好戦的」なんていう個性は、大事にするかどうか、短所なのか長所なのか、賛否が分かれると思います。

「自分は生かされている、感謝しなければ」みたいな、仏教とか、キリスト教、ネイティブアメリカンとか、そういう人たちの、みんなで生きているんだ、という感覚を広める方がずっといい。それが、一番自然な「自己肯定」でしょう。

 

子どもの自主性をどの程度尊重するか、どの個性を大切にするか、それを考えることは親たちに与えられた役割で、特権。「趣味と都合」の問題だと思います。

子育てに正解などないし、正しい基準もない。「可愛がること」を土台に、親たちが、迷い、考え、オロオロと様々な決断をすることで、人生を見つめ、育っていく。家族が心を一つにし、特別な絆が育っていく。それが、「子育て」の一番大切なところ、中核です。

 

「子どもたちの自己肯定感」を心配するより、保育士たちの、「子どもを可愛がる喜び」を守ることの方が保育には重要なのです。

その姿に親が感謝し、自分ですれば良かったと思えば、そんな感じがいい。

 

いま、保育崩壊の一番の原因は、二十年近く続いている保育士不足です。保育士を人柄で選べなくなっている。それが、不信感を増幅させている。「三歳未満児保育」を、国がこれだけ進めれば当然そうなる。わかっていたはず。

保育や教育の無償化、と政治家は言いますが、預ける先の質がこれだけ落ちてきている時にそれをしたら、一番大切な「子どもたちの日常」を無視した、不良債権の先送りになってしまう。

保育も教育も、もっとも重要なのは、人材の質です。その問題を少しずつでも解消しようと思ったら、三歳までは、出来る限り親たち(または家族)でみる、直接給付と子育て支援センターの充実という方向に進むしかない。そこから「子育て」に対する意識の耕し直しをしないと、すべてが空回りというか、損得をお金で計った「やったふり」の積み重ねに過ぎなくなる。

 

すでに、予算や財源の問題ではなくなっているのです。もちろん待遇改善や配置基準の見直しはしてほしい。ですが、問題はすでにそこから離れている。人材の絶対量の不足は誤魔化せない。

可能な限り子育てを親に返していく。この道筋は、子どもたちの願いと重なっています。広まれば、乳幼児の、本当の役割にみんなで気づくことにもなる。

彼らとの時間は、静かで平和なもの。私たちの心が鎮まって、落ち着いてさえいれば、人間社会の土台となるもの。

取り戻せる時間の具体的なやり方については、「ママがいい!」を読んでみてください。まだ方法はあります。国が、母子分離に基づく経済施策を止めてさえくれれば、そこから立て直すことは可能です。

どうぞ、よろしくお願いいたします。

 

(「ママがいい!」の感想をいただきました。励みになります。図書館で、順番待ちになっているそうです。子どもたちからのメッセージ、広がってくれるといいのですが。)

松居 和 さん、素晴らしい本をありがとうございます。

私の教育観、価値観、人生観と共通することが多く、とても共感しました。「人として生きる根源」だと思いました。

今多くの子育て本や成功ノウハウ本が出版されていますが、なんか違うなと感じていましたが、この本は納得できる、世の中の矛盾を的確に説明してあると思います。

社会や物事の見方考え方を見直すきっかけになると思います。

すくなくとも私がそうですから。

 

(そして、フェイスブックに、以前こんな書き込みがありました。)

熊本県私立幼稚園PTA連合会の理事会にて正式決定されましたので解禁です。

記念すべき

第40回の保護者大会が

令和5年2月3日(金)に開催されます。

講演は【ママがいい!】著者の

松居 和先生です。

働く親として

保育者として

ウチの園の先生たちも

一晩で読んでしまった!

と話していて

先生の著書からヒントを得た取り組みをどんどん展開しています。

実際にお会いしてお話をうかがうのを楽しみにしています。

#ママがいい #松居和 先生

逝ってしまった父(松居直)が出演した番組が再放映されます

明日、一月二十八日(土)午後1時から、NHK Eテレ こころの時代 アーカイブ「言葉の力、生きる力」で、昨年逝ってしまった父(松居直)が出演した番組が再放映されます。「絵本」は親子の出会いの場、についてです。

二十年前の姿、ご覧になっていただければ幸いです。子どもの私も写真ででます。

ネットでは、二週間、いつでも見れるみたいです。https://見逃したテレビドラマを見る方法.xyz/こころの時代/松居直/

 

 

父と一緒に最後に講演した時、サービスエリアで沼津湾を眺めてコーヒーを飲んでいる父の姿です。

2015/10/ 3 11:06

その頃、もう父は講演をやめていたのですが、和さんと一緒なら来るよ、きっと、という主催者の策略😀で、私は運転手兼講師でした。免許を取った時から、羽田や東京駅に送り迎えをするのが、私の役割でした。

講演で父は、三十分くらい話して、主に戦争体験の話だったかな、「あとは、和に任せる」と言って、笑いながら交代してしまいました。

 

人類にとってのカウンセラーの代表が、0、1、2歳児だった

 

こんな記事がありました。

相次ぐ保育所での虐待 保育団体と保育士会が緊急セミナーを開催

https://news.yahoo.co.jp/articles/e11b9e9279cb1ad8587fd2f8b9ac1e25ef657710 

記事に、保育協議会と保育士会の会長が「『こどもの最善の利益』を守る保育が実践できているかを改めて確認し、その姿勢や日々の保育活動を地域に発信していくことを呼び掛けた」とあります。

国の、十一時間保育を「標準」と名付けた無責任な量的拡大が、『こどもの最善の利益』をまったく優先していない、親たちも自分の都合を優先している、それを言わないと、保育士たちにだけ要求しても、ますます、保育の質は落ちていくばかり。

国は、「保育」を「飼育」程度にしか考えていない。

それによる幼児期のトラウマが、いま、学校教育を追い込む。教員不足が急速に進んでいますが、ここ数年の不登校児の増加は異常です。それを進めているのが、国の経済政策パッケージ:「子育て安心プラン」です。(この辺りのことは、ぜひ、「ママがいい!」を読んでみてください。)

幼児期のトラウマについて、一つの象徴的な例を上げます:人口の四人に一人がカウンセリングを受けるアメリカで、いい加減なカウンセラーが、人々の悩みや精神疾患の原因を「幼児期」の体験からくるトラウマ、親との関係、特に性的関係に原因がある、と診断してしまうのです。その確率が高いのですから、仕方がないとも言えますが、まったくそういうことがなかった人も、その診断で「良好だった」親子関係を壊されてしまう。

そして、父親との関係を、診断という洗脳によって壊された患者が、数年してから、時には父親が亡くなった後、今度はカウンセラーを訴え、損害賠償を請求するケースが起こっている。

人々の間で、子育てが人生の中心から外れることによって広がる、幼児期の体験をめぐる様々なトラウマが、歪んだ「市場原理」と重なって、修復が困難な分断と対立を、社会に生んでいる。

そんなアメリカから、去年、銃の乱射事件が一日平均二件、犠牲者は平均四人、というニュースが流れてきました。

(2020年、アメリカでは銃による死者が30%増加。近年は黒人への暴力が目立ち、対抗して武装する団体も登場している。 https://www.nhk.jp/p/wdoc/ts/88Z7X45XZY/episode/te/P38R5M86P9/ 

子育てに必要なのは、カウンセラーではなく、相談相手。しかも、相談相手からいい答えが返ってくるかはそんなに重要ではない。子育てに正解はないし、必ずうまくいく、という手法もない。

「親身な」相談相手がいるか、いないか、が大事なのです。みんなでオロオロする、そんな感じがいいのです。

強いて言えば、人類にとってのカウンセラーの代表が、0、1、2歳児だったのでしょうね。

0歳児との一方通行に思える会話が、一年掛けて、人間に祈ることを教える。1歳児との会話が、理解することではなく、理解しようとすることが、平和や秩序をもたらすことを知らせる。そして、2歳児との会話が、利他の気持ちと忍耐力を耕す。

人間がもっとも違った形で生きるこの三年間をしっかり見て、関わって、抱きしめて、自分を見つめておかないと、人生の可能性の半分くらいを放棄することになるのではないでしょうか。

政府の、幼児と人間を引き離す経済施策が招いた混乱を見ていると、せっかく、カウンセラーや弁護士をあまり必要としない、いい国だったのに、と残念を通り越して、悔しくなります。