諏訪の御柱祭

 

 諏訪の御柱祭を茅野で見ました。

 涙をこらえながら見ました。女性の木遣り歌に、子どもたちの木遣り歌がかぶさって、男たちに気合いを入れる。この辺りでは、歌うと言わずに、泣く(鳴く?)と言うそうです。

 男たちが、丸太(御柱)にまたがって、おんべを振りながら、女たちと子どもたちに見守られて、合図と共に斜面を落ちてゆく。

 神々の前で、男たちは時々、自分の中に4歳だったころの自分が居ることを確認しなければならない。砂場の砂で幸せになれたことを憶い出し、幸せは自分の心持ち次第、と憶い出す。

?女と子どもに見つめられ、丸太に乗って落ちてゆくだけで、幸せになれることを確認する。

 人間は、こういうことをしなければいけない、と思いました。

 

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 茅野市とは長いお付き合いで、7年に一度の御柱祭も、元行政アドバイザーという肩書きで招待していただきました。

 時々思い出すのは、一日保育士体験を市の全ての保育園で始めて二年目のこと。園長・主任先生たちと、市役所の会議室で年に一度の報告と質疑応答をしていた時のことです。

 1人の主任さんが「保育士も、一日保育士体験するんですか?」と私に訊いたのです。幼稚園が一つしかない市ですから、保育士も預け合っています。しばしば親の立場でもあるのです。

 すると間髪を入れず、1人の園長先生が「それはそうでしょう。子どもが喜ぶんですから」とおっしゃったのです。

 通じている、と思いました。嬉しかった。みんなで、ひとつ何かを越えたのです。

 子どもがよろこぶことをする、それがすべての始まりなのです。

 

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茅野市のこと、そして保育士不足

(ふと思いついて、「茅野」で自分のブログを検索すると、色んな思い出が出て来ました。三年前のブログからです。今の保育界の状況はすでに予測できたのです。((2013224) http://www.luci.jp/diary/2013/02/post-190.html

 

 講演の前後に園長、役人と必ず話すこの国の一番危険な状況。

 「保育士居ないですよね」

 「はい、困っています」。

 「悪い保育士、辞めさせられないですよね」園長先生の顔が一瞬顔が強ばり、ゆっくり深く頷く。認めてはいけない、しかし認めざるを得ない。子どもたちの顔が目に浮かびます。実は横にいる役所の人も知っています。園長が何度も頼んだからです。「あの保育士は現場に居てはいけに」と。でも、待機児童を増やすわけにはいきません。

 「その風景を見て、いい保育士が辞めていきますよね」じっと私を見つめる目が必死に訴えます。もう無理ですよね。

 

 一日保育士体験は、親に見せられる保育をする、という保育士たちの宣言です。品川の公立園長が「こういうのを待ってました」と言ってくれた時は嬉しかった。いま全国で、派遣でつなぐ保育が増え、資格だけ持っていて心のない保育士を雇わざるをえない状況に現場が追い込まれています。役場から定員超えの要求がありほとんどの園で一割増の園児数。

 そして親たちの心ない批判。(理にかなった批判ももちろんあります。)

 あちこちで、親に見せられない保育に現場が追い込まれ始めている時、品川の園長たち、茅野の園長たちの言葉は嬉しかった。親心の喪失に歯止めをかける方向に動くことが出来れば、まだ保育士たちを「生き甲斐」でつなぎ止めることはできます。。

 

 茅野の園長主任と2年目に入った一日保育士体験について話合った。嬉しい報告を全員からもらいました。父親参加が3割を越え、信頼関係が出来る、モンスターが止まる。時にはこの時とばかり粗捜しをする親もいます。「そういう親は室町時代でもいたですよ」と言うと大笑い。

 「子どもが喜びますよ!」そう繰り返すことで、子どものための保育園だと親たちも気づけば、保育士たちの元気が還ってきます。

 

 これだけ現場を追い込む施策が続くと、一日保育士体験で生まれる親の感謝の気持ちで保育の質を保つしかない。

 子育ては技術ではない。人間が心を一つにすること。

 やがてそれが学校教育を支えることを信じ、子どもたちの、「親を育てる,人間を育てる」力を信じ、一人の園長が決心すれば出来ること。保育指針という法律に、保育参加と書いてある。でも、「子どもが喜びますよ」を繰り返す。

 

 午前中に茅野市長と懇談し、午後所沢の保育園で講演。市長が聴いてくれて、そのあと夕食。保育士がいない現状を話す。市長が、保育が親心を軸に老人介護までつながっていることを理解してくれるとありがたい。

 乳児が屋根の下にいるだけで、家の気配が変わる。幼児が横に座っているだけで人類はいい人類になる。それを市長が理解してくれれば、なんとかなるはず。

 以前このブログに書いた4つの話です。

 生体人類学的に考えたとき:

 11時間保育を標準と名付けた政府の無感覚、無責任が問われないことの異常さ。そして0、1、2歳児を親から引き離そうとする経済論とそれを問題にしない社会学者たちの存在。「社会」の定義が崩れているのか、オンになるべき遺伝子がオンなってこないのか、何かがとても奇妙で不自然なことが始まっています。

 

 

ゾウがサイを殺すとき

 

 サイを殺し始めたゾウのドキュメンタリーを以前、NHKのテレビで見ました。アフリカの野性のゾウの群れが、突然サイを殺し始めた、というのです。もちろん殺して食べるわけではありません。ただ、殺す。

 ゾウがサイを殺しても警察や裁判で止めることはできません。言葉が通じませんから、ゾウに質問することもできません。カウンセリングをしたり、道徳を教えることもできない。人間は、懸命にその理由を考え、想像します。

 環境の異変がゾウの遺伝子情報と摩擦を起こしているのではないか。そしてある日、サイを殺し始めたゾウが人間によって移住させられた若いゾウばかりであることに気づきます。

 ゾウのサイ殺しは、巨大なゾウを移送する手段がなかった時代には、絶対に起こりえない現象だったのです。麻酔をかけて眠らせることはできても、巨大なトラックがなければゾウは運べなかった。それが可能になり、人間の都合で、その方がいいとなんとなく思って、若いゾウを選んで移送し、別の場所に群れをつくらせたのです。すると、ゾウがサイ殺しを始めた。

 考えたすえ、試しに、年老いた一頭のゾウを移送し、その群れに入れてやったのです。すると若いゾウのサイ殺しが止まったというのです。

 年老いたゾウは、きっと道祖神ゾウに違いない。

(私は、道祖神園長が座っているだけで、親たちを鎮める話を以前書いた事があります。)

 ゾウの遺伝子がどれだけ人間と重なっているのかは知りませんが、哺乳類で目も二つ鼻も一つ、共通点はたくさんあります。脊髄があって脳みそもあって、コミュニケーション手段を持っているわけですから、こういう本能と伝承にかかわる動物の行動は、とても参考になる気がします。言葉が通じないときに、人間は深く考えるのかもしれません。幼児を眺める行為と似ています。

 

 

園が道祖神を生む話

 

 数年前、熊本で二代目、三代目の若手保育園長、理事長先生の研究会で講演したときのことです。初代が女性でも、なぜか園を継ぐのは男性が多く、男性中心の会でした。懇親会で少しお酒が入って、若い園長先生がマイクを握って言いました。

 「松居先生。親御さんは、僕の母、先代園長の言うことはよく聞いたのに、なんで僕の言うことは聞いてくれないんでしょう」

 保育の核心にせまる質問です。私は嬉しくなって考えました。

 「先代は、お元気ですか?」と尋ねました。元気です、という返事に、「まさか、先代を引退させてしまったんではないでしょうね」

 保育園も代替わりを迎えています。ビジネスの世界の真似をし、後進に道をゆずる、時代に即した経営、などと言います。日本各地で、創設者である園長理事長が引退する現象が起こっています。しかし、忘れてもらっては困ります。保育園という特殊な「子育て」の仕組みが「代替わり」を迎えるのは、人類の歴史始まって以来のこと。保育園や幼稚園は「子育て」という太古からつづく伝承の流れに関わっていながら、ごく最近作られた新しい仕組みです。お団子や歯ブラシを売るのとはわけが違い、その仕組みを創り上げるには細心の注意が必要です。経営を譲るのはいい。でも、園という不思議な空間を単純に二代目に任せていいのでしょうか。

 「四〇年以上勤めた保育士に『引退』はありません」と私は若手園長に言いました。

 「保育士を二〇年、一人の人間が幼児の集団に二〇年も囲まれれば、『地べたの番人』という称号を得ます。四〇年勤めれば、『道祖神』という格づけになっているのです」

 そのときたまたま「道祖神」という言葉が浮かんだのですが、眺めるだけで昔日の真実を感じるものならば、なんでもいいのです。

 「まさか、道祖神を引退させたんじゃないでしょうね」

 笑いながら話すと、若手園長はすぐにピンときたようで、理解し、苦笑いし、すみません、という顔になりました。

 「道祖神はいるだけでいいんです」と私はつづけました。

 「園の中を歩いているだけでいい。車いすに乗って子どもたちを眺めているのもいい。ひなたぼっこをしているのもいい。門のところで毎朝親子を迎えるだけで、園の『気』が整ってくる。園の形が、すーっと治まってくるんですよ。母親の心が落ち着きます。その瞬間、あなたは道祖神の息子です」

 子どもたちが育ってゆく風景の中で、私は園長という名の道祖神たちを見てきました。直接教わったこともたくさんあります。道祖神のいる風景から、私は考え、保育における視点を学んだように思います。園は、子どもが育ち、親が育ち、道祖神が現れ、親心が磨かれてきた場所。

 そういう場所には絆が育ちます。言葉では説明のつかないコミュニケーションの絆が、大自然に近い秩序を生む。日本人はそういうことに敏感だった。大木を切ることにさえ躊躇してきた民でした。

 

 もう一人の若手園長が、酔った勢いで口を開きました。「うちの道祖神は、もう亡くなってしまったんです」

 私は、ちょっと考えてから、「老人福祉をしている所に行って、一つ拾ってくればいいんです」

 ちょっとお借りしてくる、という言い方が正しかったと思います。

 人間は幼児に囲まれなくても、一〇人に一人くらいは、ある年齢に達したとき、道祖神の領域に入ります。平和で幸福そうな顔ができあがっています。もうすぐ宇宙へ還る人たち。欲から離れた人たちだからこその落ち着きです。

 そのあと、私は宴席で密かに思い出していました。数日前、NHKの特集番組で見た「インカ帝国のミイラ信仰」を......

 文化人類学的にです、あくまでも。

 ご先祖のミイラが村に一つあって、それに向かって村人の心が鎮まっている風景。心が一つになっている。村が治まる。それに比べれば、園の道祖神たちはまだ歩いている。

 人間が遺伝子の中に持った太古の流れを、時々意識しないと本来の目的を見失います。それどころか、幸せに生きるための秩序を失います。私の想像力は、また一歩飛躍します。厚労省がこんな告知をしたら、すばらしい決断と言えるでしょう。

 「保育園で道祖神を引退させると法律で罰せられます」

 厚労省が、いつかこういう視点を持つことができるだろうか?

 いまのところ、答えは否、でした。情報に頼りすぎる思考の進み方にも問題はあるのですが、一番の問題は現場の風景を知らない、知っていてもそこから「感じることができない」。

 次元が幾重にも交錯する人間の「気」の交流現場に気づきにくい人がシステムを考えていることに、現代社会の欠陥がある。感性が鈍っている。官僚と呼ばれる人も、家へ帰れば子どもの運動会に一喜一憂し、保育参観日に行き、ふと我に返るはず。実は細胞は死んではいない。生きる機会と場所を失っているだけです。

 アンデスの山を思いながら、「道祖神は、ちょっと惚けてきたら、なおいいのかもしれない」と思いました。惚ける人間の存在にも必ず意味がある。生まれて一年目に、ほんの少し笑うだけで周りを幸せにして親心と絆を育てた人間は、歳月を経て、いつか歩いているだけで周りの気を鎮める、神のような存在になりたいのだと思います。

 

 道祖神を見る人間の目や心の動きを教育の現場に復活させる方法はあります。教育局の人たちが「保育士体験」に参加して幼児の集団をたった一日見つめるだけで、地球に変化はある、と思いました。いまの常識にとらわれることなく、幼児を意識した視点や様ざまな絆が生まれる環境を、子どもたちが育つ仕組みに取り入れていかないと、親の潜在的不安は治まらないでしょう。もっと預けたくなるでしょう。

 意識的に太古の視点を復活させなければ、学校という歴史の浅い巨大なシステムが、はるかに古い魂を持つ「家庭」や「部族」という絆を崩壊させるのが、私には見えます。

 家庭が崩壊しては困ります。家庭が幼児を守り、幼児こそが、道祖神を生み出しているのですから。

 

 私は、質問をしてくれた園長先生のお寺で、引退した先代にお会いしました。みごとなお顔でした。

 「四〇年以上園児に囲まれた保育士に引退はないのですよ」とお話しすると、先代はとても喜んでおられました。

 「園に行きたい、とこのごろ思っていたんですよ」とおっしゃった道祖神と二代目のお嫁さんの姿を、私は携帯電話のカメラで撮影しました。私の道祖神コレクションの一枚になりました。

 

 

「これでいいんだ」

 

 人間50歳も越えると、二十代三十代では見えなかったものが見えてくる。

 60歳も越えて、そろそろ宇宙に帰ろうか、という時期に、「早くいい人間にならなければ」と思います。人生は自分自身を体験する事でしかない。自分がいい人間だ、と思えれば嬉しい。思えなければ、仕事に成功しても、お金を貯めても虚しい。

 いい人間に成りたいと強く願っている人間の前に、人間をいい人にするひとたちが現れる。それが幼児。孫です。祖父母と孫の関係は、特別いいのです。いい人に成りたいと思っている人からいい人になるのが順番。

 幼児という、ついこの前まで宇宙の一部だった弱者と、老人というもうすぐ宇宙へ還ってゆく弱者が、欲を持たずに、楽しそうに役割を果たしているのを見て、人々は安心する。私もたしかにこうだった。そして、私もこうなる。

 幼児と老人が出会うと、「これでいいんだ」という笑顔の交歓が行われます。その交歓を風景として見つめるのが、これからの人間社会に一番いいのだと思います。

 

 

チンパンジーとバナナ

 

 私の好きな人類学者にジェーン・グドールという人がいます。龍村監督のガイアシンフォニーにも出演しています。アフリカのタンザニアでチンパンジーの研究をしていた人で、初めてレクチャーを聞いたのが四十年前、カリフォルニア州立大学(UCLA)での特別講演でした。? ジェーンは、チンパンジーがシロアリを釣り上げる道具を使うことを発表し、道具を使う動物は人間だけと言われていた定説をくつがえしました。野生のチンパンジーの群れと過ごし観察した研究は、人工的な研究所での観察が主体だった学会に、その後大きな影響を及ぼしました。? 彼女が第二のセンセーションを学会にもたらしたのがカニバリズム(共食い)。仲間同士の殺しあいや、群れの中で起こる子殺しを含む非常に残酷な仕打ちが、映像とともに発表されました。それは人間たちに恐怖心を起こさせるほど、人間的な情景でした。チンパンジーの遺伝子は動物の中で一番人間に近いのです。? あとになって、より多くのフィールドワークが行われて、このしばしば残酷で時には共食いさえするチンパンジーが、ジェーンの研究していた群れに限られるのではないか、ということがわかってきました。皆無ではありませんが、ほかの群れでは仲間内のこうした残虐な行為がほとんど行われないというのです。? ジェーンの群れとほかの群れの違いは、ジェーンの群れが餌づけをされていたことでした。野生の群れに近づくため、ジェーンは当初から群れにバナナを与えたのです。それも、なるべく一匹一匹に「平等に」行き渡るように工夫をしました。いまでこそ、野生動物は本来の生態を損なわないように観察することが常識になっていますが、当時、草創期のフィールドワークでは、そこまでルールが確立されていませんでした。? この報告を真摯に受け入れたジェーンがインタビューで、「いま私が持っている知識があれば、餌づけはしなかった」と、悲しそうに答えていたのが印象的です。? このバナナに当たるものが、私たち人間にとって何なのか。? チンパンジーの残虐さは、序列を取り戻そうという行為の一つでしょう。序列によって保たれていた秩序が、バナナが平等に与えられたことによって崩れ、生きてゆくための遺伝子の何かがはたらいて、殺しあいやカニバリズムにまで群れを駆り立てたのだと思います。しかも、集団として駆り立てたのです。? 進化の過程で、ジェンダー、雄雌の差を手に入れたとき、私たちは、「死」を手にしました。それまでは、細胞分裂で進化し、つぶされでもしないかぎり生は永遠につづいていたのです。「死」を受け入れた代償に、私たちは次世代に場所を譲る幸福感を得たのかもしれない。? しかしいま、豊かさの中で、人間は死を受け入れることが下手になっています。パワーゲームの幸福感を追い、執着し、死から意図的に逃げようとしている。「一度しかない人生」という言葉がその象徴です。? ネアンデルタール人などを研究する古人類学では、男は狩りに出て、女が子どもを見るという労働の役割分担ができたとき、人類は「家族」という定義を発見した、といいます。性的役割分担が希薄になったときに、人間は家族という意識を少しずつ失うのでしょう。いい悪いの議論は置いておくとして、これが現在、先進国社会で起こっている一つの流れです。男性的なパワーゲームの幸福論が、母性的な幸福論に勝り始めている。それが、結果的に女性と子どもに厳しい現実を生み、男性には寂しい現実を生んでいます。(男が結婚しない、これが少子化の一番の原因です。)? 何十万年も積み上げてきた遺伝子が、豊かさに耐えられなくなって、眠っていた遺伝子を起こし始める。同性愛者が増えるのは、人間の進化の中で一つの防御作用でしょうか。しかし、ジェンダー以前、つまり単細胞に戻るには滅亡しかない。? 男らしさ女らしさがあってこそ、「親らしさ」が存在する。親になることは、男らしさ女らしさの結果です。そして、子どもを産み、男らしさ女らしさが適度に中和され、自然界の落としどころ「親らしさ」に移行するために必要なのが、「子育て」なのだと思います。? しかし、パワーゲームに組み込まれた「子育ての社会化」が、親らしさという視点で心を一つにするという古代の幸福感を揺るがしている。? ? ジェーンの群れのチンパンジーが残虐になった理由の一つは、自分の子孫を残したいという雄の本能でしょう。雌の発情を促すために、その雌の子を殺す。? 死への恐怖からくる「命を大切に」という言葉と、死への理解からくる「命を大切に」という言葉は異なります。死への恐怖は競争社会を生みます。死への理解は人間を謙虚にするのです。

 人間の営む現代社会においてバナナにあたるものは何か。九八%遺伝子が同じとはいえ、人間とチンパンジーではちがいます。単純ではないと思いますが、思いつくままに、バナナかもしれない言葉を並べれば、自由、平等、学問、学校、教育、保育、福祉、人権......? (資本主義? 共産主義? 民主主義? 宗教?......)(移動手段? ファミリーレストラン? 携帯電話? インターネット? スマフォ?......

 もちらん、これらを否定しているのではないのです。バナナを手に入れたあと、殺しあいにならない方法を考えればいいのです。例えば、意識的に幼児と接して、信頼の本質を学ぶとか、一緒に彼らを眺めることによって、絆の心地よさを感じるとか。

 (まずバナナが存在することを意識し、気をつけることです。)


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犬にはちゃんと法律が出来たのに

 

 新聞にこんな記事が載っていました。(この記事から三年が経過、現在は56日になっています。)

 「生後56日までの子犬子猫、販売引き渡し禁止へ」

 ペット店での幼い子犬や子猫の販売を規制する動物愛護法の改正を巡り、民主党は22日、生後56日(8週)まで販売目的の引き渡しを禁止する方針を固めた。自民党や公明党などとともに改正案を提出し、今国会での成立を目指す。ただし、ペット店に対する移行措置として、施行後3年間は規制を生後45日までに緩和する。その後も子犬や子猫を親から引き離すことについての悪影響が科学的に明確になるまでは、規制を生後49日までとする。

 環境省によると、ペット店では年々、幼い犬や猫を販売する傾向が強まっており、動物愛護団体は「親から離す時期が早すぎると、かみ癖やほえ癖がつく」として規制強化を求めていた。

 

 寿命が人間より短い犬にとっての56日は、人間にしてみれば一年くらいでしょうか。56日目の子犬はもうちょこちょこ歩いていますし、乳離れもしていますから、人間の2才半くらいかもしれません。

 人間の幼児にもしっかりこういう法律を作ってほしい。同じ哺乳類ですから。

 霊長類の親子の愛着関係はとてもデリケートで繊細なものだ、とチンパンジーの幼児虐待の研究で知られるジェーン・グッデルも言っています。ちょっとしたバランスが崩れることによって、霊長類の暴力的行為は始まる。ジェーンの場合は「餌付け」でした。野生のチンパンジーに餌付けをしたことで小猿殺しや共食いが始まったらしいのです。

 簡単に比較するわけにはいかないのですが、親から早く引き離すことによって、子犬に、「かみ癖や、ほえ癖」がつくなら、75%の遺伝子を共有する人間にも似たような可能性があるかもしれない。

 最近、保育園で一歳児の噛みつきが不自然に増えています。ほえ癖とは言いませんが、ひょっとして人間でいうところの「いじめ癖」がつくのも、早くから親子を長時間離し過ぎるのがその一因かもしれない。

 一歳で噛みつく子の増加に、「一人の保育士が一日10時間一週間一対一で接すると噛みつかなくなる、4才5才になってからでは遅い」と言う園長先生もおられます。親子の愛着関係の不足は学校教育を成り立たせなくする気がしてなりません。最近、学校の先生やPTAの役員のひとたちに講演したのですが、いじめの質がここ五年くらい普通ではない気がすると、何人もの方が言います。私も実際にいじめる子たちの顔つきを見て、異様さを感じることがあります。以前より暴力的になったというよりも、子どもたちの表情に、冷たさ、魂の粗さを感じるのです。

 なぜ、子犬に関する法律が現場の意見を反映し与野党一致で法律として通り、人間の乳幼児の愛着関係を守る法律はなかなか提出されないのか。

 たぶん、違いは「親」です。

 人間の親は、生きてゆくために必要な本能を、豊かさの中で失おうとしている。そして選挙権があるかないかでしょうか。

 民主主義は、親が親らしい、人間が人間らしいという前提のもとにつくられています。同時に選挙権が成人(親)にしかない、という重大な欠陥を持っています。しゃべれない乳幼児が何を望んでいるか、イメージする想像力が欠けてくると、この制度は人類の存在を揺るがすような負の連鎖を生み、社会における絆の崩壊を招きます。

 

 人間は、時々、動物や大自然を観察し、自分たちの進化する方向性を大自然の一部として考え、起こっている不自然な出来事を見極めないと、自分で自分の首を絞めるようなことになってゆく気がします。

 この新聞の記事から、インドの野良犬たちのことを思いだしました。(私の思考は、けっこう不可思議な飛び方をします。)

 インドでは、都会でも田舎でも、飼い犬はほとんど見かけません。犬を売り買いするひとたちは、まず、いません。犬たちは人間社会と古い自然界の中間あたりをうろうろし、昼間は暑さと闘わずにぐったりと寝そべっているか、ときどき身の回りに以前からある人間たちの社会と必要に応じて交流するかして暮らしています。

 夜になると野生の血が騒ぐのか、元気に走り回り縄張り争いをしたり、満月の晩は遠吠えをしたりする。馬鹿馬鹿しいように思うかもしれませんが、ふと思うのです。この犬たちが今度日本の国会で審議され通るであろう法律のことを知ったらなんと吠えるだろうか。ありがとう、と言うのか。

 親犬の気持ちはどうなるんだ、と言われたら人類は応えようがない。

 そのあたりまで想像力を働かせないとはっきり見えてこないのでは、と「動物会議」という児童文学で主張したのは詩人で思想家のケストナーでした。

 国会で定数削減、消費税、そんな問題で大騒ぎするより、子犬の将来を心配してつくった法律を、人間の子どもにも適用するような法律をつくることの方がはるかに重要です。それを、この国の政治家やマスコミはいつになった理解するのでしょうか。

 

「保育園落ちた、日本死ね


 「保育園落ちた、日本死ね」。ネット上で話題になり、国会でも取り上げられた誰かが書いたブログのタイトルです。首相の、匿名では実態はわからない、という国会答弁が火をつけ、「保育園落ちたの、私だ」サイトが立ち上がり、少人数ではあっても国会前でのデモにつながりました。呼応するように「保育士辞めたの、私だ」サイトがじわじわと燃えています。保育の問題に注目が集まるのはいまとても重要だと思います。マスコミも真剣にこの問題の本質を見極めないと、保育の質の低下はこの国の将来に取り返しのつかない打撃を与えます。

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「保育園落ちた、日本死ね」

何なんだよ日本

一億総活躍社会じゃねーのかよ。

日見事に保育園落ちたわ。

どうすんだよ私活躍出来ねーじゃねーか。

子供を産んで子育てして社会に出て働いて税金納めてやるって言ってるのに日本は何が不満なんだ?

何が少子化だよクソ。

子供産んだはいいけど希望通りに保育園に預けるのほぼ無理だからって言ってて子供産むやつなんかいねーよ。

不倫してもいいし賄賂受け取るのもどうでもいいから保育園増やせよ。

オリンピックで何百億円無駄に使ってんだよ。

エンブレムとかどうでもいいから保育園作れよ。

有名なデザイナーに払う金あるなら保育園作れよ。

どうすんだよ会社やめなくちゃならねーだろ。

ふざけんな日本

保育園増やせないなら児童手当20万にしろよ。

保育園も増やせないし児童手当も数千円しか払えないけど少子化なんとかしたいんだよねーってそんなムシのいい話あるかよボケ

国が子供産ませないでどうすんだよ。

金があれば子供産むってやつがゴマンといるんだから取り敢えず金出すか子供にかかる費用全てを無償しろよ。

不倫したり賄賂受け取ったりウチワ作ってるやつ見繕って国会議員を半分位クビにすりゃ財源作れるだろ。

まじいい加減にしろ日本

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 この人の指摘。いまマスコミで報道されている次元において、ほぼ正論です。保育は国が作っている仕組みの一部ですから、表現の仕方としては乱暴で感情的に過ぎますが、こうした表現方法でこうした発言が出るのは理解出来ます。こういう心理が飛び交う状況にこの国がある、ということです。

 しかし、国会前で赤ん坊を抱っこした母親が「保育園落ちたの私だ」とプラカードを掲げているデモの映像に首を傾げた人は少なくないはず。「保育園落ちたから自分が活躍出来ない」という主張は、よく考えればかなり現実離れしている。自分を活躍させるのは自分ですし、金銭の授受につながらなくても、それを評価するのも自分です。活躍する方法は心の持ち方次第で色々あるはず。例えば、三歳まで自分で育て、そのあと幼稚園に子どもを預けている母親たちには、あの風景には簡単には受け入れることが出来ない違和感があるでしょう。そして、保育園に一日十時間乳幼児を預けることなど想像もできなかった時代に子育てをしてきた人たちが、この国にはまだたくさん生きている。その人たちが、「母親してる方が、活躍出来るし、輝いているんじゃないの?」とか「保育園がなかったころも、夫婦はほとんど共働きよ」と、自分の人生や選択を振返って思っても不思議はない。自分の選択した道、運命だったとしても、制約がたくさんあったとしても、通って来た道を肯定したくなるのは人間として自然です。そして人生は、そうしようと思えば、肯定できる、感謝できる瞬間に満ちているはずです。

(「活躍」の仕方を男が勝手に決めるなよ、という思いもあるのかもしれません。今回の燃え上がり方は、日本が、法律以上に、「言葉遣い」によってモラルや秩序を保とうとしている国だったことが背後にある気がしてなりません。この発言が英訳されたら大したことではない。この発言の言葉遣いに、日本という国が身震いをした。この仕掛けについては過去にも書いたので、今回は書きませんが、文化人類学的にはかなり特殊な言語の使い方をしている国です。)

 保育園落ちた日本死ね、母親の感情がこういう方向に怒りとして向かうのは保育界にとっては危ない。私は、まずそう感じました。子育てを誰かがやってくれないことに対して向かう怒りの矛先には、それを代わりにやっている人たちがいる。保育士、園長、教員、役人。教育や保育を越えて子育ての仕組みを構成しているのは実はそういう人たちで、それを作った政治家や学者ではない。そこが見えていないと、危ない。

 0才児を保育園で預かるなんてとんでもない、と保育園の園長たちが普通に言っていた時代がつい最近までありました。それは預かる者たちにとって、本能的に、超えてはいけない一線だったのだと思います。それを越えると、保育がただの仕事になってしまう、とみんな薄々気づいていたのではないか。それほど0才児の私たち対する信頼は絶対だった。

 

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 保育園落ちた、活躍出来ない、と叫ぶほど「いい保育士」たちが辞めてゆく。そのことに気づいてほしい。保育界の崩れ方はいま恐ろしい段階に入っている。(このブログ「シャクティ日記」に繰り返し色んな角度から書いています。ぜひ読んで下さい。価値観が多様化し、社会が「子育て」という中心を失い始めていることが危ない。)

 次の保育士を育てるはずのベテラン保育士たちが、最近呆れ顔で去ってゆく。保育士は大学や専門学校では育たない。現場で、毎朝園児を出迎え、一日幼児に囲まれ、夕方親に1人ずつ手渡し、先輩の後ろ姿を眺め、見よう見まねで育つもの。そして、子どもを親より優先する気持ちがないと、それはもはや保育ではないのです。

 親より子どもを優先するから、保育者は、親身なきびしい助言をすることによって、しばしば親子の人生に関与して来た。救ってきた、と言ってもいい。子どもの表情を見極め、園長が夫婦を呼び出し話すことによって家庭崩壊やDVや虐待が止まった。それに準ずる小さな出来事が毎日のように起こっていたのが保育園でした。それほど「幼児を一緒に育てる」ということは人間に親身なきびしい絆を要求して来るのです。

 その一家にとって故郷のように思える場所になることが、園の役割だったのです。

images.jpeg 十数年前、長時間保育(当時八時間)は子どもによくないと白書で言った厚労省が、新制度で11時間保育を標準と名付けた時、政府は馬脚を現し、保育者たちはそれを見抜いた。保育指針で「心をひとつに」と言って置きながら、誰でもいいからただ預かっていればいいんだよ、という施策が矢継ぎ早に現場に押し付けられた。政治家の都合で簡単に変わる施策に幼児の将来は託せない、片棒を担ぐのはご免だと感じた保育士はたくさんいました。いま保育の問題は「お金」ではなく心の問題。幼児を一緒に育て社会に育つはずの、心が育たなくなってきている、そこが問題なのです。


保育園も増やせないし児童手当も数千円しか払えないけど少子化なんとかしたいんだよねーってそんなムシのいい話あるかよボケ。」

(その通り!施策の考え方が浅い、浅い。学者も政治家も、いい加減!)

 保育士が揃わないと認可園でも無資格者を雇うしかない。「今日は保育士がいないので子どもを連れて帰って下さい」と言えないのが保育園。無資格者を入れることは本来違法だったのですが、すでに日常化していた。役人は、わかっていてもそれを正すことが出来ない。そういう状況に保育園を追い込んだのが自分たちだと知っているから。


(すでに、次年度の定員を減らす、0才児を預からない、という決断を下す私立保育園や、保育士の数に合わせて予算組みをする自治体が出ています。安全第一です。それでいいのだと思います。)


 年に一度の国家試験に加え、一発試験でとれる地域限定型保育資格ができ、数日間の講習でなれる子育て支援員が時給20円ほどの差で現場に受け入れられるようになる。保育士不足を補うために資格や制度の規制緩和が、どんどん国によって慌てて)進められた。これはいわば大学や保育専門学校の授業は必要なかったという国による宣言です。保育科の教授や専門家は保育には必要なかったということ。資格の価値が下がれば、志望者の質が下がる。高校の進路指導ですでに迷走が始まっている。(ここが一番怖い。)

 

image s-6.jpeg すでに園に預けている親たちがいることを考えれば、確かに「日本死ね」は乱暴過ぎます。実態は、限られた数の保育士を親たちが取り合いしているということ。しかし、こういう状況を一気に作り出したのは国という見方は私もしていますから、これを機に、国の保育施策のいい加減さとその方向性(経済戦略)が、しっかり問われるべきです。

(株式会社や財源のある自治体によるなり振り構わない保育士争奪戦は、地方はどうなってもいいという姿勢があからさまで、国の将来などまったく視野に入っていない。獲得方法を成果のように吹聴する首長を見ていると、選挙のことしか見えていない醜ささえ感じます。)


 匿名では実態かどうかわからないと首相が国会で言えば、実態を知らない人たちが保育に必要でない人たちを使って保育施策「子ども・子育て支援新制度」をつくり進めているということになる。実際にそうだと思います。(私も本当は、「ボケ!」と言いたいくらい。)新制度のパンフレットを見て保育士たちは傷ついているのです。「みんなが、子育てしやすい国へ」と表紙に書いてあるのですが、これをやったら「みんなが、子育て放棄しやすい国へ」になるんじゃないのか、と感じている。幼保一体化という現場を知らない机上の論理で取り繕って、実は未満児保育を増やそうとしているだけなのでは、と気づいている。そして、保育の多様化で質を落としても市場原理に組み入れようとする魂胆が見える。市場原理を取り入れれば税金を節約出来るというやり方は、介護保険の時と同じ論理で、いまの老人介護の質の低下と、結果としての家庭崩壊を見れば、同じことが保育界に起こることは容易に想像出来たはずです。

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 新制度によって、親と保育者の信頼が急に希薄になっています。親への利便性と雇用施策で制度を作れば、幼児を育てている保育者たちの反発を招く。そして、「サービス」を求める親たちの現場への風当たりは以前にも増して強くなっている。挨拶しない、見学にも行かない。注意をすればプライバシーの侵害と気色ばむ、慣らし保育にさえ文句を言う親が地方でさえ増えてきている。残念ながら、これでは保育士は辞めてゆく。いい保育士が去ることが、「痛みをともなう」社会全体の自浄作用なのかもしれません。

 「保育園落ちた、日本死ね」ブログをきっかけに、突然、そうだそうだ、という議論が国会で始まりました。

(今回の急激な保育士不足を生み出した施策は、民主党政権時代に「新システム」と呼ばれた制度から始まり、それが三党合意で自民党に受け継がれたものです。だから民主党も歯切れが悪い。「待機児童なくせ」の向こう側に「もう保育士がいない」という現実があるのに、そこをあまり言わなかった。この保育士不足は、三人目を生めば保育料無料、就労証明無しでも土曜日も預かれ、幼稚園も三歳未満児を預かれ、2時間働けば11時間預かる、11時間保育を標準とする、といった政治家の無責任な人気取り政策と、保育で儲けようと企んだ人たちによって創られた。

 本当に働いている人の勤務時間プラス通勤時間だけ預かっているのなら、病児・病後児をやったとしても保育士は充分過ぎるほど足りています。それを保育士たちが知っていることが待機児童問題の根底にある

 ただ待機児童をなくせ、と言うのではなく、幼児期の子育てに関わる問題は、国の存続、あり方に関わる緊急かつ最重要問題だと理解する政治家が現れてほしい。

 この時期の子どもたちの体験が将来にわたってこの国の教育、福祉、保安に影響を及ぼしているという強い意識を持ってほしい。そうすれば、待機児童問題は自然に解決する。本当に預けなければならない人たちは、預けられるようになる。


当事者たちの気持ち


 この問題が議論される時に、未だに「子どもの気持ち」と「保育士の気持ち」が話題の中心に入ってこない。

 政府の現在の保育施策(新制度)が、この二つの日々寄り添う気持ちを無視しているから仕方がないのですが、マスコミの報道なども、一番の当事者である、毎日園庭で遊ぶ「子どもたち」と「保育者たち」の気持ちに関してはまだほとんど言わない。

 言ったとしてもそれは待遇面や労働環境であって、もっと深い所にある「育てる者が、子どもたちの幸せを願う気持ち」という次元で捉えようとしない。多くの保育園で、雨の日も、風の日も、毎日寄り添うこの二つの気持ちを正面から見つめ、感謝を込めて、本気でマスコミが扱わない限り、昔気質の、子どもの幸せを願う、親にしっかり忠告する保育士は消えてゆく。保育には、絶対に失ってはいけない「子どもに寄り添う心」が必要であって、その心が去ってゆく。その心を伝える者たちが去ってゆく。保育士不足を補うために、とりあえず、その代わりに入ってくる保育者の多くが、まだ育っていない保育者たちなのです。その保育者たちもまた現場で育っていかなければならないのです。幼児の信頼が親を育て、親の感謝が保育者を育てる。そして学校教育を支える。


 この時期に「保育園落ちた、日本死ね」とネットに投稿した人は、役割りを果たしたのだと思います。その手法や元々の目的がどうであれ、一度議論が行く所まで行かないと、この問題の深刻さと本当の意味が見えて来ない。しかしこれはまさにもろ刃の剣で、この投稿と報道を機に、役場や保育の現場への苦情や要望が、一段ときつく、心ない言葉遣いになってきている。それに嫌気がさした役場の人たちが、政府の方針に従って、現場の保育士たちの気持ちを無視した無理なシフトを組んだり、明らかに能力に欠けた保育士を、資格者だというだけで採用したりしないことを心から願うのです

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カナダのケベック州で「全員保育」という試みがされた。それがどういう影響を子どもの育ちに及ぼしたかという報告がある。

「全員保育universal daycareプログラムが子どもにどのような影響を与えるか。ケベックのシステムで育った子どもたちは、他の地域に比べ、10代以降、主観的な健康状態も低く、生活に対する満足度も低く、犯罪率も高かった」http://itsumikakefuda.com/child_Quebec.html

(「全員保育」「ケベック」でネット検索すると報告が読めます。)

 欧米で、子どもはなるべく親が育てた方がいい、という考え方が施策の主流に還ってきています。北欧では、子どもを持つ親の労働時間を制限する動きも進んでいます。子育ての社会化で家庭崩壊が始まると福祉の予算が追いつかなくなり、それに加えて治安が悪化することは、ケベック州の報告だけでなく、すでに繰り返し実証されているのです。最近、家庭に居場所がなかった子どもによる犯罪が増え、裁判で生育歴、愛着障害が減刑の理由になる事件が日本でも起こっています。

『クローズアップ現代(NHK)〜「愛着障害」と子供たち〜(少年犯罪・加害者の心に何が)http://www.luci.jp/diary/2015/02/nhkde.html

 しかし、日本は家庭が崩壊していないという面では欧米の半世紀くらい前の状況で、まだまだ奇跡的にいい。欧米の数倍の確率で実の父親が家庭に存在する。子育てが人々の生活の中心にあったからだと思います。

 日本の父親は子育てをしない、などと言う馬鹿げた学者がいましたが、家庭に居て、収入を入れているというだけでも相当立派なもの。家庭に居ない、収入も入れない実の父親が半数近い欧米に比べれば、驚くほど子育てをしている。だからこそ、いま父親の一日保育士体験を実施して、幼児に囲まれる幸せ、幼児に信じてもらう幸せを取り戻して欲しい。まだ間に合う。

『板橋区の一日保育士体験/感謝!!/「子どもが喜びますよ」の繰り返しで http://www.luci.jp/diary/2014/12/post-257.html

 昔から幼稚園と保育園の選択肢がある地域(例えば埼玉県とか横浜市)では、3歳までは自分で育てそのあとは幼稚園という選択をする親がまだ7割いる。それをもってして「日本は遅れている」という人もいるのですが、それは遅れているのではなく、欧米が4、50年前に選んだ「社会で子育て」という選択を前に踏みとどまっている、ということ。人類の長い歴史を考えれば、この躊躇は適切で合理的だと思う。

 「女性の議員が少ない」とか「会社の役員に女性が少ない」と批判されても、パワーゲームやマネーゲームに勝つことに目標を置く偏ったものさしは、日本の風土には本来合わない。文化や歴史が違う。「欲は、なるべく捨てた方がいい」と教えてきた仏教や儒教の価値観と相容れない。しかも、すでに欧米の失敗を見ている。日本ではあり得ないほど露骨に差別的な発言を繰り返すトランプ候補やクルーズ候補があれだけの支持を得ているアメリカの大統領選を見ていれば、彼らの言う「平等」は「機会の平等」でしかないことがすぐにわかる。心の中では誰も「平等」なんて信じていない。

 突然右傾化しはじめたヨーロッパの状況を見ていると、景気が悪くなると、人種差別も民族主義、排他主義もすぐに還ってくることがわかります。欧米人が言う「機会の平等」は、経済戦略に利用されて来た弱肉強食、適者存続を正当化するための方便だったと思う。だから「家族」「家庭」という「利他や無私」の出発点がその犠牲になった。

 日本人には、欧米の真似をしない方が経済的にもうまくいく、という体験があります。戦後の日本の発展は、親が子どものため、子どもが親のために頑張った結果だと思います。人間は自分のためにはあまり頑張れない。1人では生きられないことを知り、助け合うことに幸せを感じるようにできている。平等などと言うパワーゲームの裏返しのような言葉に操られるよりも、子どもを育てる者たち、弱者を眺める者たちの「和」で成り立つ国であってほしい。

 だらら「日本、死ね」と本気で言ってはいけない。こういういい国は大事にしなければならないと心の底から思う。





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「1人の子どもを育てるには、一つの村が必要」


 米国大統領選が真っ最中ということもあって、CNNやCBSニュースをよく見る。「回教徒は、なぜか知らないが、私たちを憎んでいる。その理由がわからない限り、入国を拒否すべきだ」と大統領候補者が演説で言う。

 日本の「保育園落ちた、日本死ね」が大したことでないような気がする。むしろ可愛らしくさえ思える。(でも、こっちの方が実は人類にとって根源的問題です。)回教徒やメキシコ人に対する差別的な発言だけではない。トランプ候補のあからさまな女性蔑視発言は、今までのアメリカのスタンダードからしても「えっ!」そんなこと言ってもいいの、それを言ったらお終いでしょ、という酷さなのだが、それでも支持率が上がる。共和党の幹部たちが一斉に不支持を表明しても支持率が落ちない。最終的に選挙には落ちるかもしれないけれど、支持率が落ちない。この妙なエネルギーが怖い。全世界で何かが起きている。人類の心がバラバラになってきている。そんな感じです。(まあ前回の選挙でいいところまで行ったギングリッジ候補も、日本人を公然と「イエローモンキー」と言っていたのですが...。)

 強盗殺人、テロ、警察と黒人の対立、そして相変わらず酷い事件が多い。

 子どもを殺された母親がインタビューに答えて「1人の子どもを育てるには一つの村が必要だけど、1人の子どもを殺すには、たった1人の犯罪者しかいらない」と言っていた。

 「It takes whole village.」久しぶりに聴くフレーズでした。

 ネットで検索していると、『It Takes a Village|あなたにとっての「村」は何ですか?』 http://taniguchirika.com/tag/it-takes-a-village/ というコラムに出会った。谷口梨花という人が書いていて、いい解説だったので引用します。

 「『It Takes a Village』という有名な言葉がある。元々はアフリカの諺で「村中みんなで」という意味を持つ。ヒラリー・クリントン氏の著書のタイトル「村中みんなで」にもなっているので、ご存知の方も多いかもしれない。

 一般的には、"It takes a village to raise a child."(ひとりの子どもを育てるには村中みんなの知恵と力が必要だ)といった文脈で使用されることが多い。この言葉を知った時から心の奥底に強く残っていて、サイトのタイトルにもしている。

 『教育』や『子育て』に限らず、この言葉は幅広い意味を持つと思う。私は、この言葉の本質は『コミュニケーションとコラボレーション』だと思っている。人は誰もが、コミュニティの中で育ち、学び、誰かに支えられ、誰かを支えながら生きてゆく。その時々の『村』は違うかもしれないけれど、私たちの人生に『村』は必要なのだ。

 10代後半から20代前半くらいまでは『ひとりで生きていくの。そんなこと全然平気よ』みたいな顔をしていた時もあったけど、なんて浅はかだったんだろうって今は思う。『村』なくしてはきっと一秒だって生きてられないのに。

 だから、時々は考えてみたい。自分にとっての『村』の存在について。私にとっての『村』は家族であり、女ともだちであり、仕事仲間だ。直接面識はないけれど、憧れのあの人も私にとっては『村』のひとり。そして同時に『村』の一員としての『私』にも意識が向く。何か困難なことが起こった時は、ちゃんとコミットしたいし、私が経験した大切なことを子供たちに伝えていきたい。

なんだかそう考えるだけで力が湧いてくる。たった15文字の言葉が、時代も国も文化も超えて生き続ける理由がわかったような気がした。」

(ここまで、ホームページからの引用です。)

 

 この言葉を自著のタイトルに使ったヒラリー・クリントンは、村を福祉や教育に結びつけ「社会で子育て」を主張し、当時、共和党はそれに反対して「家族」の大切さを施策の中で強調した。政治家はとりあえず「対立」する。その頃米国ではすでに、三人に一人の子どもが未婚の母から生まれ、18歳になる前に親の離婚を体験する子どもが40%、家庭と言う定義があまり意味をなさなくなっていた。

 二十年前の話だが、いま日本はアメリカの30年位前の状況に差し掛かっていると思うので、丁度参考にすべき議論・論点だと思う。(この本は、その後、ゴーストライターが発覚し再び話題になった。)

 共和党の肩をもつ気はまったく無いが、現在のアメリカの家庭崩壊や幼児虐待の増加、格差の広がりを考えれば、アメリカやヨーロッパが選んだ「社会で子育て」という道は、私たちが躊躇するべき危険な選択肢だと思う。しかし、共和党が主張した「伝統的家庭の価値観を取り戻す」という主張はすでに完全に手遅れだった。家庭が存在しなければ、その価値観を取り戻すことは出来ない。どちらが経済発展にいいか、という両党の対立した議論の陰に人間の幸福論が長い間埋もれてしまった結果だと思う。

 「1人の子どもを育てるには一つの村が必要」。

 日本人はこのことわざの持つ元々の意味を理解する。特別保守的とは思わない私でも、「だから保育士が1人で20人の子どもを育てるなんておかしいでしょう」という方向に結びつける。そして、「村人」や「社会」という定義が保育や福祉という仕組みにすり替えられることを危惧する。

 村人は、昔から「親身」であることを条件とし、一定の共通した常識や価値観を身につけていて、それは福祉という仕組みでは補えなくなると本能的にわかっているから危惧する。このことわざが語られた場所で、「村」というイメージにはそうした説明の難しい、本能的な運命共同体としての温もりがあると理解する。こういう共通認識(もちろん例外もあるが)はこの国の財産だと思う。いくら国連から指摘されようとも、経済競争で「平等」を計るようなことはしない。

 私は、1人の赤ん坊が村人たちの心をひとつにすることに「奇跡」を見る。

 母親は自分の赤ん坊を見知らぬ人に抱かせない、そんな次元の、進化の中で培った本能的な常識なのかもしれない。それがまだこの国では生きている。

 安倍首相は去年国会で、もう40万人保育所で預かれば女性が輝く、ヒラリー・クリントンもエールを送ってくれた、と言ってしまった。日本の首相がこれを言えば、この国から大切な価値観、少なくともこの国の「個性」と思われるものが消えてゆく。

 これほど子育てを囲む事態が複雑にこんがらがってくると、「1人の子どもを育てるには一つの村が必要」を言った人たち(アフリカ説とアメリカ先住民説など色々あるが、たぶん日本にも同じようなことわざがあるはず。)は、いまごろ一斉に顔をしかめているだろう。

 子どもを育てるということは、やはり育てる側が心を一つにすることだと思う。そして、それは人類が苦境の中にあっても、なんとか輝くやり方だと思う。

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(講演依頼、お問い合わせはchokoko@aol.com松居までどうぞ)

(付記)

丸木俊先生のこと

 朝日新聞の夕刊に丸木俊先生の南洋時代を調べた連載が載っていました。子どもの頃から可愛がってもらっていろんな思いでがある懐かしい人に再会したようでした。大統領選とか、保育の問題とか、たしかに色々ありますが、こんなちょっとした思いでとの再会で人生は進んでゆくのだという気もします。俊先生は、位里先生と二人でお描きになった「原爆の図」で有名ですが、私にとってはもっと身近な大叔母さんのような人。いまでも時々、その声がどこかで聴こえる気がする。千葉の花貝塚にご自宅兼アトリエがあったころ、近所の畑で縄文土器のかけらや矢尻を一緒に拾いました。それを標本にして学校へ持って行きました。それが最初の思い出、たぶん7歳くらいだったと思います。


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 私が、好きな俊先生の絵本は「でてきておひさま」。

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 ネットで検索したら、いつの間にか最近のは堀内誠一さんの絵になっていて、あれッと思って良く見ると、そちらの版は奥さんの堀内みちこさんの文章になっていました。俊先生の描いた方はうちだみちこさんのアイデアとなっています。両みちこさんは同一人物。

 堀内誠一さんは「ぐるんぱのようちえん」や「たろうのおでかけ」などで凄い人。私が好きなのは、「くろうまブランキー」。

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 アンアンの初代アートディレクターで、私もブルータス創刊の時に少しだけお手伝いした。

 「こすずめのぼうけん」と「おやゆびちーちゃん」の絵を堀内さんが描いていた時にパリのご自宅にしばらく、ちょっと長めに居候をしていて、みちこさんにもとても世話になりました。そのとき俊先生と位里先生が日本から来て、アウシュビッツの取材に誘ってくださった。夫妻は飛行機で、私は1人汽車でポーランドのクラコーに向かいました。その時のことは、不思議な思い出になっています。汽車の中で出会った若い兵士たちの私を見つめる眼差しを、いまでもはっきり覚えています。射抜くような悲しい目でした。強制収容所のレンガの建物。展示物。冷たい雨の降る小道。地下室での演奏。

 人間の仕業なのか、国家の仕業なのか。どちらにしても恐ろしい。


 「でてきておひさま」が絶版になっているとしたら、次のお薦めは「12のつきのおくりもの」と「うみのがくたい」。
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 「12のつきのおくりもの」はうちだりさこさんの再話になっていますが、みちこさんとりさこさんは姉妹。このあたりは私の妹がよく知っています。妹は絵本の文章をたくさん書いていて、そっち方面の方達とはずっとお付き合いがあった。妹の絵本でお薦めは「わにわに」シリーズ。文章が不思議で、どこか飛んでいる。講演で、私は「わにわに」の兄「ワニ・アニ」です、と言うと保育士の方達はびっくりする。少し信用される。まとめてサイン本を頼まれ、妹にサインをしてもらい、ついでに判子を押してもらって次の講演の時に届けたことがあります。350_Ehon_3368.jpg
 わにわには特別支援学校の副読本にもなっていたりして、嬉しい。直感的にわかっていくれる人たちからの支持は特別に嬉しい。

 俊先生の連載のおかげで、ここ数日色んなことを憶い出します。

 安野光雅先生の工作の授業のこと。
 秋野不矩先生と出会ったインドの旅のことなど、いつかちゃんと書いてみたいと思う。

不矩先生
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格安保育、ブラック保育

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20160127-00000003-sasahi-soci こんな状況を作り出した政府の「保育は成長産業」という施策。そこで過ごすのが主として乳幼児だから、これはもう悲劇だと思います。価値観の多様化、親の意識は様々だからこそ「幼児を守る」という国の仕組みが大切だったはず。


価値観の多様化 

 最近、「価値観の多様化、生活様式の変化が進んだから、それに合わせて福祉や教育を変えて行かなければならない」ということがよく言われるのです。なぜかそれが定型句のようになっている。私の講演の前に、教育長や福祉部長が挨拶をする時などによく使われる。たぶん文科省か厚労省が、「国の方針」か何かに書いているのに違いない、マスコミでも耳にするのです。その都度思うのです。価値観の多様化、生活様式の変化が進んできたからこそ「中心になる価値観」を取り戻すことが大切で、子育てがほぼ中心になるのが自然の法則、だと。それが進化の最低条件ではなかったか。この国は、まだそれが出来る国だと思う。

 価値観の多様化、生活様式の変化から「幼児を守る」のが社会(仕組み)の役割りのはず。そのためにはどうしても「信頼の絆」が必要なのです。「乳児をもう50万人保育所で預かれば女性が輝く」と総理大臣が国会で発言し、国や学者が経済論で子育ての意味や定義を崩してゆき、「社会で子育て」(実は単純に保育園で子育て)と言って多様化や変化に合わせれば合わせるほど、国は中心となるべき「意志」を失い、混乱はますます進む。


 人間が生きる意志の真ん中に「子育て」がなければ、心が一つにならない。

 それが感じられるから、いい保育士たちが去ってゆく。

 

湯沢町で講演をして

 私も全国で色々な保育、教育の現場を見て来ましたが、湯沢町のこども園から中学校まで一つ屋根の下、という取り組みはとても興味深く、これからの教育現場のあり方を考える上で参考になるケースだと思いました。

(湯沢学園:5つの小学校、1つの中学校を統合して湯沢学園とし、4つの保育園を1つの認定こども園にまとめ湯沢学園内に置くことで12年間の一つ屋根の下にした。)

 街の規模、園児数と生徒数、冬の積雪、学校や保育所の立て替えの時期など、いくつかの要素が重なって作られたものなのでしょう。しかし、そこに何か不思議な組み合わせ、社会に絆を取り戻すきっかけがあるような気がするのです。

 教育も、保育も、本来の遺伝子が持つ人間性との間に摩擦が生じていて、制度疲労を起こしている。より深まる矛盾を抱え、「家族」という絆の原点となるべき「場」が「子育て」という存在理由の中心を失い始めている。その結果、制度を担う人たちの精神的健康が保てなくなってきているように感じます。(ここで言う制度を担う人たちとは、保育者、教育者、学童や児童館の指導員、乳児院や養護施設の指導員、福祉に関わる「行政の心ある人たち」ということです。)だからこそ、今までとは異なる仕組みが必要になってくる。

 もう少し「幼児を毎日眺める、一緒に眺める」といった部族的な日常を意識的に取り戻し、増やしてゆくことが社会全体の軌道修正には必要と思っています。

 湯沢町の試みの中で、こども園の園児たちが毎日一度は中学生たちの視線を感じながら校内を行進して回って来る、といった儀式を始めれば、中学生たちの感性が蘇り、彼らの将来の視野に「子育て」の不思議な体験が入ってくるような気がいたします。


ジョセフ酋長の言葉


"Why do you not want schools?" the commissioner asked. 

"They will teach us to have churches," Joseph answered. 
"Do you not want churches?" 
"No, we do not want churches." 
"Why do you not want churches?" 
"They will teach us to quarrel about God [translated Great Spirit in other places]," Joseph said. "We do not want to learn that. We may quarrel with men sometimes about things on this earth, but we never quarrel about God. We do not want to learn about that."
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 先生が子どもたちに「夢を持ちなさい」という。その先生たちに、「先生は夢を持っていますか?」と質問すると言葉につまってしまう。「昔は、こんな夢を持っていました」「退職したらこんなことをしたい」といった答えが多かった。矛盾に囲まれて子どもたちは生きています。伝承のプロセスに信頼関係が薄いのです。

 私の好きなインディアンの大酋長にジョセフという人がいます。150年くらい前に生きた人です。あるとき、ジョセフが白人の委員とこんな会話をしたのです。

 ジョセフは、白人の学校などいらないと答えた。

 「なぜ学校はいらないのか?」と委員が尋ねた。

 「教会をつくれなどと教えるからだ」とジョセフは答えた。

 「教会はいらないのか?」

 「いらない。教会など欲しくない」

 「なぜ教会がいらないのか?」

 「彼らは神のことで口論せよと教える。われわれはそんなことを学びたくない。われわれとて時には地上のことで人と争うこともあるが、神について口論したくはない。われわれはそんなことを学びたくないのだ」

(『我が魂を聖地に埋めよ』ブラウン著、草思社)

 もともと西洋人が学校教育を作った背景には、識字率を上げ聖書を読める人を増やす、という目的がありました。アメリカ大陸にきて、「神」を知らないインディアンを西洋人は不幸な人、野蛮な人と見、学校教育が必要だと考えた。

 ところがジョセフは、神はすでに在るもので、議論の余地のないものと見ていた。学校という西洋的な仕組みの本質をついた視点です。なぜジョセフがそれを見破ったか。大自然と一体になった人間の感性が、白人たちの子育てに何が欠けているかを見抜いたのかもしれません。神を広めようとする白人の行動に、神の存在を感じなかったのかもしれません。

 『逝きし世の面影』(渡辺京二著、平凡社)に出てくる日本人の姿と大酋長ジョセフを私は重ねます。西洋人が、日本人は無神論者的だと感じた風景の中に、実は幼児を眺め、幼児を拝み、同時に神や宇宙を眺めることができる特殊な文明が存在していた。そして、西洋人はその無神論者的な社会に、なぜか一様にパラダイスを見た。

 ジョセフがこの発言をしたちょうどそのころ、欧米人は日本というパラダイスを見ている。インディアンの生活が原始的であったがために、そこに日本を見て感じたパラダイスが見えにくかったのでしょう。同じ人間の営む文明として敬意を払うまでにいたらなかったのだと思います。

 当時日本にきた欧米人が、驚いたことの一つに「日本の田舎ではすべての家の中が見渡すことができた」というのがある。当たり前のように時空を共有することが、パラダイスを形成する安心感の土台にあったのでしょう。もし、同じような観察をアメリカインディアンにもしていたら、西洋人はもっと大きなパラダイスを発見していたかもしれません。


 西洋人が学校でインディアンに教えようとしてなかなか教えられなかったことの一つに「所有の定義」がありました。共有の中で生きてきた人たちは、西洋人が正当なやり方でインディアンから土地を手に入れても、そこから立ち退かなかった。大地は天の物、神の物であって、人間が所有できる物ではなかった。この視点の違いから、悲惨な闘いの歴史が始まる。

 日本では、土地の所有に関して血で血を洗う闘争の歴史がありました。しかし、それは主に武士階級の間で行われ、村人の日々の生活の中に現実としてあったのは、共有の精神だったと思います。一人の赤ん坊を育てるには数人の人間が必要で、そのことが未来を共有する感性を人々に与えたのだと思います。システムだけ見ているとわからない、魂の次元での一体感や死後へも続く幸福観を村人はちゃんと持っていた。西洋人の観察の中に「確かに日本には封建制はある、武士は一見威張っているように見える、しかし、なぜか村人は武士を馬鹿にしているようなふうがある」とあるのですが、このあたりが本当の日本の姿だったのではないでしょうか。


NHKあさイチ「大丈夫?保育の質」


  NHKの「あさイチ」という番組で、「大丈夫?保育の質」という保育の特集がありました。先月の「ふかよみ」という番組でも同様の問題が取り上げられました。不満は残るのですが現実を伝える役割りは果たしたと思います。出発点にはなっているので、ここからもっとマスコミ全体に、この問題の大切さと緊急性が広がってゆく気がします。

 最後に「問題はお金」で終わったところが象徴的だったのですが、それでは政府主導の市場原理に再度巻き込まれるだけ。「感謝」という方向へ進まないと保育士不足は止まらない。子どもを眺め「感謝」。育てる者たちがお互いに感謝。それが人間社会をここまで引っ張って来たのですから、出来ると思うし、それしか道はないのです。

 番組の最後にファックスで障害児デイと思われる虐待の現状が言われていました。あのファックス一枚に書いてあったことだけでもマスコミが掘り下げれば、今の政府の雇用労働施策の中で崩れてゆく「保育」が見えてくるはず。市場原理の中で親と保育士の一体感がこれだけ崩壊に向かっていることが見えてくるはず。

 障害児デイと呼ばれる「資格なし」で回す、ビジネスコンサルが盛んにネットで勧誘する仕組みをマスコミが取り上げれば、市場原理の中で親と保育士の一体感が崩壊に向かっている原因が見えてくるはず。一部の老人介護施設で起こっている人間性の崩壊が実は社会全体に起こっていることが見えるはず。

 

(「あさイチ」で取り上げられたファックスから)

 「特に乳児のおむつ交換、授乳には時間がかかる。授乳は保育士が手で与えず哺乳瓶にタオルを巻いて与えている。事故が起こったらと思うと不安だが仕事がまわらないため仕方がないと言い聞かせている」。

 哺乳瓶ホルダーの売り込みが保育園に来る時代です。社会全体から、抱っこの意味が不明になってゆく。以前、経済財政諮問会議の座長が「乳児は寝たきりなんだから」と言ったのを思い出します。乳児を抱っこして授乳をしながら、抱っこする側がどう育っていったか、変化していったか、そういう時に人間の遺伝子がどうオンになっていったか、経済学者はまったく考えない。これでは経済も良くならない。

(あさイチから)

 「以前保育士をしていた。0歳児に対して無理やりお茶を飲ませたり、吐き出した食べ物を食べさせたり、絵本で頭をたたく、押し入れに入れる、脅す、見ていられず虐待していた先生に言ったら『新人が生意気な口答えをするな』と言われた。」

 良くない保育は意外と伝承するのです。この保育士は、少なくとも辞めてくれた。辞めて普通なのです。そういう状況を政府が作っている。これだけ保育士が不足していれば、悪い保育士を解雇できない。するとこういういい保育士が辞めてゆく。

(あさイチから)

 1歳児の担任をしている。12人を2人の保育士でしている。朝の支度や給食の準備に1人はいると12人を1人でみていなければいけないのが現状。午前中に帳面を書いたり、掃除や行事の準備もしなくてはならず、寝ない子についている時間はないため寝てほしいというのがある。有給もほとんどとれず、サービス残業や家に持ち帰りの仕事が多くストレスがたまる。現状をわかったうえでの論議をしてほしい」。

 1人で6人がすでに無理なのです。しかも、全般的に「愛着障害」が増え、噛みつく子も増えている。声掛けをしてもらえない、抱っこしてもらえない子どもたちの時間は、将来、記憶の中に「不信?」となり溜まってゆくのです。そのすぐ先に学校がある。学級崩壊がある。

(あさイチから)

 「本当に現場は過酷。虐待を認めるわけではないが、質、質、質と言われても本当にゆとりもない。低賃金すぎる。子供を預かる仕事をするがゆえに、私たち保育士が稼ぎが少ないから子供や家庭を持てない。本当にわかってほしい」

 自分の子どもは預けないという保育士が増えている。当然だと思います。そして、育休をとった保育士の多くが現場に帰ってこない。それで普通だと思います

(あさイチから)

 「保護者の質、子供の質については問題にしないのか。こども園での保育の仕事をしていたが、預けられる子供は問題行動ばかり。親がきちんと家でしつけをしていたんだろうかと思う子が多い。お迎えに来た親御さんも保育士に全く声もかけず、早く帰り支度をするように子供にうながすばかり。保育園で起こる問題は保育士の問題だけではないと思う」

 このファックスが読まれた途端に、司会者の一人が「そういう問題ではない」と発言し議論を止める。「今日は、そういう話ではないですからね。親御さんたちの話ではないから、保育士の話なんだけれども・・」

 「親の問題」には触れようとしないのが、マスコミ全体の流れなのです。それでは問題の本質に行き着かない。幼児の幸せを願えば、保育士は親を見る。それが保育だと、保育所保育指針の第六章にも書いてある。親と保育士の人間関係が「保育」そのものだという視点で常に見ていないと、保育資格を持っていれば「保育」は出来る、という考え方になってしまう。すると、保育士養成校が明らかに現場に来るべきでない学生に「平気で」資格を与えるようになる。養成校で教えている人たちに「幼児たち」が見えない。

 こういう学者たちに諮問している政治家には「幼児」は数でしかない。「保育」は子どもたちの日常です




(講演依頼、お問い合わせはchokoko@aol.com松居までどうぞ)

保育士による園児虐待の報道

 保育士による園児虐待の報道が続きます。国が真剣に、真面目に考えなければいけないのは、これが氷山の一角に過ぎないということ。数的にもそうですが、主にその質という面で表面に現れてこない小さな嫌な出来事が保育の現場で毎日、無数に起こっているということ。それが日常的だから、ニュースになる事件の保育士たちの内部告発にこれだけ時間がかかるのです。そこに現実を見て、想像し調査しろ、と憤りとともに国に言いたいのです。

 幼児にとって逃げられない場所での小さな虐待が、その子の人生に大きな影響を及ぼし、国の未来を形づくる要素になっている。そこに想像力を働かせて、保育のあり方が実はこの国の根幹に関わる緊急かつ最重要問題ではないか、というところまで意識しないと、この問題は解決に向かわない。このまま進めば取り返しのつかない大変なことになる。

 たとえそれがほんの小さな出来事であっても、将来「親による幼児虐待」という出来事につながってゆくことは充分考えられるのです。理不尽なことをされた人間は、将来それを自分もしようとする。幼児虐待の連鎖が4、5回転している欧米では世代をまたぐ虐待の連鎖は通説になっているのです。最近の親による虐待の報道、児相に来る事件の数を見ていると、その兆候がすでに出ている。家庭内で起こる、普通では考えられない残酷な出来事は、その多くが、それをする人間の幼児期の体験が根っこにある。愛着障害は連鎖してゆくことが多い。 http://www.luci.jp/diary/2015/02/nhkde.htmlクローズアップ現代(NHK)〜「愛着障害」と子供たち〜(少年犯罪・加害者の心に何が)

 保育室に必ず2、3人はいる特別繊細な子どもたちにとって、保育士に理不尽に怒鳴られたり、叩かれたり、引きずられたりする体験は相当ショックな記憶となって残るでしょう。私が居たたまれなくなるのは、優しい、いい親たちの子ほど、心に受ける傷が大きいということ。裏切りの大きさが計り知れないということ。いくら預けたのは親の決断であり責任であったとしても、その光景に親たちが気づいていない事が保育という仕組みの最大の欠陥だと思うのです。

 私が八年間に埼玉県の有志の園長先生たちと「親心を育む会」を作り、そこで話し合って「一日保育士体験」を全国に広め始めたのも、保育士による虐待を止めたいというのが第一の動機でした。当時福岡の大学の保育科の学生たちに講師として呼ばれたのです。

 私の講演は「福祉」の危険さが一つのテーマですから、「福祉」を良い事として、その普及を教える大学の先生たちには都合が悪い面があり、福祉の質によほど危機感を感じ、何か糸口を探そうとしている教授がいない限り、私が呼ばれることはありません。学生たちが、私の本を読み、お金を出し合って自主的な勉強会を開いたのです。講演のあと懇親会になって、そこで語られたのが、実習先の園で保育士による虐待を見る、それが堪え難いという話でした。十数人居た学生たちの半数がそういう光景を目撃し、それが保育と思い、一週間の実習で同じ行動を始める学生もいる、と言うのです。同じ教室で学ぶ他の学生たちの質の悪さ、なんであの人たちに保育士資格を与えるのか、という憤りも、彼らは話してくれました。その憤りは、幼児たちの代弁者としてのものでした。

 その後急いで、知り合いの教授に頼み、神戸と埼玉の養成校で学生を集めて質問をしたところ、どちらでも半数の学生が実習先の園で、「親には絶対に見せられない光景を見る」、「先輩から、あの保育園に実習に行くと保育士になる気がなくなるよ、と言われている実習先が三園あります」と、その状況を詳しく語ってくれたのです。

 実習生を受け入れる保育園でさえこういう状況です。実習生を受け入れない保育園や当時の認可外保育所(今は、新制度によって小規模保育園として国に認可されている所が多い)での状況は推して知るべし。しかも、こんなことは政府や学者がちょっと調査すればわかること。保育を教える大学や専門学校の教授たちはすでにみな知っているのです。保育について学生に教える立場にある人たちがその現実から目を逸らし、何も発言しないことに、私はこの仕組み全体の大きな矛盾を感じたのです。そういう状況を知りながら「社会で子育て」などと平気で言う学者たちがいる。そういう人たち、自分の大学の利益や存続のほうが「幼児の育ち」より重要な人たちが保育施策を作る国の委員などをしているのです。仕組みの中で幼児の気持ちだけが棚上げされていることに、みんなが慣れようとしている。

 大学の保育科が、その存在意義を忘れ、明らかに保育の現場に出してはいけない学生に「資格」を与え始めた時、「学校教育」は人間社会の一部で居る権利を自ら放棄したのではないか、と思いました。こういう仕組みの中で生きていること自体が人間の感性を麻痺させ、人間性を少しずつ狂わせてゆく。それがイジメや不登校、学級崩壊、児童虐待やDV、家庭崩壊、子どもの貧困といった社会現象に明らかに見える。

 幼児優先と、「保育所保育指針」という根本の法律で言って置きながら、学者と政治家とマスコミが、実は大人の都合と経済優先で保育を考えている。学生の実習ノートを見れば実態はわかるのに、こうした問題を明るみに出す事をしない。反対に、個人情報とか理屈をつけて、学生たちに、実習先で見た事は誰にも言わない、という誓約書さえとっているのです。

 何とか、自然に、不信感を煽らずに子どもたちを守る方法はないか、と「育む会」の園長先生たちと考えて、広め始めたのが「一日保育士体験」です。親の感謝と、親と保育士との信頼関係が土台になければ、幼児の信頼を社会全体で裏切るこの状況は止まらない、と思ったのです。

 年に100日親の目が入る、保育園が自信を持ってそれを受け入れる、それが子どもたちを守るための最低条件です。自分で意思を伝える事が出来ない乳幼児を守るために、年にたった一日親が子ども優先に都合をつける。それくらいはしないと、このままではこの国も、欧米先進国のように家庭崩壊によって、実の両親に育てられる子どもが少数派、幼児虐待・女性虐待が数十倍というようなことになってしまいます。

 一日保育士体験は8年間でずいぶん広がってきました。保育園、幼稚園、町、市単位だけでなく、県全体で取り組んでくれるところも現れ、アンケートを読むと、親も保育士もやって良かったと思う人がほとんどでした。そして、そういう保育園では親たちも保育士たちも安心して一緒に子どもを眺めることができるようになってきました。しかし、同時に政府の保育士の気持ちを無視した新制度が始まり、保育士不足と財源不足が一気に保育界を追い込みました。保育の質が落ちるのと平行するように、親による虐待にも歯止めがかからなくなっています。そして、悪い保育士を解雇できないと、親に自信を持って保育を見せられなくなる。閉鎖的な環境の中で、親の身勝手な言動に辟易とした保育士が、子どもにますます乱暴になってゆく。親の一日保育士体験をしない園はやめてもらう、そのくらいの法律が出来ないともう子どもは守れないのだと思います。

 ほとんどの人間が幼児期に周りから可愛がられ、人を信じる力を身につけることが、人間の生きる力。助け合う力、絆を作る力が、社会の根本にあったことを政治家は思い出してほしい。

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 儲け主義の「親へのサービス」を意識した、保育を知らない人たちの参入をここまで許し、保育界の「子どもを優先する」という常識が揺るぎ始めているのに、政府は「保育は成長産業」「あと50万人三歳未満児を預かれ」と、幼児の気持ちを無視した施策を止めようとしない。

 保育の質は保育者たちの心と元気です。幼児を怒鳴ったり、引きずったり、口に無理矢理給食を押し込んだりする同僚保育士を見ていると、心ある保育士は耐えられなくなって去ってゆく。

 自分の子どもは自分で育てると決めたその保育士は育休のあとも戻って来ない。それでいいのだと思います。それでこそ「心ある」保育士なのだと思います。

 心ある保育士は、子どもたちの幸せは親子関係にあることを知っています。彼女たちがそれを知っていることを政府が知らない。それが幼児を苦しめる。


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奪われる命

 幼い子どもの命が無惨にも奪われたり、幼児が家庭内で虐待される報道が続きます。その陰に無数の報道されない悲しい涙と痛みがある。役場の人から、児童相談所や乳児院、児童養護施設の混乱、あるいは機能が麻痺している状況を聴けばわかります。幼児を大切にしない、むしろイライラの原因と考える空気が社会全体に、異常に広がってきている。ここ数年の親たちの意識の変化は、長年現場で親たちを見てきた保育園の園長先生たちの話からもわかります。しかし、それを政治家もマスコミも聴きに行こうとはしない。この国でも、福祉では補えない危機的な家庭崩壊が始まっている。まだ、一部とはいえ広範囲に、幼児を眺める人間の意識が急速に変わり始めている。その結果として「子どもたちの貧困」という問題があるのです。世界で最も豊かな国であるこの国に「子どもたちの貧困」という問題が生じるのは、仕組みが親たちの意識を変え始めているから。人間がお互いに助け合わなくなったから、親身にならなくなったからです。

 政府や学者が「社会(この場合は『仕組み』)で子育て」などと出来もしない事を言って、親子を引き離そうとし、乳幼児を育てている母親は輝いていないともとれるような発言を総理大臣が国会ですれば、そして子ども・子育て支援新制度で11時間保育を「標準」と名付け、保育を親に対するサービスと位置づければ、子育てを平気で他人に任せようとする親が増えるのは当たり前。しかし、それを受け入れる体制がまったく出来ていない。明らかな矛盾の中で、この国から人間性が失われてゆきます。

 原点に還れば「待機児童」などこの世の中に1人もいない。保育園の前に「入りたい」と言って並んでいる三歳未満児など誰も見たことはない。地球上には、母親と一緒に安心して居たい幼児がいるだけ。その、弱者の願いを人間たちに伝えることが天命である幼い命が、政府の経済施策とモラル・秩序が失われてゆく陰で犠牲になってゆく。

 経済論の中心に「子育て」を置かなくなった欧米で、どれほど犯罪やレイプや児童虐待が蔓延しているか、ネットで調べればわかるはず。福祉という仕組みがどれほど家庭崩壊を進めるか、未婚の母から生まれる割り合い(欧米は3割から6割、日本は1%台)や離婚率を比べればわかるはず。新たに50万人の乳幼児を母親と引き離そうとすることでこの国に何が起こるか、欧米の失敗を見ればわかるはず。幼児の願いを優先しない社会は破綻する。女性の重役や政治家が増えることを目標にして「国際社会の仲間入り」などと言っている政治家のごっこ遊びのために、この国の大切な個性と役割りが失われてゆくのです。

(欧米の父親と日本の父親の子育てに関わる時間を比べて、欧米の方が多いと言った馬鹿な学者がいました。こういう連中は、欧米の方は家庭に「居る父親」の時間を計算している。そこに「居ない」実の父親の子育てに関わる時間を「ゼロ」と計算し、日本の父親の「一家のために働いている時間」を子育てに関わる時間と計算すれば、まったく違った結果が出るはず。こういう世間知らずな学者の的外れな分析が、いまだにマスコミの欧米志向や政治家の欧米コンプレックスを生んでいる。経済的にも犯罪率から見ても、欧米は真似するべき対象ではまったくない。犯罪率が極端に低く、経済的にも異常にうまくいってきた日本の個性を分析し、それを大切にするべきだと思う。)

 欲をすてよ、と言った仏教の教えや、貧しき者は幸いなれと言ったキリスト教の教え、和をもって尊しと言ったこの国の成り立ち、それらすべてに反することを、政治家は欧米の真似をして進めている。

 おかしな人は昔からいるし、変な事件は昔からありました。しかし、弱者に向き合うことで生まれる絆と信頼関係、連帯感があれば人間たちの抑制は双方向に働きます。助け合わなければ生きていけないという意識があれば、これほどまでに社会が殺伐としてくることはないのです。

 幼児を母親から引き離す、この施策が、あまりにも自然の法則、人間性から逸脱しているから、いま多くの幼児たちが傷つけられている。金利やTPP、経済問題など、欲を持たなければ大したことではない。政治家やマスコミや学者、仕組みを考える人たちが幼児たちの願いに耳を傾けなくなること、このことが一番国の未来を傷つけている。

 (三年前、このブログに現在の保育施策の原点になった当時新システムと呼ばれていた施策に関して書いた文章があります。ぜひ読んでみて下さい。

現在の保育施策の出発点にあったもの/視点論点 http://www.luci.jp/diary/2013/12/post-228.html


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自立

 学校教育で「自立」という目標がよく使われる。女性の自立、高齢者の自立、障害者の自立、自立支援センター、自立支援法、様々に言われる。経済の低迷に伴って使用する頻度は増えて行きますが、これではまったく解決策にならない。自立は、多くの場合孤立につながり、自立して失った助け合いを補うはずの「福祉」が追いつかないからです。

 「起業」というと、自立の第一歩のように思われますが、「起業」の9割が失敗に終わり、それによって家庭崩壊が始まったりする。起業で失敗する人がいないと誰かが儲からない、経済が回らないからこういうことを薦める連中がいるのだと思います。その結果、格差が広がる。欲を持つことが孤立と孤独につながっていく仕組みにすでになっている。それが、犯罪や虐待に進まなければまだいいのですが、社会全体の連帯意識が「自立」という言葉ですでに薄まっていますから、こういう社会でやり直すことはますます難しくなっている。誰もが自分の保身のために、他人のことまで心配していられなくなってくる。親でさえ、自立という言葉をつかって子どもを見離す。子どもが二十歳を越えたら、子どもの行動に親の責任はない、という欧米社会的な考え方を賛美、奨励する学者や政治家が居るのですが、それは言い換えれば、犯罪率が今の日本の20〜30倍になるということ。

 幼児とつきあうの時間が減ってくると、弱者の役割、つまり人間は助け合わないと生きていけない、という絶対的な真理が見えなくなってくる。生きていけないだけではない、信じ合わないと、幸せにさえなれない。


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主任さんの涙(5年前に保育雑誌の連載に書いた文章です)

 

 私は、その日、目の前にいる主任さんに尋ねました。「学生時代、何園に実習に行きましたか?」

 「二〇年前になりますが、六園行きました」

 「そのうち何園で保育士による園児の虐待を見ましたか?」

 一緒にいた園長先生と隣の小学校の教頭先生が驚いて私を見ました。

 しばらく黙っていた主任さんの目に涙があふれました。私を見つめ、はっきりと言いました。「六園です......

沈黙が流れました。

 「二〇年間、誰にも言いませんでした」主任さんは私の目を見つづけます。「あの実習で、私は保育士になるのをやめたんです。本当は保育園で働きたかったんです。私は保育園の先生になりたかったんです。でも、免状を取り直して幼稚園の先生になったんです」

 二〇年間、苦しかったろうな、と思いました。

 このしっかり者の母性豊かなやさしい心の主任さんは、長い間ずーっと、どこかであの風景が毎日続いていることを知っていたのです。

 「実習のレポートに少し書いたんです。園長先生から、こういうことは書かないでほしい、と言われて、消したんです」

 主任さんの声は、幼児の叫びでもありました。それを知らなかった親の悲しみでもありました。

 「あのとき、私は、自分の子どもは絶対に保育園には預けない、と決めたんです」保母さんの目の中で何かが燃えました。

 二十三年間、私の同志は保育者と園長先生でした。この話題になると同志の顔が暗くなるのを私は知っています。私が質問した大学や専門学校の保育科の学生の半数が、実習先の現場で「親に見せられない光景」を目にする。これは、保育園に通う日本の子どもたちの半数が、そういう光景を目にする、ということでもあります。

 子どもたちに与える心理的影響を考えると、恐ろしくなります。幼児期に、脳裏に大人に対する不信が植えつけられる可能性は十分にある。

 卒業生からの伝達で「あの園に実習に行くと、保育士になる気がしなくなるよ」という園があります(同様の話を介護施設に実習に行った福祉科の学生からも聞きます)。「ほかの実習生が、一週間の実習で同じことを始めるんです」と涙ぐむ学生もいました。「卒業すれば資格がもらえるんではだめです。国家試験にしてください」そう訴える学生がいました。

 私はそれを幼児からのメッセージとして受け止めました。

 〇、一、二歳の乳幼児を、親が知らない人に違和感なく預けられるようになったとき、人間は大切な一線を越えてしまったのかもしれない、と時々不安になります。絆の始まりは、親が絶対的弱者である自分の子どもを命がけで守ることだったのではないのか......


スキーバス転落事故

 スキーバス転落事故。繰り返し明らかになる報道を見ていて、今の保育界の現状とあまりにも重なることに怖くなりました。

 「保育は成長産業」という閣議決定が土台にあって、市場原理で競わせれば質が上がるという学者の安易な経済論を鵜呑みにする現場を知らない政治家たちの規制緩和が保育の大切さを知らない人たちのサービス業としての参入を許してしまった。競争原理と、子どもが優先されていない施策が生んだ急激な保育士不足、その対策としての安易な保育士育成、必要に迫られた不本意な採用によって保育室の空気がよどみ、連鎖し、学校教育も含めた子育ての質の低下に歯止めがかからなくなっている。保育士を運転手と置き換えれば、その劣化の構造は酷似しています。明らかに不適合な人材が、仕組みの存続のために雇われ、事故を起こす。事故が起こってから処罰、処分をしても、規制緩和による質の低下は二度と元には戻らない。

 厚労省は、立入り調査をした小規模保育や認可外保育の半数に違反があり、罰則規定もないままそれが是正されていないことを知っている。それだけ違反が常態化していながら、立入り調査さえ行われていない保育所が三割あることも知っている。それでも閣議決定で「あと40万人保育所で預かれ」と言われると無理な施策を進めざるを得ない。役人と政治家に一体感、信頼関係がないのだと思う。

 バスの転落事故と違うのは、保育においては、親に見えない、そして将来に渡ってこの国を左右する子どもたちの心への影響があまりにも大き過ぎ、それが見えにくいということ。


(保育界の現状は、政治家でも行政でも、親でも、「ブラック保育園」という言葉でネット検索すればすぐにわかります。それについてマスコミがこれほど報道しない現実も、また仕組み全体の崩壊を進めている大きな要因です。)


アメリカ大統領選を見ていて

 テレビや映画の日本語字幕の間違いが以前から気になっていたのですが、アメリカの大統領選の報道で、ちょっとひどいのが二つ。一つはFNNのニュース。共和党のクルーズ候補がアイオワ予備選で勝利した直後の短い直撃インタビューで、日本のテレビを意識してクルーズ候補が「過去七年間(つまりオバマ政権の間)日本に対してアメリカは友好的ではなかったけれど、これからは違う」と言ったのです。それに「過去七十年間」という字幕をつけたのです。たぶん、七年という意味が理解できずに、戦後七十年ということだと思ったのかもしれませんが、これでは意味合いがあまりにも違う。選挙戦の中の対立党批判が、歴史認識に飛んでいる。

 もう一つはNHKの予備選翌日のニュースで、民主党のサンダース候補の演説の中の「政治的革命」を「政治的進化」と訳したこと。RevolutionEvolutionと聴き間違ったのだと思いますが、サンダース氏は立候補当初からこのフレーズを標語として使い続けているわけで、この時点での誤訳はあまりにもお粗末。しかも、アメリカという国で大統領選の候補が「Political Revolution」という言葉を使うことには他国と違った大きな意味があります。「社会民主主義者を自称する」と簡単に紹介されていますが、共産主義や社会主義を敵視してきた歴史を持ち、第二次大戦後強硬な赤狩り施策を実施し、朝鮮戦争とベトナム戦争を体験した国で、これを大統領選で自称するにはかなりの根性がいる。しかも、Political Revolutionという言葉自体に特異な歴史がある。

 黒人であるオバマさんが大統領になった時にも「特別な意味」を感じましたが、サンダース氏とクルーズ氏の対決には人類の行く末を左右するような意味があります。重要な時だけに、報道の質だけは保っていただきたい。翻訳は、翻訳者が知らないうちに、時として重要な鍵を握っているのですから。

(講演依頼、お問い合わせはchokoko@aol.com松居までどうぞ)

  新春、古備前の陶工のドキュメンタリーをテレビで見ていました。焼き物を作る姿と心を拝見しました。つくる、守る、愛でる、祝う、そして「自然」や「理」や「歴史」と共に環境を整えて待つ。あとはたぶん祈りが導く。

 一時、心を静かにし、ときどき喜び、感動する。とても子育てと似ている、と思いました。

 

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 人生の質は、自分が育てている子どもが四歳になるくらいまでに、どれほどその子に信じてもらったか、愛されたか、そのことにどれほど確かに気づくか気づかないか、で定まってくるように思います。

 親が子に、自然の摂理として無条件に愛されたことを意識し、それをどう自らの心に刻むかで人生は決まってゆくのだと思う。親がその関係の確かさを心に刻むことによって子どもたちが、「信じること」が生きる力なのだと、遺伝子のレベルで気づくのです。

 

 生きる力は、技術でも、能力でも、競争に勝つ力でも、自立することでもなく、「信じること」の連鎖の中に身を置くこと。本来それが自己実現と呼ばれるものだったはず。そこを忘れると、人類全体の生きる力が弱くなってくる。(その源となる、一家の生きる力が弱くなってくる。)その中で必死にもがいているのが今の人類の姿だと思うのです。

 

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 繰り返し、幼児に完全に信じてもらう事で、人間は「神に愛されている」「仏の慈悲に包まれている」、そんな感触を持ったのだと思います。それはすべての人間が多かれ少なかれ体験する感触で、それになるべく気づきましょう、と勧める手段が「宗教」なのかもしれません。歯車が回り続けるように。

 子育てという、形は色々ありますが、ほとんど誰もが体験する、意識をすれば誰でもより深く自分の良さを体験出来ることの中に、人間が社会を形づくるために不可欠な啓示があって、生体学的にいうと、それが人間の遺伝子をオンにする、ということなのかもしれない。それは体験であって学習ではないのです。



 成人式が来ると思い出すのです。ある市長さんが語ってくれたこと。

 私の講演を聴いたあと、役場の市長室で市長さんが言ったのです。

 「先日、市の成人式で挨拶したんです。会場はザワザワしていて、お世辞にも行儀がいいとはいえない若者たち。私の話を真剣に聴いているようにも思えなかった。でも、出番が来て、幼稚園の園児たちがお祝いに舞台の上で踊りながら、歌をうたったのです。幼児たちが舞台に上がって並んぶと会場がシーンとなったのです。そして、成人した若者たちが静まり返って、その歌と踊る姿を見つめるのです。松居さんが言っていたのはあのことですね」

 こういう理解の仕方はとても嬉しかった。

 私はうなずきました。若者たちが、うらやましそうに園児を見つめる姿。それが宇宙の法則、遺伝子の働き、人間が真の幸せを探す姿なのです。園児たちの踊りと歌で、人間の心がまとまる。

 若者たちはちゃんと、何を見つめるべきか知っている。

新年、あけましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。

シャクティのドキュメンタリー「シスター・チャンドラとシャクティの踊り手たち」の上映会とKNOB君と私のミニコンサートのお知らせです。


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演奏者略歴

松居 和

 

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1954年、東京生まれ。慶応高校在学中に尺八奏者宮田耕八郎師に指事。慶応大学哲学科からカリフォルニア州立大学(UCLA)民族芸術科に編入、卒業。?UCLA在学中に尺八奏者としてテレビ映画「将軍」のサウンドトラック(モーリス・ジャール音楽)に参加、アメリカにおける音楽活動を始める。その後、ジョージ・ルーカス制作「ウィロー」、スピルバーグ監督「太陽の帝国」、ブラッド・ピット主演「レジェンド・オブ・フォール」、シュワルツネッガー主演「レッドブル」「コマンドー」、アントニオ・バンデラス主演「マスクオブゾロ」「レジェンドオブゾロ」、エディー・マーフィー主演「ゴールデンチャイルド」「続48時間」はじめ多数のアメリカ映画に参加。

 ジョニ・ミッチェル「Dog Eats Dog」、ライ・クーダー「Slide Area」、ケニー・ロギンズ「Leap the faith」、ジョージ・ハリソン プロデュースによるシタール奏者ラビ・シャンカルの「East meets East」他、多数のアーティストのアルバムで演奏。

 自らのアルバムを16枚制作。音楽プロデューサーとして多数のアーティストを手がける。日本映画「首都消失」および、チャカ・カーン、ジェームス・イングラム、パティ・オースチン、フィリップ・ベイリーを配した全米ツアー「Night on the town」の音楽監督を務める。

 

講演者

1988年、アメリカにおける学校教育の危機、家庭崩壊の現状を報告したビデオ「今、アメリカで」を制作。1990年より98年まで、東洋英和女学院短期大学保育科講師。「先進国社会における家庭崩壊」「保育者の役割」に関する講演を保育・教育関係者、父母対象に行い、欧米の後を追う日本の状況に警鐘を鳴らしている。

2004年版文芸春秋社「日本の論点」に「子育ての社会化は破壊の論理」を執筆。

2006年から2010年まで埼玉県教育委員会委員。(2009年から2010年まで委員長)(2011年から2013年まで埼玉県児童福祉審議会委員)

2008年、制作、監督したドキュメンタリー映画「シスター・チャンドラとシャクティの踊り手たち」〜インドで女性の人権問題で闘う修道女の話〜が第41回ワールドフェスト・ヒューストン国際映画祭、長編ドキュメンタリー部門で金賞受賞。

 

 

 

 KNOB(ノブ) 本名 中村亘利 雅号 恒堂

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13歳からダンスを始め芸能界で活動後、25歳の時にオーストラリアにて先住民アボリジニの人々の楽器ディジュリドゥに出会う。強い衝撃を受ける。帰国後、独自にトレーニングを重ねる。この時期、縄文からの日本古来の石笛の存在を知る。

一方幼少のころから書に触れ、文人小野田雪堂に師事。2002年師範となる。現在は北鎌倉雪堂美術館を拠点に全国で活動。茶の湯、能楽の精進を行い、日本人としての精神、文化を空洞の木の音、響きの本質と共に世界に発信している。

2004年、アボリジニの長老ジャルー・グルウィウィジャパンツアー支援CD「ワンガイ」に参加。

2005年、浮世絵師北斎の世界を音にしたCD「観音」を発表。

2006年、重要文化財奏楽堂にてKNOB Live 「和の心にて候」を行う。

2007年公開映画[地球交響曲第六番]虚空の音の章に出演。

2008年、伊勢市猿田彦神社猿田彦フォーラムおむすび祭りにて演奏。四天王寺にて被爆ピアノと共演。 茶の湯の文化、精神性に強く惹かれ、この年から毎年「雪堂茶会」を行う。

2009年8月15日終戦の日に地球交響曲第六番上映会&虚空の音コンサート&龍村仁監督講演を行う。インドでカースト制撤廃と女性の地位向上のために活動する[シスターチャンドラとシャクティの踊り手たち]の日本公演に友情出演。MOA美術館能楽堂にて行われた「和の心にて候?十方彩雲?」に出演。

2010年、西新井大師・光明殿にて『江戸の浮世絵師・葛飾北斎生誕250年記念コンサート』を開く。

2011年、有形登録文化財 代々木能舞台にて 『KNOB東京音開き』を行う。オーストラリア先住民アボリジニのククヤランジ族の聖地にて奉納演奏を行う。神奈川県葉山にて自然栽培による米作り始め、1123日 代々木能舞台にて新嘗祭を寿ぐ『実りの祈り』を開催。

2012年、『世界平和・地球への祈り』として比叡山延暦寺・根本中堂にて笛奏者雲龍氏と共に献笛。

2013年2月、インド霊鷲山、マハボディー寺院、日本寺をはじめとして、インド・ブータン各地各寺院にて奉納演奏を行なう。長崎市原子爆弾死没者供養祈念塔での仏舎利奉安式にて献奏。平成二十五年度文化庁芸術祭参加作品『日本神話の世界』を俳優田村亮氏とInfinity Arts Mugenにて行う。

 

奉納演奏

富士山本宮浅間大社、天河大辧財天社御遷宮二十年記念大社祭、倭姫宮、元伊勢伊雑宮、元伊勢籠神社、奥宮・真名井神社、熊野本宮大社、諏訪大社上社本宮、那智の滝、猿田彦神社、平等院、鞍馬寺、伊豆山神社、江島神社中津宮、江島神社奥津宮、中尊寺、毛越寺、鶴岡八幡宮、榛名神社、金峯山寺、観音正寺、東慶寺、円覚寺、宇治上神社、伊弉諾神宮(淡路島)、おのころ神社(沼島)、慧日寺、薬師寺東京別院、玉置神社、神倉神社、四天王寺、日枝神社山王まつり、日蓮宗総山・久遠寺奥の院・七面山敬慎院 前宮、應頂山勝尾寺、ルーテル学院大学教会、箸墓古墳、後醍醐天皇陵(如意輪寺)、仁徳天皇陵、大安寺、橘寺、 高千穂神社、大倉寺(元高野)、笛吹神社、花山院、出雲大社大遷宮奉祝奉納、薬師寺東京別院観月祭、京都木嶋神社蚕の社  、實相寺、奈良岡本寺、長崎興福寺、隠れキリシタンを祀る枯松神社 、ほか。

 小規模保育や企業型保育所が国の新制度で奨励され、「子ども優先」という保育の原則を知らない人たちが利益を目的に参入してくる。そして、保育界の常識が変わり始めています。親たちの子育てに対する常識も、「政府がやっているサービスをなんで利用しちゃいけないの?」という言葉と共に、ここ数年で急速に変わりつつあります。

 利潤追求型の保育が、定期的な立入り調査もなく安易に容認され、サービスの手法として、英語や音楽、リトミック教室、体操、お絵描きといったお稽古事を保育と平行してやる保育所や学童が増えてきました。以前からもあったのですが、もう少し子どもに対する配慮、保育の常識をわきまえていたように思うのです。

 追加料金を払って、子育てをしている気でいたい親。保育所で何が起こっているか確認しようとしない親たちはよほど注意しないと、最近の保育室では常識を越えたことが起こっています。保育や子育てに関する意識が変化する中、その内容は規制もなく様々で、中には、お金を払っている子だけにとびとびで英語で話しかけたり、お遊戯させたり、というとんでもない業者さえいる。一部屋に複数の幼児を生活させて、お金を出している子にだけ、みたいなことを保育士が出来ること自体が根本的におかしいのですが、業務命令でやってしまう。そして、それに慣れてゆく。これでは幼児を集団にしている意味はないし、社会性という観点からすれば逆効果でしかない。

 0才児を預かる24時間型の保育サービスもそうですが、普通人間はそういうことをやらない、という光景が政府の「保育は成長産業」という閣議決定のもとにあちこちに現れているのです。子供の気持ち、子供の育ちより、親相手の金儲けが優先する。こういう保育はいずれ淘汰されると思います。そうであってほしい。しかし、それに気づくまでに子どもの人生において取り返しのつかない出来事があちこちで起こっていて、それは社会全体にこの先長く影響するのです。取り返しのつかない日、本という不思議な国の文化や伝統が、自らの手で失われようとしている。

 保育の意味さえ知らない会社の方針に従い、お金を払っていない親の子どもの気持ちを平気で、一部屋の中で一年中無視できるようになる。子どもの気持ちを優先しない国策に影響され、こういう保育士が増えてくる。そして、こういう大人たちに囲まれ、育てられ、国の未来はますます殺伐としてくるのです。

 他人のことなどどうでもいい、自分のことしか考えない、そんな社会の空気に幼児期から囲まれた子どもたちに「道徳教育」やカウンセラーで対処しようとしているのだから、馬鹿馬鹿しくなる。経済よりも国のあり方、美しさを優先する政治であってほしい。そんな願いも虚しく、一年が暮れてゆく。

 こんなことをしていては、結局、心ない「子育て」を押し付けられた保育者や学校の先生が疲弊してくるだけです。それは、義務教育によって、すべての子どもたちの将来に影響する「環境」です。

 

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手紙1

松居先生

 

 ご無沙汰しています。 お変わりなくご活躍のことと存じます。

 先週公私立の主任会の席上1日保育士体験の報告があったそうでお知らせいたします。 

 K市も9月からやっと全園で取り組み初め、いろいろ議論があったようですが、「案ずるより産むが易し」でそれぞれ好感の報告だったそうです。

 ある園では、転勤で埼玉県から引っ越してこられた方があり、向こうですでにお父さんが体験されて K市でも希望されたケースもあり今のところ順調に過ぎております。

 これからいかに継続、発展させていくかが又問題となってくると思いますが、全園児保護者体験を目指して努力してまいりたいと思います。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。ささやかなご報告で申し訳ございませんが引き続きご指導よろしくお願いいたします。                                             K市 A.J.


返信:1

 

 ありがとうございます。嬉しい限りです。

 いま、保育界が追い込まれている、人材不足、財源不足、親の意識の変化、規制緩和や水増しによって広がっている質の低下を考えると、一日保育士体験で象徴的に保育の存在意義と子ども優先の姿勢を社会に対して明確にしてゆくことが一番大切だと思います。それにより若い保育士に、保育は親に対するサービスではなく、子どもを優先に、子育てをしている、それには親との協調、信頼関係が必要なのだという意識を持ってもらわないと、このままずるずる国のいう「サービス産業化」に進んだら、いい保育士は集まらなくなってしまうと思います。

 

 どうぞよろしくお願いします。

 

松居

 

手紙2

 

 拝啓 暑さ厳しい毎日ですが、ますますご清栄のこととお喜び申し上げます。

 

 この度は、ご多忙中にもかかわらず、S市立保育園園長会研修の講師をお引き受け頂きまして誠にありがとうございます。

 S市立保育園で「保護者による一日保育士体験」を取り入れて6年経ちます。軌道に乗るまでには時間がかかりましたが、最近では保護者の方からまた今年もやりたいと言ってくるまでになり、子どもと過ごす楽しさや可愛さが伝わり、参加して良かった、やはり半日の保育参観とは全く違う、行事で素晴らしい成果を発表できるのは日々の保育の積み重ねがあってこそ、などの感想が寄せられています。紙芝居を必ず読んでいただいていることについても、これだけが心配だったと話す父親もいますが、思っていたよりも子どもたちが良く見てくれて自信が持てたと感想に書いてくれています。一日、子どもと過ごし、職員の気遣いや配慮、生き生きと遊ぶ姿に共感し、保護者と園との関係も理解しやすい関係になってきています。

 ますます、保護者の親力を向上させるためにも、保育園が子どもたちの健全な成長発達を促し、いつ誰に見られても胸を張って保育を展開していくことができるようになるために、松居先生にご講演をお願いしたいと考えました。

 どうぞ、よろしくお願いいたします。

 

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不自然な環境の中での発達

 最近の子育てに関する議論、児童虐待の増加やイジメ・不登校、噛みつきや反抗期などの問題に関してもそうなのですが、学問が専門分野化し、学者や専門家たちが、集団教育、集団保育を前提として発達を考えている。それを是とした上で考えているから場当たり的な対策しか思いつかない。子どもをこれだけ長時間集団にすること自体がかなり不自然で、現状は、その不自然な環境の中での発達だということを忘れてはならないと思う。

 そこを理解しないと、保育で何が出来るか、学校教育で何が出来るか、という議論になってしまう。

 保育で何が出来ていないか、ということを第一に考えなければ、保育は成り立たない。

 何が出来ていないか、の第一は、親が子どもと一緒に過ごせていない、ということ。それが、未体験の「親の無関心」「家庭崩壊」を招くことは欧米の極端な数字を見ても、日本の最近の保育崩壊を見ても明らかだと思います。

 

 

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 北海道の田舎で講演後、校長先生三人、教頭先生三人、PTA会長三人と飲みながら大いに語り合いました。この組み合わせで頻繁に話し合い、子どもの成長を祝うチームワークがあれば、日本の学校はまだまだ大丈夫。幼稚園や保育園で親心を育てることが学校を支え得る、と思う。まだ間に合うと思う。

 そこから30分の札幌のような大都市では、誰かを育てる役割りを持っている子どもたちが、障害児学童と重ねて利益を追求する人達に利用され、集められ、時にそこは犬の訓練所のようだと言われることもあるような部屋に囲われ、孤立し、人間の相互不信の原風景になってゆく。


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手紙:3

松居先生

 お忙しい中わざわざご丁寧な返信を頂き恐縮するとともに大変感動しております。有難うございました。今回は、我が園の新しい試みに少しお耳をお貸し頂きたくメールさせて頂きます。

 私どもK保育園は、創立者が寺の住職で、第2次世界大戦の折、1944年召集され、終戦後3年間捕虜としてシベリアで重労働に従事し、お仲間がどんどん亡くなる中、命永らえて帰還してまいりました。捕虜時代、現地の人が自分たちに言うことと隣りの人に言うことと180度違うことを言っていてもまるで良心の呵責を感じない場面に度々出合い、日本も敗戦国だけれどあのような国民には、なってほしくないとの思いで、幼い時からしっかり仏の教えを幼い人に伝えたいとの願いから、帰還後5年に定員40名の小さな保育園を創立しました。しかし、個人立ではにっちもさっちもならず、社会福祉法人格を取りましたが、保育の理念はあくまでも仏教によっております。そんな関係で、障碍を持つお子さんも皆とともに育ち合ってほしいと統合保育を学級編成は、縦割りを特徴としております。

 子どもの行事に関しましては、保育園は、保護者の就労を支える場所ではありますが、常に幼い人の代弁者でありたいとの思いから、日頃大人のスケジュールに合せられている子どもに対し、行事の際だけは大人が、子どものスケジュールに合わせて頂きたいと4月の時点で、年間計画を保護者に示し、休暇の取得を予めお願いしています。

 このあたりのことは常々保護者に理解を求めてはいますが、毎回行事の度に出てくるアンケートは土日に行事を開いてほしいというものが多くあります。行事の一つ、毎年、12月8日は釈迦の悟りを開かれた成道会(じょうどうえ)という仏忌に当たりますので、前半セレモニー、後半子供たちの生活発表会の2部仕立てで開催しています。今年も次のようなアンケートがまいりました。

 「昨年までは乳児組だったので、あっという間に出番が終わってしまう感じがして、他の学年も見なかったのですが、今年は、見ごたえがあるなと思いました。まずは、物語劇、あれだけの長い科白を全員がよく覚えたなと感心しました。又、毎年違う物語なのでい衣装も小道具も後ろの背景も全部作るのが大変だったろうなと思いました。先生方のご苦労を思うと有難いです。来年象バッジ(年長組)として、あれだけの大役をこなせるのか、正直心配ですが、たのしみでもあるなと思いました。やはり仏教の教えが根底にあるので、どの出し物も心に響くものがありました。その点で、K保育園はかけがいの無いものであると思います。ただ、1点だけすみません。

 職場では平日に行事が行われることに理解が得られないようで、、保育園なのに、何故休日に行事をしないのかと言われるたびに心が折れそうになります。職場のあるK市ではそれが普通だとか。もう少し休日の行事が増えると有難いと思っています」

 最近は子供に対する大人の許容量が狭くなり、世田谷の保育園新設に対し、近隣住民から反対運動が出たニュース等寒々とした報道が次々出ています。保育関係者が、必死に子どもの立場を訴えても、なかなか時代は変わってこないことに気付かされ、行事に参加を可能にしてくれた職場の仲間に園としてもお礼を伝えることで、子どもの立場をアピールできるのではと考え、今回初の試みとしてお礼状を職場に届けて頂くようお知らせを出しました。先のアンケートの方は勿論ですが、他にも希望者が出るのではと思いましたが、一向になしのつぶて、いささか落胆していましたら数日後、隣の市の役所に勤務のお父さんから、職場のみんなに伝えたいからと礼状を求められ、思わず、やったー!とガッツポーズでした。

 K市は、「子育てはK市」を合言葉に市長さんは住みやすい市を強調されますが、いつも申し上げているのは、卒園後、15年すれば、立派な市民、その時、本当に立派な市民であるかどうかこの乳幼児期のありかたにかかっていることです。1日保育士で、親を巻き込み、お礼状で、一般市民の理解を深めてもらうということにならないかなと考えています。甘いかもしれませんが・・・・とりあえず、気付いたところから小さな一歩をと思っています。

 来る年もどうぞよろしくお願いします。  

 追伸:松居様


 実は、スリランカに創立11年になる姉妹園を持っていますが、そちらで、毎年11月末に「TALENT CONCERT」として、いわゆるお遊戯会を開いております。、
 毎年それに参加する度に感じさせられることがあります。
 園児数160名前後ですが、園にホールがありませんので、毎年、コロンボのホールを借りて開催しております。今年度も800人の収容能力のある貸しホールが、ほぼ満席の状況でした。園はコロンボから1時間半ほど南のピリヤンダーラにありますが、内戦続きでなかなか幼児教育まで行政も手が届かなかった中で、内戦も終わり、子どもの教育に先行投資をする考え方が増えてきたせいでしょう24名でスタートした園でしたが、少子化の日本に比して、入園希望者が増え、数の上では姉園を上回っております。
 そんな中、このお遊戯会に、一族郎党、ご近所さんに至るまで、園児数の3倍以上もの観客が、ホールを埋め、会終了後は、親子で帰宅するという日本では考えられない場面を目の当たりにし、いつもその落差に胸を痛めております。といいますのも、向こうが終わって帰国し、我が園の行事に参加すると、保護者は、プログラムで我が子の出番の間だけ、時間休を取り、参加出来ない家族のためにビデオを撮り、そそくさと職場に戻り、さらには、居残り保育を申請される場合もあります。
 幸い、我が園では、この日は一日子供のために、舞台が終わっても、その余韻に親子で浸ってほしいということを何かにつけお願いしていますので、居残りはありませんが、公立さんは、行事が終わって半数以上は居残り保育と言われます。
 休日に行事を開催すると園の立場上代休を取るわけにはいかず、そうなると職員の休暇のやりくりがとても大変になります。職場によっては、行事のプログラム等を職場に事前に出せばすんなり休めるという方もありますが、そうした職場は希少で、アンケートにもありましたように肩身の狭い思いをして行事に参加されている方も少なくありません。そんなこんなで今回の礼状作戦になった次第です。




返信

 スリランカの風景、とてもよくわかります。

 私も何度かインドへ行き、貧しくとも落ち着いている村人の生活などを眺めていて、子育てが「生きる」中心といいますか、人々が心を合わせるために存在する風景に繰り返し出会いました。それを思う度に、今の日本政府が薦めようとしている「保育改革」が、子育ての本質を人間社会から奪ってゆくように思えてなりません。それが保育園における親たちの意識の変化に一番表れている。だからこそ、いま動いている保育施策のゆくえが、日本の将来を決定づけることになると思うのです。

 まず現場が、保育の本質と子育ての意味を忘れてはならないのだと思います。

松居

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 年末、フィギアスケートの放送を見ていたら、1人の選手が映画「マスクオブゾロ」のサウンドトラックを使っていました。私が吹いている部分は使われていませんでしたが、ジェームス・ホーナーの作曲でロンドンのAir Studioで、一ヶ月滞在して作った音楽です。
 今年、ジェームスが亡くなりました。同じ歳の彼とは20本くらい一緒に仕事をしました。ブラッド・ピットが主演した「レジエンドオブフォール」、これもスケートでよく使われるのですがジェームスの作曲、指揮で、メインテーマをロンドンシンフォニーをバックに尺八で吹いています。
 足し算してみると一年以上の日々を一緒に過ごしたことになります。

 永遠に少年のような人でした。心からご冥福をお祈りします。

 今年も色々ありましたが、私には、ジェームス・ホーナーが逝った年、ということになるのです。音楽を一緒に作る、という行いは、それほど特別な体験なのだと思います。魂と魂をつなぐ、言葉とは違う次元の、人間が人間であるための不思議な、それゆえに絶対的なコミュニケーション手段。沈黙という宇宙が常に介在する、大切な心を合わせる手段なのだと思います。
 彼が逝ってしまったことを思う度に、胸がひりひりします。

 Thank you, James. I will keep playing for you.

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保育士さんの面構え

 あちこちで講演をしながら、役場のひとたちに、国や親のいいなりになって保育の質、保育士の心のゆとりを失っていったら、取り返しつかないことになりますよ、と説明する。保育や学校教育を存続させたいのなら、心ある保育者を大切にすることです、とお願いする。

 保育士さんが集まっていると面構えを見てしまう。ほぼ全員女性の聴き手に「面構え」はそぐわないのですが、今の保育事情を考えるとこれは結構重要問題で、地域の環境によってずいぶん違うのです。山に囲まれた公民館で粒ぞろいの200人に出会いました。思わず窓の外に目をやり、山々のおかげかな、と考えてみましたが、講演終了後話を聴いて納得しました。すべて公立の保育園という地域なのですが、9割が正規職員だと言うのです。それだけ予算をかけて守ってきた保育なのです。

 20年前なら、保育士の待遇がその面構えに直結することはそんなにはなかった。しかし、これほど保育士が不足している今、地方公務員として募集すれば確かに倍率は出る。保障も昇給もありますから長続きもします。待遇は勤務年数につれて非正規の2倍3倍になっていきます。公立特有の問題が色々あったとしても、全体の保育者としての意識は確かに維持出来る。お互いの意識がいい方向へも悪い方向へも影響し合うのが保育です。これは子育ても同じで、十人親がいれば、子育て苦手という人が一人は居て、でも混ざっていれば全体のレベルはいい方向へ向かう。子育て上手という人は幸せそうな顔をしていて、人間はそういう人を真似ようとするからです

 過去十五年くらいの財政削減の矢面に立たされ、保育士は公立でも非正規、臨時採用が7割を超える自治体が増えています。そこへ、税収が格段に多い東京の自治体が、居住費月八万円援助みたいな補助金を出し、地方から保育士を吸い上げようとする。賃金を上げずに居住費を上げるところが姑息であからさまです。地方はどうなっても構わない、という感じがするのです。

 国全体が「自分さえ良ければ」という市場原理に巻き込まれ、それが「子育て」の領域にも浸透し、(親も含めて)それを何とも思わない社会になってきた。こんな施策を進めておいて、「地方創世」「一億総活躍」などと言うのです。地方を回ることが多いので、こういうやり方には腹が立ってきます。


中堅保育士さんからのメール/本音で言う人

 

 お久しぶりです。

 長らく連絡できずに申し訳ありませんでした。本当に色々ありました。現在進行形で問題勃発しています。新制度になったからなのか、もうとっくの昔に日本は終わっていたのかはわかりませんが、親心を空っぽにするために保育園があるような気がしてなりません。親も、上も、メディアも、政治も、みんな◯◯です。言い過ぎかもしれませんが、最近そんなやつとそんな画面しか入ってきません。

 子どもの成長ではなく、子どもの寂しさを育んでいるだけのような気がします。

 本当はもっともっと前に、連絡してお話しようと何度も思っていたのですがただの愚痴になりそうで、なんだか申し訳なくて連絡できずにいた次第です。

 お金です。

 女性に働いてもらって、経済を豊かにする。

 そこだけ。

 それを謳えば好感度が上がるから、バカみたいに保育園増設、待機児解消と言っておけ精神。

 それらに反対すると、古い、の一点張り。 ありえないです。

 なぜ、保育士が足りないのか、その原因を分かっていないから、エンドレスでしょうね。

 なんだかパワーがでなくて。

 少し前まで怒りがパワーになってぶつかっていけたのですが、その力もどっかいっちゃって。

 保育園の在り方も託児所化しています。親は自分の都合で預けたい、優先順位は自分です。それが一人や二人じゃない。

 自分の時間が一番なんです。

 親が、親である前に「個」でいようとするのです。

 親になった以上、親でなければいけないのに。特に乳児期は。

 そこを支援せず、親の個としての生き方を援助しているだけです。

 人の土台を作るのが親ではなく、保育士であっては絶対にならないのです。

 もういやです。

 

(私の返信がここに挟まります。先日下関の自民党女性局のイベントで講演し、安倍さんの秘書が来ていました。講演の前に大きなクスノキに出会い、「気」をもらいました、というメッセージと一緒にクスノキの写真を添付

 

 是が非でも安倍総理の秘書の方から安倍総理本人に、どうか、どうか、松居先生の言葉、思いがまっすぐ、まっすぐ届き、少しでも子どもに寄り添った政策になりますように。

 本当の意味での子どもの幸せを、もう一度考えて頂けますように。

 そして、今の危機的状況を理解しますように。

 

 松居先生、講演など、お忙しいと思いますが

時間があります時に是非またお会いしてお話させて頂ければと思っております。

 私だけでなく、前回共にいた先生方のモチベーションがだだ下がりです。

 様々なことによって。エネルギーをチャージしないと、潰れてしまいそうです。

 

 

(地方の公立保育園で、親と保育士に講演し、穏やかな園長先生と役場の人とお茶を飲みながら話していて、ふと憶い出して携帯に入っていたこのメールを読んだとき、園長先生と役場の人の目に涙が浮かんだ気がしました。その奥に炎が見えました。

 状況を真剣に考え、把握し、怒りをエネルギーにして頑張ってきたひとたちが潰れてしまいそうになっている。親に言えない。上に言えない。役場に言えない。幼稚園や障害児デイも含め、本音が言えない人たちが幼児期の子育てに、より深く関わっている歪みが出て来ている。一番長時間関わっている人たちの気持ちが尊重されていない。)


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 心ある保育士が何に傷つくか。

 「休みの日は一緒にいてあげてください」と親に言って、親が人権侵害と役場に駆け込む、プライバシーの問題だ、上から目線だと気色ばむ、そんな瞬間に、一体自分たちは何をやっているんだろう、と思う。

 子どもを優先しない親たちの身勝手な一言で、保育士の人生観が壊れることがある。そして、心ある保育者が辞めてゆく。国も学者も、なぜこれほど保育士が不足する事態になったのか、わかっていない。(理事長や設置者も度々わかっていない。)「心ある」、これが保育そのものだった。

 政府も、学者も、報道も、人間が生きるための優先順位、子育ての優先順位を一度しっかり考え直さないと、このままでは保育界は立ち直れない気がします。政府は、保育界から「心」を奪うような施策を続けている。もうこれ以上、学校教育を支えるのは無理でしょう。

 どんなに仕組みを変えてみても、保育の質は保育士の幸せであり、その幸せの「物差し」を現場で伝える園長や主任、ベテラン保育士の決意であって、その決意は親子関係を眺めることから生まれていたのです。そこに気づかなければ、現実に起こっている保育崩壊は止められない。教員資格を持っていれば保育士になれる、地域限定の保育資格を新たにつくる、などという場当たり的な規制緩和が続いています。これでは保育士の意欲はそがれるばかり。国が言うようにこのままサービス産業になってしまったら、「いらっしゃいませ、ありがとうございした」という送り迎えの時だけの接客になってしまう。それでもたぶん多くの現場で保育士の真心は生き続けるのでしょう。しかし、親たちの意識の変化はその子たちの一生を左右してゆくのです。

 保育は教育以上に子育てだった。子育てをする「思い」の共有だった。だからこそ園長や主任、ベテラン保育士の「優先順位を間違っている親は黙ってここを通さない」という決意が保育の根幹だったし、保育所保育指針にもすでにそう書いてある。それが出来ていたかどうかは置いておいて、日本の保育に対する「思い入れ」「視点」は素晴らしいものだった。

 

 政府は、閣議決定で「保育は成長産業」と言い素人起業家たちの新規参入を促し、新制度で11時間保育を標準、8時間を短時間と遺伝子や宇宙に相談すること無く勝手に決め、三歳未満児の枠を増やす意図のこども園を、「幼稚園と保育園の良い所を併せ持つ」と、保育士不足の今ほぼ不可能な定義で無責任に宣伝し、それがうまくいかないと様々な規制緩和。「あと40万人保育所で預かれ」という首相の経済主体の方針を進めようとする。(先月、その目標が50万人になった。現状を知らないのか、誰も進言しないのか。)

 「障害児デイ」という言葉でネット検索すれば、いま保育界で起こっていることが映し絵のようにわかる。素人でも大丈夫。これで儲けよう、というビジネスコンサルの(コンサルタント料稼ぎの、あとはどうなってもいい)勧誘。彼らは、子どもの日々のことなど考えない。釣られた起業家が一年で倒産しても見向きもしない。私が一番危惧するのは、その倒産してゆく過程で子どもたちの日々に起こること。

 設置者を除けば資格は必要なし。設置者の資格も広過ぎて、指圧師の体験が数年でもできる。厚労省の資料(障害児支援の強化について)にはお得意のパワーポイントの図が並ぶ。そこに書いてある「提供するサービス」を読み、「資格無し」を考えれば、その向こうに子どもたちの叫び、泣き声が聴こえてくる。色々ある保育現場の中でもここはいま無法地帯。

 子育て経験も無い素人指導員の「訓練」を受け、子どもが園に戻って暴れる。障害を持っていそうな子は愛着関係で包むのが第一歩なのに、厚労省のサービス規定(日常生活における基本的な動作の指導、知識技能の付与、集団生活への適応訓練)に、無資格の素人が取り組めば、イライラがすぐに密室での強制になってゆく。資格者でさえ複数の発達障害の子どもを指導するのは難しい。「誰でも出来ます」というコンサルの甘言が、経済学者の言う「市場原理」を端的に表している。人間性を失った市場原理は、弱者を追い詰める。

 

 報道は一体何をしているんだろう。

 日本中どの市でもいい。子ども課の職員に、「保育士足りますか」「来年シフト組めますか」「現場に居るべきではない保育士雇ってませんか」「政府の保育施策,可能だと思いますか」「親の意識,変わってませんか」と聴いてみれば、この国の置かれている状況がわかるはず。

 保育士がいないのに未満児の入所希望が倍増。来年はもうシフトを組めません、という保育課長の声をあちこちで聴く。待機児童が出てもいいから保育の質を落とさないように、とお願いする。保育所は人間同士の様々な葛藤を生む場所。親と保育士、園長と主任、行政と園長、子ども優先という視点が崩れ始めると、子どもに見られているだけに不信感が増幅する。気持ちや時間の余裕を失うと共倒れになってゆく。質の低下は連鎖し保育士不足が加速する。




2才児の不思議さ/人間の意思と宇宙の意図 

 

 保育新制度のこともあり去年から講演が増えました。今年も150回、それだけ現場や地方の状況もよくわかります。もともと保育士さんの勉強会、幼稚園・保育園の保護者たちにする講演が多かったのですが、学校の先生や保護者、保護司、民生委員さん、宗教的な集まりにも呼ばれます。去年は年初に自民党の党大会女性局の集まりで講演した後、十五の県連女性局から講演依頼があり、女性たちの思いはそんなに揺らいでいないのではないか、と意を強くしました。こういう人たちの意見を聴いていれば,政府もそんなに間違わないし、保育界も追い詰められなかった、と心底思います。

 冒頭で、2才児の不思議さ、存在意義について話すのです。

 私が一人で公園のベンチに座っていたら、変なおじさんです。でも、2才児と二人で座っていたら、いいおじさんです、と説明をすると、みなさんハッとして、なんとなく理解出来、「一緒に」笑顔になります。

 「そのことは知っている」という感覚がその場に満ちる。遺伝子のレベルで「そのことはみんな知っている」。

 この笑顔、人間性と言ってもいい共通の理解を体験することが社会を形づくるのだと思います。私と、横に座っている2才児のあいだには、宇宙(遺伝子)の相対性理論のようなものが存在し、それは時に神話のようなもので、無意識と意識の間に存在する。2才児は私をいいおじさんにしようとして座っているのではない。ただ座っている。

 単純に、宇宙の意図がとなりに座っている。

 「不思議が果てしない」。

 そんな感覚をなんとなく二人で身につけ、ハッキリはわからないけれど、自分の体の中にある遺伝子の説明に耳を傾ける。そんな瞬間が人間には必要なのだと思います。

 高校生の保育士体験で、ズボンを腰まで下げて悪ぶっていた高校生が、三才児にズボンのはき方を説明されて慌ててズボンを上げる。校長や教頭が三年注意しても上がらなかったズボンが、三才児が指摘するとすぐに上がる。

 三才児は無心に無意識に、自分の存在意義と高校生の成り立ちを指摘する。

 高校生は無意識の中で、三才児がいるから自分がいい人になれる、三才児がいるから、自分はすでにいい人なのだ、ということを知っている。知っていることを憶い出すために、高校生には三才児が必要、ということなのです。

 

 遺伝子に組込まれているもの、年月をかけ、進化の過程で培われたものを、社会という括りの中で(たとえば常識や文化といういい方で表してもいいのですが)、身近に感じさせてくれるのが乳幼児とのやりとりだったはず。幼児と丁寧に暮らし、その時「本当は、誰と誰が、何と何が」会話をしているのか、無意識の中で気づかないと、自分自身の成り立ちがわからなくなる。人生という限られた時間の中で、自分自身を充分に体験できなくなるのです。三歳未満児を生産性のない人たち、と括って、単に育てばいいんだという浅い考えで政府が家族たちから引き離すと、双方向に不安がどんどん広がっていきます。

 

果てしない不思議

 

 話を戻して、この「2才児」というのに意外に意味があって、公園で私の横に座っているのは2才児でなければならない。私がそう感じるのは、私たち二人の背後に大きな沈黙が感じられるからです。背後に沈黙、周囲に余白がないと、言語を介さない会話の意味や姿がうまく見えて来ない。

 背後に沈黙を感じないと、言葉は、深さや時間的広がりを失う。

 私はよく「4才児=人間として完成」説を言うのですが、頼りきって、信じきって、幸せそう、そこに宗教の求める人間像がある、という説明をつけます。しかし、無心、という境地の解説を宇宙が人間にするには、2才児が鍵を握っている、と思うのです。

 高校生がズボンのはき方を三才児に指摘される話も同様で、その時、なぜかほぼ必然的に「3才児」が登場する。生まれて、人々との一体感を身につけようとしている人の、連帯を求める意識が、ワルの高校生の遺伝子に語りかけるのでしょう。いい人間になろうとする意識が、意図として存在している。

 幼児期の人間には、みんなで見張るのではなく、みんなで愛でる祝うという周囲の環境がより重要なのだと思う。独特の存在感、大切な弱者という感じは、眺めている「みんな」の心を一つにする。それが人間社会の成り立ちの原点であって、養成校で与える資格以上の、人間としての資格を私たちに与えてくれる。

 

 人間の意思と、宇宙の意図(または遺伝子の中に形成されてきた宇宙と人間の育ちあいの過去)が、ある一定の重なりを持っていないと、人類は調和の方向へは進化しないし、マイナスの進化は相対的に常に存在しているから恐い。どの次元で道を選択するか、なのだと思います。

役割分担で子育てはできない

 

 三歳未満児は小規模保育で、そのあとは保育園で、と国はとても安易に目論む。

 以前、経済財政諮問会議の座長が「0才児は寝たきりなんだから」と言った。そういう連中が保育の仕組みを「新制度」と言って変えようとしているのだから空前の保育士不足も無理はない。「認可」扱いになった小規模保育の資格者は半分でいいし、ネット上では、「誰でもできる」「儲けるなら保育」というコンサルの宣伝が飛び交う。

 それまでにどんな保育を受けてきたかで三才児への保育士の対応は当然違ってくる。本来、一律に引き受けられるものではない。乳幼児期の発達を理解していないサービス産業的託児所保育を受けた幼児を集団で保育するのは難しい。どんな保育を受けたか、そういう施設ほど教えようとしない。

 仕組みで子育てはできないということを、国に助言する立場の学者たちが知らないからこういうことになる。仕組みをいじっていれば、役割を果たしていると思っている。


 国が薦める、三歳まで小規模保育そして保育園、その先は学校と学童という雇用労働施策は、実は、お互いどういう育て方をしているか理解していない仕組みが入れ替わり「子育て」をしていること。子どもは混乱するし、不安になる。保育士も教師も専門家だからと親は思うかも知れないが、「専門家」たちの間に絆がない。「専門家」を生み出す資格制度に心がない。資格の定義、取得する仕組みさえ保育士不足で簡単に変わってゆく。

 どう育ったかわからない子どもの子育てを、気安く引き受けてはいけない。

 欧米の家庭崩壊と犯罪率を見ても、元々家庭という土壌で「子育て」がそだてていた男女間の信頼関係が崩れると、人間社会は疑心暗鬼で土台からバラバラになってくる。

 「子育ての社会化」で生まれる人類未体験の疑心暗鬼が人々を競わせ、その必死さが、しばらく経済効果を生むのは一つの現実かもしれない。しかし、それでは目指すものが人間本来の幸福感とずれてくる。次世代を育てることを支える幸福観が土台にないと、社会全体が安定性を失う。福祉や教育という仕組みで肩代わりは出来ない。


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言語の習得期という意味での幼児期


 人間は成長し、言語によって考える、とよく言われる。言語によって思考を確認する、視る、というべきかもしれない。そして、言葉には"ニュアンス"があり、同じ言葉でも、それが話される時、話す人、その表情、声の質、その背後に存在した感情や沈黙によって微妙に違いが生じてくる。

 あるメロディーが異なる和音の上で奏でられると印象が違うように、背景や空気の感じ方の違いによって、言葉の意味に違いが生じる。

 大人が三才児と会話をする時、同じ単語が並んでも、幼児からの言葉は受け取る側には違って聴こえる。相対的な関係の解釈が会話の向こうに必ず存在するからだ。それは即ち考える沈黙、意識の中で語られる各々の言語が、それが取得された時の体験によって異なることを意味しているのだと思う。文化や生活習慣の違いももちろんだが、言語の取得体験が、たとえばそれが日本語か英語かヒンズー語かも含めて、人間の思考や共同体の成り立ちに少なからず影響を及ぼすということ。共通言語というのは一面共通体験の積み重ねでもあった。

 幼児は言語の習得期を生きている人たちで、この時期の沈黙と言語の体験が家族の意味や文化の伝承の世襲に重要に役割りを果たしていた。

 保育の質、保育士の質、保育園における職員配置の国基準は、そういう点で老人に対する福祉とは次元の異なる重要性を持っている。

 特別養護老人施設での人員不足の構造は、待遇が全職業の平均より月に十万円低いという数字も含めて保育士不足と酷似している。決定的に違うのは、そこで「育つもの」が異なること。保育園が家庭的であるかどうか、保育士がどういう頻度と"ニュアンス"を持って子どもに接するか、語りかけるかで、将来のこの国のあり方が変わってくる。同時に、社会性を持たない人間の数が変わってくる、とも言える。

 フランチャイズ系の一部屋しかない認可外保育園で、子ども向けの楽しげな音楽が流し続けられている風景に出会ったことがある。そこに異年齢の乳幼児たちの声や泣き声、様々な音が絶えることなく重なっていた。保育の専門家としての教育を受け、保育所保育指針を理解した園長や主任が居たら、絶対に起こりえない風景だった。私が二時間過ごすのが辛い人工的な空間でした

、その騒音から逃れられない状況で、一日八時間以上、年に260日幼児たち、そして保育士たちが選択肢を持たずに過ごしていた。それは確かに国によって造られた、常識では考えられない風景だった。


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 たまたま募集したよりも多く応募して来た、ちょっといい園の園長に、不採用の保育士を紹介してほしいという電話が他園から複数かかってくる。理由があって落としたんですよ、と説明しても、それでもいいから教えてくれ、と、明日国基準を満たせない設置者は必死に懇願する。判断はこちらでするから、と。幼児たちの過ごす時間や、存在意義が仕組みの存続、市場原理の原点によって忘れられてゆく。

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