新成長戦略(子ども・子育て新システム)と子どもの安心

(2010年)

  民主党が年明けの国会に諮り進めようとしている新成長戦略の中に、「子どもの笑顔あふれる国、日本」という保育園、幼稚園の仕組みを根本から変えようとする施策があります。(子ども・子育て新システム)

 これが全国で「子どもの笑顔」を真剣に願っている幼稚園・保育園の先生たちの怒りを買っています。まだ、この仕組み自体の理解度が十分に高まっていないのですが、その分析が進むにつれ、全国各地で燃え上がる火は増えてゆくと思います。そうあって欲しいと思います。子どもたちの笑顔を守るために絶対にこの施策だけは止めなければいけない、と思います。老人介護から、笑顔がなくなっていったように、保育園から笑顔をなくすわけにはいかない。保育士の笑顔が保育の質です。そして、本来子どもの笑顔は、それを見た親たちが親らしくなってゆく、子どもが安心して育つ「絆」を社会に生み出すものだったのです。

 

 先々週福岡市で開かれた保育士相手の説明会に、この施策の民主党プロジェクトチームの責任者の代議士が来たのですが、90分の説明が終わってその政務官が帰ろうとしたら、会場からの猛反発に包まれた。埼玉から出席していた知り合いの園長先生が報告してくれました。

 保育というどちらかと言えば穏やかな仕事をしている人たちがこれほど憤る施策だということを説明に行った若い代議士が気づいていない。これがそもそもの問題です。それほど保育や子育ての意味と現状を理解していない政治家が多いのです。何回かの視察と、付け焼き刃の経済論で検討を進める。財務省から強制的に押し付けられた厚労省の予算削減施策にのせられているのか、そのあたりがよくわからない。政務官がいくつかの矛盾を指摘され、厚生労働省の真意がどこにあるかわからない、と自ら首を傾げる。現場の理解を得ないまま、こんな重要な施策が、なぜこれほど性急に進められているのか。

 原点に返れば、子どもの日々の生活を第一に考えずに進めているのが今回の新成長戦略です。20年間保育士たちと保育と言う仕組みについて、話し合い、なんとかここで親心を育もうと、親子を引き離そうとする施策と闘ってきた私は、こう書いているだけで気持ちが昂ってきてしまいます。なぜ、こんな時期に保育界を大混乱に陥らせる改革を進めようとするのか。私も去年の12月から始まる一連の閣議決定を初めて読んだ時、気持ち悪くなりました。これをやったら日本はガタガタになる、保育園だけでなく学校という仕組みがもたない。子育ての責任は誰にあるのか。親なのか、国なのか、保育園なのか。保育がただの労働、もしくはサービスになってしまう。保育は子育てなのです。

 0歳から5歳までの子どもの生活、成長がその子の人生だけではなく、後の人間社会にどう影響するか、その間に親がどうのように親らしくなり、子育てを中心に親身な絆が社会にどう育つか、という人類の魂のインフラに関わる流れを理解していない。子育てを、単純に雇用・労働施策としかみていない。

 

 「言葉をまだ知らない0才児は、実は親と、特に母親と、一緒に居たいと思っているかもしれない」という想像力が、これを進めようとしている政治家たちにない。

 

 この想像力が、人間性の大切な一部です。自ら主張出来ない赤ん坊の期待や気持ちを、想像するしかない、だから、人間は人間らしく育った。絶対的弱者の心情を察する感性の働きが、人間社会にモラル・秩序を生み出してきました。幼児という特別なひとたちは人間社会の中心にいて、人を育て、絆を育ててきたのです。

 人間としての想像力に欠けた施策が、めぐり巡って犯罪国家を生み出すことは、欧米の犯罪率と日本のそれを比べればわかるはずです。幼児と接する機会を持たず、パワーゲームに魅了された政治家は経済論で動く。日本の犯罪率はアメリカの40分の1、フィンランドの30分の1、イギリスの20分の1。この奇跡的な状況は、日本特有の「親が子どもを自分で育てようとする思い」が支えてきたのです。だからこそ、まだ学校が成り立ってきた。

 譲って、子育てを幸福論ではなく経済論でとらえたとしても、本来、経済発展は親が子を思う気持ち、子が親を思う気持ちが一番強い力になることは、戦後の日本経済の発展、いまの中国やインドの急成長を見ても明らかです。本来の人間性に沿った経済論を日本は思考しなければならない。欧米の後を追ってはならない。新しい道を模索する土壌を、私たちは幸運にもまだ与えられています。

 

 新成長戦略では、5年以内にあと25万人乳幼児、0、1、2才児を預かる、そうすれば将来にわたって3,3兆円の増収になる、というのですが、保育園で預かるのだとしたら保育士の数が絶対に足りない。財源も明示されていない。国の認可保育園に対する基準(これは最低基準だと私は思っています)を崩すしかない。簡単に言えば、保育士の3人にふたりが保育士の資格を持っていなければいけない、という国基準が、3人にひとりでもいい(これは東京都の認証保育所がそうですが)、園庭も無くていい、資格を持たない個人がやるママさん保育でもいい、保育の質を落としていくしかない。

 すでに全国の公立保育園の保育士の6割が非正規雇用(パート)になっている現状を考えれば、もう十年も前から、就学前の子どもたちの生活は政策上どんどん軽んじられています。地方の財政が悪くなって来た時に、まず切られるのが保育に関する予算です。直接契約制を軸とするこの仕組みでは、良心的な園ほど、やっていけなくなる。

 幼児は、幼児であるということによって、親を育て、祖父母を育て、人間社会に絆を育てることです。その役割りが果たせなくなってきている。そのことがどれだけ将来社会の負担なってくるか。

 

 税収を増やすために何が何でも0、1、2才児を預かる。これは自民党時代の経済財政諮問会議が言い始めたことですから、民主党だから駄目というわけではないのです。「子どもを全員保育園で預かって、母親が全員働けば、それによる税収の方が、保育園にかかる費用より大きい」という計算が経済企画庁の諮問会議から発表されてから10年が経ちます。直接契約制にしても幼保一体化にしても、自民党が言い出した路線を、民主党が一気に乱暴に進めているだけのことです。それだけ焦っているのでしょう。しかし、衆議院選挙前のマニュフェストは、短時間に票を得るために適当に作られたことはみんな知っています。選挙に勝ったからそれを国民が望んでいる、などと本気で言うのは政治家くらいでしょう。国民は何となく投票しただけ。

 保育に関して素人の経済学者が、机上の計算で政治家に助言をしているから、こういうことになるのでしょうか。しかし、「乳幼児は親と一緒にいたいだろう」と思う感性を失っている政治家たちには、もっと責任があると思います。

 まだまだたくさん問題点はあるのですが、繰り返しますが、保育の質は保育士たちの思い、心持ち、です。政務官が言う「保育の質は監査でたもてます」という言葉はあまりにも現実離れしている。監査とか、第三者評価は、時として、子どもの幸せを願い、親を育てようとしている園長先生を悪い園長先生にしてしまいます。親たちに匿名の満足度調査をするからです。園長先生たちの親心を理解する親が減って来ている。

 こんな無茶な施策を厚労省が自ら作るわけがないと思うのですが、その辺りがわからない。担当の役人たちは保育の問題をもう少し深く理解しているはずです。親たちの心の動き、園長先生たちの心の動き、保育士たちの心の動き。そして何よりも子どもたちの安心感が真っ先に考えられていないといけない。どうなっているんですか、と知り合いの民主党の代議士に聴いてみたら、内閣府がやっているんです、と言います。保育士たちに説明に来た厚労省の役人が、問いつめられて、私たちだってこんなことしたくありません、閣議決定されてしまっていますから、その政治家を選んだのは国民でしょう、と言います。民主党は消費税を当てにしていたんです、それが参院選で崩れて、もうどうにもならないのに止まろうとしないんです、と本音で言います。仕組みのことはよく知りませんが、政治主導と叫ぶ政治家たちが、役人を怒鳴り散らしているうちに、心の中で役人から背を向けられているのではないか、と私は思います。なにしろトップである政務官が知らないことが多過ぎる。乳幼児という自分で発言出来ない人たちの生き方を考える時に、大人たちの心が一つになっていない。パワーゲームに取り憑かれてしまっているようです。

 民主党プロジェクトチームの責任者政務官が、福岡での説明会で、保育士たちに責められ、「一度、私たちにやらせてみて下さい」と言ったらしいのですが、「子ども手当」や「高校無償化」ならやり直しが効きますが、この「子どもの笑顔あふれる国・日本」は、崩壊のマグニチュードが違います。これをやったら元に戻れない。学校教育がもたない。だからこそ、保育士たちが怒っているのです。ただでさえ満杯の児童養護施設がもたない。すべての学級に副担任を置かなければ学校の秩序が保てなくなる。児童相談所や、毎日子どもたちと向き合う保育士たちの気持ちが萎えてしまう。障害を持っている子どもや、トラブルになりそうな親は保育園から敬遠され、行き場を失うかもしれない。市場原理と規制緩和は強者のための方策です。障害をもっていたり、要領の悪い親たちが親子で損をする。介護保険で起こったことが保育の世界で起ころうとしています。コムスンのような会社が参入して来るかもしれない。その会社が潰れたり撤退したりした場合、老人介護と違って、子どもたちは学校へも行くし日本の担い手になっていくのです。児童福祉法24条で守られていた最低元の子どもたちの福祉の責任が、国から外れ、市町村に移る。その市町村の財政状況は多様で、よほど市長が意識の高い人でないと、財政のしわ寄せが直接子どもたちに来るようになります。

 すでに、九州の方では、ストライキという声が上がっています。政治家やマスコミは、こうした動きを、既得権益を守るため、ととらえるかもしれません。自分たちがそういう物差して考え、生きていると、他のひとたちもそうなのだ、と思いますから。しかし、保育士たちの多くが、本気で子どもたちの幸せを願っていることを私は知っています。親が親らしさを失っていくのを目の当たりにし、子どもたちを守るとしたら、もう自分たちしかいないのではないか、とさえ思っています。私は、そういう気持ちで保育士たちが立ち上がることが、子どもや親たちのために、そして保育士たちの意識を高めるために必要なことだと思います。

 そして、これはお願いですが、保育園だけでなく、幼稚園の方もこの幼保一体化という、幼稚園も雇用・労働施策に取り込もうという動きに反対しなければなりません。担当政務官が、「もう予算はないのだから、株式会社やNPOでやって行くしかないでしょう」と本音を言ってしまったんですから。

 この施策に、本当に予算がつぎ込まれるのなら(たとえばGDP1.2%くらい。現在の約倍)、考える余地は残されていますが、それでもやはり「子どもの気持ち」が明らかに軽視されている動きは、人間社会にとっていい結果にはならないと思います。

 「国民の生活が第一」なんてとんでもないことです。これは、「投票出来る国民」が相手の言葉です。こういうキャッチフレーズが読めない幼児を最優先に考えることが、人間社会に絆と安心を生むのです。

 



 

 

鹿児島大学の伊藤周平教授が「子育て新システム」について書いた文章。とてもわかりやすい、理路整然とした新システムに対する反対表明の文章です。

「子ども・子育て支援法と保育のゆくえ」

 「言葉をまだ知らない0才児は、実は親と、特に母親と、一緒に居たいと思っているかもしれない」
 シスター・チャンドラがここにいたら、当たり前でしょ?、と首を傾げると思います。
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