ゾウがサイを殺すとき/園が道祖神を生む/チンパンジーとバナナ/犬にはちゃんと法律が出来たのに


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 以前このブログに書いた4つの話です。

 生体人類学的に考えたとき:

 11時間保育を標準と名付けた政府の無感覚、無責任が問われないことの異常さ、そして0、1、2歳児を親から引き離そうとする経済論とそれを問題にしない社会学者たちの存在が問われるべきです。「社会」の定義が崩れている。オンになるべき遺伝子がオンなってこない、何かがとても奇妙で不自然なことが始まっている。

 

ゾウがサイを殺すとき

 サイを殺し始めたゾウのドキュメンタリーを以前、NHKのテレビで見ました。アフリカの野性のゾウの群れが、突然サイを殺し始めた、というのです。ただ、殺す。

 ゾウがサイを殺しても警察や裁判で止めることはできない。ゾウに質問することもできません。カウンセリングをしたり、道徳を教えることもできない。人間は、懸命にその理由を考え、想像するしかない。

 環境の異変がゾウの遺伝子情報と摩擦を起こしているのではないか……。そしてある日、サイを殺し始めたゾウが人間によって移住させられた若いゾウばかりであることに気づきます。

 ゾウのサイ殺しは、巨大なゾウを移送する手段がなかった時代には、起こりえない現象だったのです。麻酔をかけて眠らせることはできても、巨大なトラックがなければゾウは運べない。それが可能になり、その手段を手に入れ、人間の都合で、その方がいいとなんとなく思って若いゾウを選んで移送し、別の場所に群れをつくらせたのです。すると、ゾウがサイ殺しを始めた。

 考えたすえ、試しに、年老いた一頭のゾウをトラックで移送し、その群れに入れてやったのです。すると若いゾウのサイ殺しがピタリと止まったというのです。

 年老いたゾウは、きっと道祖神ゾウに違いない。

(私は、道祖神園長が座っているだけで、親たちを鎮める話を以前書いた事があります。)

 ゾウの遺伝子がどれだけ人間と重なっているのかは知りませんが、哺乳類で目も二つ鼻も一つ、共通点はたくさんあります。脊髄があって脳もあって、コミュニケーション手段を持っているわけですから、こういう本能と伝承にかかわる動物の行動は参考になる気がします。言葉が通じないときに、人間は深く考える。幼児を眺める行為と似ています。

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園が道祖神を生む話

  数年前、熊本で二代目、三代目の若手保育園長、理事長先生の研究会で講演したときのことです。初代が女性でも、なぜか継ぐのは男性が多く、男性中心の会でした。懇親会で少しお酒が入って、若い園長先生がマイクを握って言いました。

 「松居先生。親御さんは、僕の母、先代園長の言うことはよく聞いたのに、なんで僕の言うことは聞いてくれないんでしょう」

 保育の核心にせまる質問です。私は嬉しくなって考えました。

 そして、「先代は、お元気ですか?」と尋ねました。元気です、という返事に、「まさか、先代を引退させてしまったんではないでしょうね」

 保育園もあちこちで「代替わり」を迎えています。ビジネスの世界の真似をし、後進に道をゆずる、時代に即した経営などと、保育のことなど何も知らない(保育指針を読んだこともない)ビジネスコンサルタントが助言します。少子化のおり、そういう人たちを大会に呼んで分科会などを持たせる(男性)幹部たちが保育団体にもいるのです。日本各地で、創設者である園長理事長が引退する現象が起こっています。

 しかし、忘れてはならないのが、保育園という特殊な「子育て」の仕組みが「代替わり」を迎えるのは、人類の歴史始まって以来のことだということ。保育園や幼稚園は「子育て」という太古からつづく伝承の流れに関わっていながら、ごく最近作られた新しい仕組みで、和菓子やパソコンを売るのとはわけが違う。その仕組みを善循環を中心に創り上げるには細心の注意が必要なのです。経営を譲るのはいい。でも、園という不思議な空間を単純に二代目に任せていいわけがない。

 「四〇年以上勤めた保育士に『引退』はありません」と私は若手園長に言いました。

 「保育士を二〇年、一人の人間が幼児の集団に二〇年も囲まれれば、『地べたの番人』という称号を得ます。四〇年勤めれば、『道祖神』という格づけになっているのです」

 そのときたまたま「道祖神」という言葉が浮かんだのですが、眺めるだけで古(いにしえ)の真実を感じるものならば、なんでもいいのです。

 「まさか、道祖神を引退させたんじゃないでしょうね」

 笑いながら話すと、若手園長はすぐにピンときたようで、理解し、苦笑いし、すみません、という顔になりました。

 「道祖神はいるだけでいいんです」と私はつづけました。

 「園の中を歩いているだけでいい。車いすに乗って子どもたちを眺めているのもいい。ひなたぼっこをしているのもいい。門のところで毎朝親子を迎えるだけで、園の『気』が整ってくる。園の形が、すーっと治まってくるんです。母親の心が落ち着きます。その瞬間、あなたは道祖神の息子です」

 子どもたちが育ってゆく風景の中で、私は園長という名の道祖神たちを見てきました。直接教わったこともたくさんあります。道祖神のいる風景から、私は考え、保育における視点を学んだように思います。園は、子どもが育ち、親が育ち、道祖神が現れ、親心が磨かれてきた場所。

 そういう場所には利他の絆が育ちます。言葉では説明のつかないコミュニケーションの枠組みが、大自然に近い秩序を生む。日本人はそういうことに敏感だった。大木を切ることにさえ躊躇してきた民でした。

 

 もう一人の若手園長が、酔った勢いで口を開きました。「うちの道祖神は、もう亡くなってしまったんです」

 私は、ちょっと考えてから、「老人福祉をしている所に行って、一つ拾ってくればいいんです」

 ちょっとお借りしてくる、という言い方が正しかったと思います。

 人間は毎日幼児に囲まれなくても、一〇人に一人くらいは、ある年齢に達したとき、道祖神の領域に入ります。平和で幸福そうな顔ができあがっている。もうすぐ宇宙へ還る人たち。欲から離れた人たちだからこその落ち着きです。

 そのあと、私は宴席で密かに思い出していました。数日前、NHKの特集番組で見た「インカ帝国のミイラ信仰」を……

 文化人類学的にです、あくまでも。

 ご先祖のミイラが村に一つあって、それに向かって村人の心が鎮まっている風景です。心が一つになっている。村が治まる。それに比べれば、園の道祖神たちはまだ歩いている。

 人間が遺伝子の中に持った太古の流れを、時々意識しないと本来の目的を見失います。それどころか、幸せに生きるための秩序を失います。私の想像力は、また一歩飛躍します。厚労省がこんな告知をしたら、すばらしい決断と言えるでしょう。

 「保育園で道祖神を引退させると法律で罰せられます」

 厚労省が、いつかこういう視点を持つことができるだろうか?

 いまのところ、答えは否、でした。情報に頼りすぎる思考の進み方にも問題はあるのですが、一番の問題は現場の風景を知らない、知っていてもそこから「感じることができない」人たちが仕組みを作っていることです。

 次元が幾重にも交錯する人間の「気」の交流現場に気づくのが下手な人たちがシステムを考えていることに、現代社会の欠陥があります。官僚と呼ばれる人も、学者も、家へ帰れば子どもの運動会に一喜一憂し、保育参観日に行き、ふと我に返るはずなのです。実は細胞は死んではいない。生きる機会と場所を失っているだけです。

 アンデスの山を思いながら、「道祖神は、ちょっと惚けてきたら、なおいいのかもしれない」と思いました。惚ける人間の存在にも必ず意味がある。生まれて一年目に、ほんの少し笑うだけで周りを幸せにして親心と絆を育てた人間は、歳月を経て、いつか歩いているだけで周りの気を鎮める、神のような存在になりたいのだと思います。

 

 道祖神を見る人間の目や心の動きを教育の現場に復活させる方法はあります。教育委員会の人たちが「保育士体験」に参加して幼児の集団をたった一日じっと見つめるだけで、地球に変化はある、と思います。いまの常識にとらわれることなく、幼児を意識した視点で様ざまな絆が生まれる環境を、子どもたちが育つ仕組みに取り入れていかないと、親の潜在的不安は治まらないでしょう。もっと預けたくなるでしょう。

 意識的に太古の視点を復活させなければ、学校という歴史の浅い巨大なシステムが、はるかに古い魂を持つ「家庭」や「部族」という絆を崩壊させるのが、私には見えます。

 家庭が崩壊しては困ります。家庭が幼児を守り、幼児こそが、道祖神を生み出しているのですから。

 

 私は、質問をしてくれた園長先生のお寺で、引退した先代にお会いしました。みごとなお顔でした。

 「四〇年以上園児に囲まれた保育士に引退はないのですよ」とお話しすると、先代はとても喜んでおられました。

 「園に行きたい、とこのごろ思っていたんですよ」とおっしゃった道祖神と二代目のお嫁さんの姿を、私は携帯電話のカメラで撮影しました。それは、私の道祖神コレクションの一枚になりました。

 

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「これでいいんだ」

 

 人間50歳も越えると、二十代三十代では見えなかったものが見えてくる。

 60歳も越えて、そろそろ宇宙に帰ろうか、という時期に、「早くいい人間にならなければ」と思います。人生は自分自身を体験する事でしかない。自分がいい人間だ、と思えれば嬉しい。思えなければ、仕事に成功しても、お金を貯めても虚しい。

 いい人間に成りたいと強く願っている人間の前に、人間をいい人にするひとたちが現れる。それが幼児。孫です。祖父母と孫の関係は、特別いいのです。いい人に成りたいと思っている人からいい人になるのが順番。(実は、いい人間になりたい、と思った瞬間、その人はいい人なのです。)

 幼児という、ついこの前まで宇宙の一部だった弱者と、老人というもうすぐ宇宙へ還ってゆく弱者が、欲を持たずに、楽しそうに役割を果たしているのを見て、人々は安心する。私もたしかにこうだった。そして、私もこうなる。

 幼児と老人が出会うと、「これでいいんだ」という笑顔の交歓が行われます。その交歓を風景として見つめるのが、これからの人間社会に一番必要なのだと思います。

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チンパンジーとバナナ

 

 私の好きな人類学者にジェーン・グドールという人がいます。龍村監督のガイアシンフォニーにも出演しています。アフリカのタンザニアでチンパンジーの研究をしていた人で、初めてレクチャーを聞いたのが四十年前、カリフォルニア大学(UCLA)での特別講演でした。

 ジェーンは、チンパンジーがシロアリを釣り上げる道具を使うことを観察発表し、道具を使う動物は人間だけと言われていた定説をくつがえしました。野生のチンパンジーの群れと過ごし、その日常を観察した研究は、人工的な研究所での観察が主体だった学会に、その後大きな影響を及ぼしました。

 彼女が第二のセンセーションを学会にもたらしたのがチンパンジーのカニバリズム(共食い)でした。仲間同士の殺しあいや、群れの中で起こる子殺しを含む非常に残酷な仕打ちが、映像とともに発表されました。それは人間たちに恐怖心を起こさせるほど、人間的な情景でした。チンパンジーの遺伝子は動物の中で一番人間に近いのです。

 あとになって、より多くのフィールドワークが行われ、このしばしば残酷で時には共食いさえするチンパンジーが、ジェーンの研究していた群れに限られるのではないか、ということが言われるようになりました。皆無ではありませんが、ほかの群れでは仲間内のこうした残虐な行為がほとんど行われないというのです。

 ジェーンの群れとほかの群れの違いは、ジェーンの群れが餌づけをされていたことでした。野生の群れに接近するため、ジェーンは当初から群れにバナナを与えたのです。それも、なるべく一匹一匹に「平等に」行き渡る工夫をしました。いまでこそ、野生動物は本来の生態を損なわずに観察することが常識になっていますが、当時、まだ草創期のフィールドワークでは、そこまでルールが確立されていませんでした。

 この報告を真摯に受け入れたジェーンがインタビューで、「いま私が持っている知識があれば、餌づけはしなかった」と、悲しそうに答えていたのが印象的です。

 このバナナに当たるものが、私たち人間にとって何なのか。

 チンパンジーの残虐さは、序列を取り戻そうという行為の一つではないのか。序列によって保たれていた秩序が、バナナが平等に与えられたことによって崩れ、生きてゆくための遺伝子の何かがはたらいて、殺しあいやカニバリズムにまで群れを駆り立てたのではないのか。しかも、集団を駆り立てたのです。

 進化の過程で、ジェンダー、つなり雄雌の差を手に入れたとき、私たちは「死」を手にした。それまでは、細胞分裂で進化し、つぶされでもしないかぎり生は永遠につづいていたのです。「死」を受け入れた代償に、私たちは次世代に場所を譲る幸福感を得たのかもしれない。

 しかしいま、豊かさの中で、人間は死を受け入れることが下手になっている。パワーゲームの幸福感を追い、執着し、死から意図的に逃げようとしている。「一度しかない人生」という言葉がその象徴です。

 ネアンデルタール人などを研究する古人類学では、男は狩りに出て、女が子どもを見るという労働の役割分担ができたとき、人類は「家族」という定義を発見したといいます。性的役割分担が希薄になったときに、人間は家族という意識を少しずつ失うのでしょう。いい悪いの議論は置くとして、これが現在先進国社会で起こっている流れです。男性的なパワーゲームの幸福論が、母性的な幸福論に勝り始めている。それが、結果的に女性と子どもに厳しい現実を生み、男性には寂しい孤独な現実を生んでいる。(男が結婚しない、これが少子化の一番の原因です。)

 何十万年も積み上げてきた遺伝子が、豊かさに耐えられなくなって、眠っていた遺伝子を起こし始める。同性愛者が増えるのは、人間の進化の中で一つの防御作用でしょうか。しかし、ジェンダー以前、つまり単細胞に戻るには滅亡しかない。

 男らしさ女らしさがあってこそ、「親らしさ」が存在する。親になることは、男らしさ女らしさの結果です。そして、子どもを産み、男らしさ女らしさが適度に中和され、自然界の落としどころ「親らしさ」に移行するために必要なのが「子育て」なのだと思います。

 パワーゲームに組み込まれた「子育ての社会化」が、親らしさという視点で心を一つにするという古代の幸福感を揺るがしている。

 ジェーンの群れのチンパンジーが残虐になった理由の一つは、自分の子孫を残したいという雄の本能でしょう。雌の発情を促すために、その雌の子を殺す。ライオンなどによく知られている行動です。

 死への恐怖からくる「命を大切に」という言葉と、死への理解からくる「命を大切に」という言葉は異なります。死への恐怖は競争社会を生みます。死への理解は人間を謙虚にします。

 人間の営む現代社会においてバナナにあたるものは何か。九八%遺伝子が同じとはいえ、人間とチンパンジーではちがいます。単純ではないと思いますが、思いつくままに、バナナ、餌付けかもしれない言葉を並べれば、

 自由、平等、学問……、

 学校、教育、保育……、

 福祉、人権……

 資本主義、 共産主義、 民主主義、 宗教……。

 移動手段、 携帯電話、インターネット、 スマフォ……。

 もちらん、これらを否定しているのではないのです。バナナを手に入れたあと、殺しあいにならない方法を考えればいいのです。例えば、意識的に、意図的に幼児と接する機会を作り、信頼の本質を学ぶとか、一緒に彼らを眺めることによって、絆の心地よさを感じるとか。

 (まずバナナが存在することを意識し、気をつけることです。)

 

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犬にはちゃんと法律が出来たのに

 

 新聞にこんな記事が載っていました。

 「生後56日までの子犬子猫、販売引き渡し禁止へ」

 ペット店での幼い子犬や子猫の販売を規制する動物愛護法の改正を巡り、民主党は22日、生後56日(8週)まで販売目的の引き渡しを禁止する方針を固めた。自民党や公明党などとともに改正案を提出し、今国会での成立を目指す。ただし、ペット店に対する移行措置として、施行後3年間は規制を生後45日までに緩和する。その後も子犬や子猫を親から引き離すことについての悪影響が科学的に明確になるまでは、規制を生後49日までとする。

 環境省によると、ペット店では年々、幼い犬や猫を販売する傾向が強まっており、動物愛護団体は「親から離す時期が早すぎると、かみ癖やほえ癖がつく」として規制強化を求めていた。

 

 56日目の子犬はもうちょこちょこ歩いていますし、乳離れもしていますから、人間の2才半くらいかもしれません。

 人間の幼児にもしっかりこういう法律を作ってほしい。同じ哺乳類ですから。

 霊長類の親子の愛着関係はとてもデリケートで繊細なものだ、とチンパンジーの幼児虐待の研究で知られるジェーン・グドールも言っています。ちょっとしたバランスが崩れることによって、霊長類の暴力的行為は始まる。ジェーンの場合は「餌付け」でした。野生のチンパンジーに餌付けをしたことで小猿殺しや共食いが始まったらしいのです。

 簡単に比較するわけにはいかないのですが、親から早く引き離すことによって、子犬に、「かみ癖や、ほえ癖」がつくなら、75%の遺伝子を共有する人間にも似たような可能性があるかもしれない。

 最近、保育園で一歳児の噛みつきが不自然に増えています。ほえ癖とは言いませんが、ひょっとして人間でいうところの「いじめ癖」がつくのも、早くから親子を長時間離し過ぎるのがその一因かもしれない。

 一歳で噛みつく子の増加に、「一人の保育士が一日10時間一週間一対一で接すると噛みつかなくなる、4才5才になってからでは遅い」と言う園長先生もおられます。親子の愛着関係の不足は学校教育を成り立たせなくする気がしてなりません。最近、学校の先生や保護者会の役員のひとたちに講演したのですが、いじめの質がここ五年くらい変わってきている。普通ではない気がすると、何人もの方が言います。私も実際にいじめる子たちの顔つきを見て、異様さを感じることがあります。以前より暴力的になったというよりも、子どもたちの表情に、冷たさ、魂の粗さを感じるのです。

 なぜ、子犬に関する法律が現場の意見を反映し与野党一致で法律として通り、人間の乳幼児の愛着関係を守る法律はなかなか提出されないのか。その気配さえない。

 たぶん、違いは「親」です。

 人間の親は、生きてゆくために必要な本能を、豊かさの中で失おうとしている。そして選挙権があるかないかでしょうか。

 民主主義は、親が親らしい、人間が人間らしいという前提のもとにつくられている。同時に選挙権が成人(親)にしかない、という重大な欠陥を持っています。しゃべれない乳幼児が何を望んでいるか、イメージする想像力が欠けてくると、この制度は人類の存在を揺るがす負の連鎖を生み、社会における絆の崩壊を招く。

 

 人間は、時々、動物や大自然を観察し、自分たちの進化する方向性を大自然の一部として考え、起こっている不自然な出来事を見極めないと、自分で自分の首を絞めるようなことになってゆく気がします。

  この新聞の記事から、インドの野良犬たちのことを思いだしました。(私の思考は、時々イメージの中で不可思議な飛び方をします。)

 インドでは、都会でも田舎でも、飼い犬はほとんど見かけません。犬を売り買いするひとたちは、まず、いません。犬たちは人間社会と自然界の中間あたりをうろうろし、昼間は暑さと闘わずにぐったりと寝そべっているか、ときどき身の回りに以前からある人間たちの社会と必要に応じて交流するかして暮らしています。

 夜になると野生の血が騒ぐのか、元気に走り回り縄張り争いをしたり、満月の晩は遠吠えをしたりする。馬鹿馬鹿しいように思うかもしれませんが、ふと思うのです。この犬たちが今度日本の国会で審議され通るであろう法律のことを知ったらなんと吠えるだろうか。ありがとう、と言うのか。

 親犬の気持ちはどうなるんだ、と言われたら人類は応えようがない。

 そのあたりまで想像力を働かせないと見えてこないのでは、と「動物会議」という児童文学で主張したのは詩人で思想家のケストナーでした。

 国会で定数削減、消費税、そんな問題で大騒ぎするより、子犬の将来を心配してつくった法律を、人間の子どもにも適用するような法律をつくることの方がはるかに重要です。それを、この国の政治家やマスコミはいつになった理解するのでしょうか。

 

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