三歳児神話について。/NHKニュースから・報道の仕方について

 三つ子の魂百まで、ということわざがあります。キリスト教の聖母子像もその一つの象徴ですが、ネイティブアメリカンの民話、インドのラーマヤーナなど、様々な文化や宗教の中で三歳までの親子の関係に人間は特別な価値や意味を見いだしてきた。そして、生きる術として次世代に伝承してきた。その時期の親子の「双方向に向き合い、育て、育てられる関係」は人間性の基盤を育て、その場で育まれる「情」は人間社会のセイフティーネットだったと思う。

 大自然の法則とも言うべき選択肢のない関係と制約が気に入らないのか、「三歳児神話は神話に過ぎない」と言った学者がいました。だから保育園でもっと預かっていい、大丈夫、という論旨で使われたのですが、最近、「三歳児神話は正しいと言う論説はあるのですか?否定的な論説はたくさんあるのですが」とある町の保育行政の方から質問を受けたのです。

 一応、学者のフロイト、分析医のエリクソンとかユネスコの子ども白書、国連と結んだこどもの権利条約、脳科学者の発言などをいくつか例として挙げてはみましたが、この問題は論争自体がおかしいのです。

 神社に向かって「この神社は、神社に過ぎない」と言っているようなもの。それは、そこにあるもので、こういう物が人間の(実存はしない)過去と未来をつないでいるのです。その存在理由を学問が問うなら、なぜほとんどすべての家に人形たちが居て、人間と一緒に住んで居るのか、そこで人形たちは何をしているのか、太古の昔まで振り返って考えてみるといいのです。いまさら「人形は、人形に過ぎない」と言う人はいないのです。世界中にこれだけたくさんの人形たちが、それぞれ長い歴史を持ち、様々な文化の中でほとんどの家に住んでいるということは、過去と意識を共有する道具として、自らの意識を重ね未来に伝える伝達手段として、やはり人間には必要な者たちなのです。人形も0才児も人間が自らいい人間になろうとして作り,生み出してきたもの。俯瞰的に見ればそれ自体が生命体と呼んでいい存在となりうる……。

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 雛祭りは雛祭り、土俵入りは土俵入り、トーテムはトーテム、音楽は音楽にすぎない。しかし、学問が神話と対峙する時、神話とか神社の正しさより、その存在理由を文化人類学的に振り返り、現代社会における役割りのさらなる正当性を調和という次元で問うべきだと思う。

 聖書のノアの箱船の話を嘘だと言っても、ほとんど論争にはならない。(戦争にはなるかもしれない。)

 法華経の序章を、あり得ないこととその真偽を追求する人も居ないでしょう。聖書も法華経も人類の歴史や進化の一部としていまだに未来のために存在する。歴然と存在する。

 最近困るのは、神話は神話に過ぎないと馬鹿なことを言う連中の発言を真に受け、政治家が国の成り立ちであるはずの「子育て」の本質を経済優先で変質させようとしていること。利用しようとしていること。なぜ、そう言う人たちが出たか、その流れと意図を把握した方がいい。これは日本という一つの文明の終わりの始まりなのかも知れないのです。

 神話は本来政治に利用されるべきものではない。それが、三歳児神話においては、否定することで政治的に利用されている。

 神話はいつでも生活の中に生きている。

 音楽におけるメロディーや、砂場で遊ぶ幼児たちの想像力は神話と同次元で、(実存しない)過去と未来を存在させ、それを楽しむ。人間は実存しないそれらのものを共有し体験していればいい。子育ては親が自分の人間性(遺伝子)に感動すること。そのためにも、過去と未来は常に意識されていたほうがいいのです。

 

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 保育園が四つしかない町で三歳児神話の正当性を私に尋ねた保育課の人は、一日保育士体験を始めようとする感性を持った人だった。政府の保育施策を進めながら、何かおかしいと感じるから自分のやっていることに正当性を見出したかったのだと思います。私も、三歳までの親子関係の大切さは言いますが、三歳未満児保育をなくせとは主張していない。保育という制度が、どういう「心持ち」と共になら生き残れるのか、荒れてゆく社会にどう対応出来るか、という話をその町の保育士たちにしたのでした。

 神話とともに生きるのか…?

 別の言い方をすれば、三歳未満児を平均十時間、年に260日、後ろめたさを感じながら預けるのか、そうでないのか。それがいま過去の人間たちの体験が育んだ神話(意識)によって問われているのだと思います。断言できるのは、三歳児神話を多くの親たちが身近に感じていないと、いい保育士がいなくなるということ。そして、本当に預けなければならない人、辛そうに預ける親の子どもたちの保育環境がどんどん悪くなっていくこと。その流れはすぐに学校教育に影響し、すべての子どもたちの環境になってゆくということ。

 こうした一連の流れや連鎖は、いままでは神話の領域で語られ、戒められてきたことですが、自然科学の分野で証明され始める一つの法則/原則でもある。だから、今の時代が大事なのだと思う。日本という、先進国でありながら欧米の文化とは一線を画す不思議な国が役に立つ時だと思う。

 

 ことわざや言い伝え、一般常識も含め、数々の神話的なものを軽んじるようになると、待機児童が2万1千人しかいないのに、一国の首相が経済対策で乳児を保育事業でもう40万人預かれと言い始めるのです。そして、マスコミがそれをほとんど疑問を抱かずに報道する。主張出来ない子どもたちの願いがいつからか聴こえていない。刹那的な競争社会に翻弄され、喋らない乳児の存在理由が見えなくなっている。

 歴史の浅い「学問」や「経済的成功者」の意見に頼り過ぎているからそうなるのだと思います。4才児、という一番幸せそうな人たちの生き方から社会の核になる「幸福論」を学ばなければいけない。その人たちを眺めることによって、人間の心はどう成長し一つになってきたのか、意識を司る思考回路のどの部分がどうセットされるのか。それは間もなく科学によって明らかにされるでしょう。

 学問や経済的成功者の歴史は浅いが、幼児の集団を眺める歴史は古い。

 学問は、しばしば神話を否定することによって成長して来ました。しかし、それではうまくいかなくなってきた。

 何千年にも渡って、母親が知らない人に乳児を手渡すことはなかった。それが保育施策における発想の原点にあってほしい。

 以前、ある経済学者が「0才児は寝たきりなんだから」と私の目の前で言った。小泉政権の経済財政諮問会議の座長をやっていた有名な学者だった。その時、私の隣に座っていた共励保育園の長田先生が拳を握りしめ、もう片方に座っていたなでしこ保育園の門倉先生が肩を震わせた。園で、たくさんの幼児たち、太古からの伝令者たちと毎日過ごしている人たちが、「こんな連中がやっているんだ」と怒りに震えた。

 

 四月から始まる子ども・子育て支援新制度は、8時間保育を短時間11時間保育を標準時間と名付けました。11時間を長時間と名付けるなら、まだわかる。子どもにとって、親から11時間離れることは「標準」ではない。それが標準だったら人類は進化出来なかったはず。それを決めた政府の意向の根拠は心を忘れた保育施策、神話を忘れた経済論でしかない。伝達手段が発達した現代において言葉は注意して使わなければいけない。特に「政府」という、仕組み全体に影響力を持つ「力」が「標準」という言葉を使う時に、遺伝子とか歴史、文化や伝統に照らし合わせなければ、社会からモラルや秩序が消えてゆく。

 11時間が標準、これによって今まで、「子どもを迎えに来てから買い物に行きなさい」と親を叱っていた園長たちの立場が崩れてゆくのです。こうした年長者、園長たちの忠告や進言をパワハラとまで言う親が現れる。http://news.livedoor.com/article/detail/9242868/ 保育士たちの子どもを思う心が萎えてゆく。子どもの最善の利益を優先する、という保育所保育指針が空洞化してくる。

 子どもたちは神話なくしては生きられない。子どもたち自身が神話の源で、子育てから「祈り」が始まるのだから。

 最近「愛国心」という言葉が聴こえてくると思う。国とは、幼児という宝を一緒に見つめ守ることで生まれる「調和」だったはず。国の概念が曖昧なまま、愛国心という言葉を愛する人たちが、言葉でまとまってもやがて限界が来る。心は、共通の体験を伴う調和だと、神話が言っている気がする。

 

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NHKニュースから)

 厚生労働省によりますと、ことし4月時点の待機児童は全国で2万1371人で、去年の同じ時期より1370人減り4年連続で減少したものの、都市部を中心に依然として深刻な状態が続いています。

 待機児童を解消するため、政府は平成29年度末までに新たに40万人分の保育の受け皿を確保する計画で、自治体も保育所の整備を急いでいます。しかし保育所の増設に伴う保育士の確保が課題で、厚生労働省によりますと、計画どおりに保育所の整備が進めば、4年後には7万4000人の保育士が不足する見通しだということです。

 このため厚生労働省は、ことし中に「保育士確保プラン」を策定し、保育士の処遇の改善や、60万人を超えると推計されている資格を持っていながら仕事をしていないいわゆる「潜在保育士」の再就職を後押ししていくことにしています。厚生労働省は「共働きの世帯が増えるなか、保育を必要とする人も増えている。できるだけ速やかに受け皿を整備できるよう人材の確保に努めたい」としています。(以上)

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 「四年連続で減って来ている、現在2万1371人の待機児童を解消するために40万人の保育の受け皿を確保する」これはよく考えれば変なのです。それは政府の目論見であって、人々の願いではない。望んでいる社会の姿でもない。それをマスコミはきちんと指摘してほしい。こういう言葉や数字がテレビのニュースで流れてくるのを繰り返し聴いているうちに、「待機児童は解消しなければいけないもの。それはまだ40万人居る」という印象が人々の記憶に刷り込まれていくのです。こうした仕掛けのある刷り込みを誘導する「経済優先の支配者になろうとする想念」は確かに人間性の一部ではあるけれど、それは、常に「絶対的弱者を育てるという利他の土台」が対極にあって抑制されていた人間性なのです。子育ての社会化が進むとこの対極の抑制が効かなくなり、人々は一層競争に駆り立てられる。待機児童を解消することは実は三歳未満児を母親と引き離すことでもある、という記憶が薄れてゆく。

 「受け皿」という言葉も、立ち止まって考えるとかなり危ない。真実に近く伝えるなら、「保育の受け皿」と言わずに「子育ての受け皿」というべき。そう言えば、気づく人はいる。家庭や親の代わりになる「受け皿」は、そう簡単に存在し得ないのではないか、と。

 保育の新制度、実は、待機児童解消が目的ではなく、子育ての本質を曖昧にすることによって女性の労働力を増やすのが目的です。だから保育園を増やしても待機児童は解消されない。40万人を目指しているのだから労働力と待機児童はまだまだ掘り起こされることになる。マスコミは数字を見て深刻な状態と言うのですが、本当に深刻なのは「子どもたちの過ごす時間の質」が下がっていること、「親の心が社会に育つことの大切さ」を政府が考えていないこと。そして、こうした報道の繰り返しで「子どもは仕組みが育ててくれるべきもの」という考え方が少しずつ日本人の心に刷り込まれてゆくこと。それが取り返しのつかない痛手となってこの国に残ってゆく。そういう思いを持った親たちがある一定の数を超えれば仕組み自体が成り立たなくなる。

 「計画通りに保育所の整備が進めば七万4000人の保育士が不足する見通し」。これは現在進行形のとんでもない状況なのです。政府はその意味がよくわかっていない。1万人不足であろうと、5000人不足であろうと、不足した時点で採用時の倍率が消え園長は人材を選べなくなる。悪いことを子どもにする保育士を素早く解雇できなくなる。その状態こそが子どもにとっても親にとっても、保育や学校教育の将来にとっても「深刻」なのです。

 潜在保育士60万人と、これもまた単純に数値で言いますが、相当数が一度も保育を体験したことのない言ってみればペーパードライバーか、実は過去にふるいにかけられた保育士、自らこの仕事に向かないと気づいた保育士たち。このひとたちを掘り起こして採用すれば、園の空気が淀んで来る。保育は、ただ人数を揃えればいいという話ではない。仮に運よくいい保育士を掘り起こすことが出来ても、たぶん今の保育の状況を体験すれば,昔を知る保育士ほどあきれ顔で再び辞めてしまうでしょう。

 十年遅い話ですが待遇改善はもちろん必要です。でもよほど意識を変え、リニア新幹線をやめるとか防衛費を削るとかしないかぎり、現状で四千億円不足しているという試算があり、このままでは焼け石に水です。すでに派遣保育の時給が去年の倍以上に高騰している状況で根本的な改善が出来るのか。どう考えても無理な施策です。

 養成校に来る学生の質、国家資格取得のあり方、小規模保育における規制緩和を加えて考えたら、ちょっとどうしていいかわからない。「一日保育士体験の薦め」でこつこつと、やっていくしかありません。頑張りますけれど。

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 人生は自分を体験すること、しかも、たった一度だけ。それなら、過去の人間たちの意識を重ね合わせることによって、より深く体験できる。

 多くの人間が選択肢無しに、しかも疑いを抱かずにやってきたことはなるべくやってみた方がいい。幼児と数年しっかり付き合うこと。それを楽しむこと。それは、人類にとって重要なことだと思う。

 

 

 


 

 

 

 
 

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