子どもは騒音? 

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 東京版の新聞に、「騒音」に苦情 悩む保育園(ペアガラス「開かずの窓」・園庭使用制限)という記事がありました。
 保育園に対する騒音などの苦情が多く、待機児童をなくすために園を新設しようとしてもなかなかできない、という区長の嘆きが反響を呼んでいるというのです。
 まわりに畑でもあれば良いのでしょうが、密集して家が建っている地区では、毎日子どもたちの声を聴いているのもたしかに苦痛かもしれません。原点に還って考えてみれば、幼児をこれほどたくさん一カ所に集めることが、すでに相当不自然です。しかし、幼稚園・保育園は以前からありました。そして、保育関係者から話を聴くと、いまほど幼稚園・保育園が迷惑がられる時代はかつてないのです。運動会を開くにもびくびくし、園庭で焼き芋でも焼こうものなら、いきなり消防署に通報されてしまう、そんな話を現場で聴くのです。
 現代社会、というかなり不自然に造られた現実を踏まえたうえで、あえて別の視点で私は言いたいのです。

 幼児を保育園で一日平均十時間、年に260日も「人類」から隔離していれば、神様たちが「騒音」に聴こえるようになったからと言ってもしょうがないのではないか.子どもと接する機会が、すべての年齢で激減していることが現代社会の人間関係を荒々しくしている。

 人間性を育て、忍耐力を社会に授け、過去と未来をつなげる役割を担っている小さな弱者たちに、その持って生まれた大切な役割を果たさせないように国が動いていれば、人間たちの耳に幼児たちの声が「騒音」と聴こえるようになってもしかたない。
 しかし、ペアガラスを使って防音し、それを「開かずの窓」にし、日々の園庭使用制限をして幼児を閉じ込めても、根本的な問題解決にはならないと思うのです。こういう方向へ解決しようとすること自体が、なお一層そういう方向へ社会を進めることになります。幼児はそのうちその存在意義を忘れられ、「金庫」にしまわれてしまうんではないか、と心配になります。
 (アメリカで、母子家庭に任せておくと犯罪者が増えるから孤児院で子どもを育てよう、という法案が14年前に提出されたことを思い出します。「タレント・フェアクロス法案」。この法案に「24時間開所の保育所と考えればいいんだ」と発言し賛成していたのが当時の下院議長、今年の大統領選に共和党から立とうとしたギングリッジ氏です。ロムニーさんで決まった時は、正直言ってホッとしました。)

 人間たちの間をしょっちゅう幼児たちがすり抜けて、大人たちが、「頼りきって、信じきって、幸せそうな人たち」を日常的に眺めながら、「自分はいつでも幸せになれる」「自立を目指すなんて馬鹿げている」「信じあうことがいい」と実感して暮らしていれば、たぶん、幼児を隔離し閉じ込めなくてもいいのです。どこかで孫も迷惑をかけているかもしれない、ひょっとして自分も三歳の時には......、そんな想像力が人間社会には必要です。何万年も人類は幼児と居て大丈夫だったのです。

 この特殊な「騒音」が、騒音に聴こえなくなるような方向へ社会づくりをする。それが人間性を先進国社会に取り戻す道です。しかし実際は、幼児がイライラの原因になるような仕組みを作って、ますます子どもが騒音になるような施策を進めている。
 「待機児童をなくせ」という声が、0、1、2才の幼児たちにどういう風に聴こえているか、想像してみるといいのです。小学校の授業で、子どもたちに尋ねてみるといいのです。
 そういう想像力がいつか平和な世界をつくるのでしょう。
 

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このページは、kazuが2012年10月 7日 13:59に書いたブログ記事です。

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