『赤ん坊が泣いていれば、その声を聞いた人の「責任」です』
松居和
鷲田さんのことば
媚(こ)びる、おもねるといった技巧を赤ん坊は知らない。いつも「信じきり、頼りきり」。それが大人に自分の中の無垢(むく)を思い出させる。昔は、赤ん坊が泣けば誰の子であれ、あやし、抱き上げた。未知の大人であっても、泣く声を聞けば自分にもその責任があると感じた。そこに安心な暮らしの原点があったと音楽家・映画制作者はいう。『なぜわたしたちは0歳児を授かるのか』から。(鷲田清一):朝日新聞、12月15日の朝刊「折々のことば」
(これを読んだ奈良の真美ケ丘保育所元所長の竹村寿美子先生からメールが届きました。私の30年来の第一師匠です。)
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そう❗その通り❗です。
以前、心の清らかな人が保育園へ来て、子どものなき声を聞いて「あっ誰か泣いている!どこ?どこ?」と慌ててうろうろされたことがあった。
なき声に慣れていた私たちは反省しきりでした。
ありがとうございます❗
追伸:
その人は少し障害を持っていらっしゃるお方でした。保育士たちと心を洗われた気になりましたよ。
和さんまた会いたいです。?
(ここから私です。)
仕組みによる子育てが広がると社会全体が「子どもの泣き声」に鈍感になる。園長先生はそれを言いたかったのです。人類に必要な感性が薄れ、遠のいていく。「心の清らかな人」の存在が一番輝く時に、その存在に気付かなくなってくる。
保育は仕事であってはならない。そんな風に自分を戒め、境界線の上を綱渡りのように歩いていく保育士たちがいます。慣れてはいけない、慣れてはいけない、と呟きながら。園長は知っています。自分だって慣れてしまっていた。それは、その子の「親」ではないからです。
師匠は、いまだに目指している、「本当の保育士」を……。「秩序」はこの園長たちの心の揺れの中にあったのです……。
別の園長が、「一年目の保育士にかなう保育士はいない」と言っていたのを思い出しました。理屈でも正論でもなく、真実が、時には相反するような言葉で、語られていた時代があった。それを伝えていくのは、聞いた者の役割です。親は、常に一年目だった。だからこそ不安で、だからこそ真剣。だからこそ信頼が育っていった。そこで「専門家に任せておけばいいんだ」という心理が動いたら、保育は絶対にそれを受けきれないのです。
子育ては、人類にとって大きな一律の伝承の流れです。その流れは「親の質」を問うてはいない。そうだとすれば、何が伝承されてきたのか。大学や養成校という仕組みの中で,何が伝えられるのか。伝えるべき中心は何なのか。「子どもの最善の利益を優先する」、多分それでしょう。
保育という仕組みを今すぐにでも、「雇用労働施策」の枠組みから解放しなければ保育は生き返ってきません。
保育がその本来の意味を取り戻し、「親の責任」を保ちつつ「園単位の責任」「園単位の喜び」にまで広げることができれば、私たちは強者の企てから簡単に離れることができる。全員が幼稚園、保育園を通過していくのです。そこで親たちに子育ての喜びを実感させることが可能なこの国なら、人生の輝きを幼児たちの中に見て、みんなで目的地を思い出すことができる。
それは人類の進化に関わるいい「展開」で、それを指揮するのは幼児たちなのです。
(参考ブログ)
http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=249