朝日新聞、12月15日の朝刊「折々のことば」に著書「なぜわたしたちは0歳児を授かるのか」(国書刊行会)に書いた言葉が紹介されました。
そうだ。これが原点だった、いい言葉を指摘してくれた、と思いました。哲学者:鷲田清一さんに、感謝です。
「逝きし世の面影」(渡辺京二著:平凡社)を読んで書いた言葉です。150年前に日本に来た欧米人がこの国の個性に驚くのです。時空を越えて、私たちに「本当の日本のこと」を伝えようとするのです。
『私は日本が子供の天国であることをくりかえさざるを得ない。世界中で日本ほど子供が親切に取り扱われ、そして子供のために深い注意が払われる国はない。ニコニコしているところから判断すると、子供達は朝から晩まで幸福であるらしい(モース1838〜1925)』
玩具を売っているお店が世界一多い国、大人たちも子どもと一緒に遊ぶ国。
日本の子どもは父親の肩車を降りない。子どもの五人に四人は赤ん坊を背負い、江戸ほど赤ん坊の泣き声がしない街はない。
赤ん坊を泣かせないことで、人間と人間社会が育っていた。赤ん坊が泣いていたら、そこにいる人が「自分の責任だ」とごく自然に思う。それが、人間が調和し、安心して暮らしていく原点かもしれません。そうすれば、大人でも子どもでも、老人でも青年でも、人間が泣いていたら、そこにいる人が「自分の責任だ」と思うようになる。
最近は親が、泣いている自分の赤ん坊を見て、勝手に泣いていると思ったり、迷惑だと感じてしまったりする。抱き上げれば泣きやむことを知っているのであれば、泣いているのは自分の責任。よく考えてみれば、「産んだ責任」まですぐにたどりつく。その責任を感じたとき、人間は本来、自分の価値に気づくのだと思います。
そうやって何万年も生きてきた。親が泣いている自分の子どもに責任を感じなくなった瞬間に、人間社会が長い間保ちつづけていた「絆」が切れてしまうのです。
赤ん坊が泣いていれば、その声を聞いた人の「責任」です。