松居和チャンネル 第70回、の(テーマは)『抱っこは、する側と、される側の「共同作業」』
です。
福祉を考える時、その手段や、「仕組み」には予期しない反作用がある。
だからこそ、人間たちの「心の動き」の中に、常に、「幼児たちの願い」が存在していなければいけない。
抱っこされるのが、下手な赤ん坊が増えているのです。抱っこは、する側と、される側の「共同作業」。抱きやすい子は、上手に、しがみつく。子猿が、四つ足で歩く母猿につかまる名残りが、人間にもある。
ちょっと、不思議な話ですが、抱っこされることに慣れている赤ん坊は、抱っこされにくい形をして、抵抗する。抱っこされてきたから、出来る、将来、必要な「技(わざ)」。
抱っこしても、ぐにゃーとする赤ん坊が増えている。抱っこされてなかったから、協力しない。本能的な「共存」を学んでいない。若い保育士は、気づかない。そんなものかと思ってしまう。でも、ベテランの保育士や園長たちは、気づくのです。これでは、保育士が疲れてしまう。
可愛がられることに、慣れていない。
それが、小学生の学級崩壊、不登校の増加に、つながっているのではないか。男の三割が「一生に一度も結婚しない」、ところまで影響している気がする。
ぐにゃーとする0歳児、1歳児が増えることが、将来、人間社会における「絆」の成り立ち、福祉や義務教育、社会という仕組みの存続に、どう影響するのか。私は、考えてしまうのです。

「ママがいい!」という言葉は、母親にとっての「勲章」です。
0歳、1歳の時の肌を合わせた体験が生み出す、「人類を、祝福する」言葉。
それを言わない子ども、抱っこの体験が足りていない子どもが増えている。
「保育園落ちた、日本死ね」という言葉が、もっと預かれ、という社会的論争に使われたことがある。まるで、正論のように。母子を引き離す仕組みが、充分でないことが、国会で、「良くないこと」のように見られていた。
これが、すでに怖いことなのです。
幼児は、「保育園落ちた、万歳」と、心の中で言っていたかもしれないのに、誰もそれを考えなかった。
政府の進める母子分離政策は、そこまで浸透していた。
保育園では、肌を合わせる機会が、1対3(三分の一)、1対6(六分の一)、1対20(二十分の一)。その仕組みが、「子育て支援」という名で呼ばれる。異常な論理が罷り通っている。
幼児期の不自然な体験が、そのまま小学校へ入学し、そこで、五歳までのその子の「成長」を知らない「担任」に委ねられる。双方向への体験に欠ける「子育て」が、「教育」にすり替わっていく。
そして、児童虐待過去最多、不登校も過去最多、一生に一度も結婚しない男が、三割、という数字になって現れる。

こんな、メールが来たのです。
「保育士さんの相談に乗りますが、その相談の中でも子どもを抱かないで。と言われる事への辛さを言われる方がいます。
一人の保育士が抱くと他の保育士も抱っこしないといけなくなるから、と言う理由だそうです。驚きました。
愛着形成のこの時期に、そんな事を言うなんて。
それが何件もあるので、子どもの育ちに胸を痛めます」
一人のベテラン保育士が、「子どもの育ちに胸を痛め」ている。そのことに、親たちが、気づいていない。保育学者が言う「専門性」の実態が、そこにある。
一緒に育てている人たちの、「思い」が重ならない「仕組み」が、子どもたちの「日常」になってしまった。母子分離を進める政治家たちも、経済を優先し、「欲の市場原理」に振り回されている「学者」や「評論家」たちも、それを知らないのだろうか。
保育学者たちは、もちろん、知っている。
実習に行った学生たちの報告には、必ず、これに似たことが、書かれている。彼女たちの持つ「動機」は、子どもたちの幸せを優先しているから。
彼女たちが現場で目の当たりにする「母子分離」に対する率直な「違和感」を、「教授」たちが無視し、「学問」から、「感性」や「人間性」が消えていった。
(学生が答案に、「子どもはなるべく親が育てるべきだ」と書いたのを、不合格とし、「もっと勉強するように」と書いた有名大学の教授がいた。いい学生の心を、学問が踏み躙るから、全国で「保育科」が定員割れし、潰れていく。)
この時期、1週間抱っこされなかったり、話しかけられなかったら、それはもう虐待です。
それを数値目標を上げ奨励する「子育て安心プラン」や、発達にいいから「安心して三歳未満児を預けろ」と言う東北大学の研究発表などは、政治や学問による、虐待です。
