保育崩壊の原点:以前、NHKの視点論点で政府の委員を務める専門家が言ったこと。

2018年3月12日

 

九州の若手保育園経営者の集まりで講演する機会があり、6年前、今の「子ども・子育て支援新制度」が民主党政権下「子ども・子育て新システム」と呼ばれていた時に保育雑誌に書いた文章を配りました。三党合意で進められた「子ども・子育て支援新制度」の原点がそこにあります。

今起こっている異様とも思える保育士不足は、待遇の問題と言われることが多いのですが、もっと根深いところ、保育・子育てに対する視点そのものが外側からも内側からも変質してきていることに気づいてほしい。

保育崩壊といってもいいような混乱状況を招いた出発点がこのNHKで放送された「視点論点」に現れていると思います。施策を進める政治家たちは、「待機児童をなくせ」という観点から、保育園を増やせという目標を掲げて、それを主体に子育て施策を考えている。だから、野党も今度の「子ども・子育て支援新制度」に関してはほとんど何も質問しないし、追求もしなかった。(11時間保育を「標準」と名付けるような仕組みに、誰も反論しなかった。犬には法律ができたのに。https://kazu-matsui.jp/diary2/?p=174)

保育施策を雇用労働施策と見る点において与党も野党も政治家たちの視点にいまも変わりはないのです。だからこそ規制緩和と幼稚園の保育園化が進み、保育士不足が一気に加速してしまった。進む方向と動機が悪いから、保育士不足も質の低下もこのままでは改善しない。保育現場で心が一つにならない。そこに本当の危機があるのです。

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(6年前の文章です。)

視点論点

NHKの視点論点という番組で、民主党の進める「子ども・子育て新システム」について専門家が順番に語りました。大日向雅美氏(大学教授)、山村雄一氏(大学教授)、普光院亜希さん(保育を考える親の会)。実際に保育に関わっている人が番組で意見を述べられなかったことは非常に残念でしたが、山村氏は新システムが「子どもの思いを受け止めていない」、普光院さんは「こども園が、幼稚園と保育園のそれぞれの機能を弱くするのではないか」という論点で、新システムに反対しました。

大日向さんの放送は、公共的放送で新システムを進める政府の委員によって国民に語られた、という意味で責任が大きいので、私なりの反論をしておきたいと思います。

大日向さんは、「新システムは、すべての子供の育ちを社会の皆で支えるという、子育て支援の理念の画期的な変化です」と述べました。

保育園や学校で起っている摩擦や軋轢を見れば、自分の子どもの育ちさえ支えようとしない、保育園や学校に子育てを依存しようとする親が増え始めている時に、「すべての子供の育ちを社会の皆で支える」なんてことができるとは思えません。夢のまた夢、人類史上かつてあり得なかった社会です。部族という社会単位で考えれば可能かもしれませんが、子育ては、明らかに夫婦(親)を中心とした「家庭」「家族」主体で行われてきたのです。

大日向さんは、「保育の友」九月号(当時)でも、「これまで親が第一義的責任を担い、それが果たせないときに社会(保育所)が代わりにと考えられてきましたが、その順番を変えたのです」と発言しています。

これは大変な発言です。人類の進化にかかわる発言といってもいい。現在の幼稚園教育要領と教育基本法を否定する発言でもあります。

「幼稚園教育要領、第十条: 父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有するものであって…」私は、本来こういう人間性の根源にかかわることは法律などで言うべきでないと考えています。ですからこういう論法は避けたいのですが、幼保一体化ワーキングチームの座長による発言ですから、幼保一体化の意味と意図を明確にするために書きます。

ここで使われる「社会」の意味があやふやで、怖い。このインタビューでは(保育所)というキャプションがついていますが、通常誰もはっきり定義しません。視点論点では、「社会皆で支える」と言っています。(女性の社会進出、という言葉の意味さえ、あえて誰も定義しようとしない。経済競争という意味でしょうけれど、経済競争は社会のほんの一部でしかありません。)

NHKのクローズアップ現代でも大日向さんから同様の発言が以前ありましたが、「社会」が何を意味するか明確な説明はありませんでした。こういう曖昧な感じで「社会」という言葉を使うひとたちは、いつでもその意味をもっと幅広い、「家庭を含む」「隣近所のおじちゃんおばちゃん」まで広げて逃げる準備をしています。ところが、子育てを「社会化」「システム化」すると、地域の絆どころか、夫婦揃ってやる子育て、社会の最小単位である「夫婦」の絆が崩れてゆくのです。夫婦が子育てによってお互いの人間性を確認し、信頼関係を作ってゆく、そして、損得を離れた絆を社会に育み続けるために子育ては存在してきたのです。

思い出すのは、以前頻繁に使われていた「介護の社会化」という言葉です。それを進めて孤立する老人が急増し、無縁社会といわれる状況に一気に進んでしまった。(北欧で20年前に起ってしまった現象とほぼ同じです。)親身な関係を生むための助け合いと育ちあいを「社会化」することによって、人間性が社会から失われていく。結果から判断すると、学者や政治家がこの問題について発言するとき、「社会」はどうやらシステムのことらしい。

システムの変革が、人間の意識や本能が支えていた社会の構造を加速度的に変えて行く、人類史上かつてない過渡期に私たちは直面しています。子ども・子育て新システムが、介護保険制度と似ていることを忘れてはいけません。これほど無縁社会を進めた介護保険を、厚労省や財務省は財政削減につながったとして、「成功」と見ているふしもあるのです。

大日向さんは、「働き方の見直しと、子育てと仕事の調和を目指す。何よりも、子供の健やかな成長を議論の大前提としている」と付け加えます。

「子どもの健やかな成長のために」というなら、子育てと仕事の調和を目指す前に、子育てを中心にした家族の調和を目指すべきです。こういう言葉をつけるだけで、状況に気づいていない人を言葉の上だけで説得しようとするのですが、何万年と続いてきた子育ての第一義的責任を親から「社会」へ替えるのであれば、それは人類の進化の根本にあった心の動きと親子の育て合いを放棄することになる。ヒトの遺伝子組み換えでもしないとこんなことはできない。

親と一緒にいたい、と思い、本能的に親をいい人間にする役割を担ってきた子どもたちの存在理由を想像すれば、幼稚園の保育園化を目指すよりも保育園しかない市町村に幼稚園を増やしてもいいはず。保育園を文科省管轄にしようという発想があってもいい。未満児を持つ父親の残業を制限するとか、この時期だけでも母親が子育てに集中できるように守るとか、子どもの願いを中心に「子育てと仕事の調和を目指す」べきなのです。

新システムを考える時、忘れてはならないのは、これが始めから「雇用・労働施策」と定義されていることです。5年以内に新たに25万人の未満児を保育所であずかる、という数値目標が始めにある。しかし、これをやるには、保育士の数が決定的に足りません。今ほとんどの地域で、保育士に欠員が出たら埋めるのが大変なのです。それでも進めようとしている。実は「子どものためではない」と知っているから、「子どものため、子どもの健やかな成長のため」と言葉ではそう言ってごまかそうとする。子どもたちに対して、これほど白々しい嘘はありません。まだ満足にしゃべることさえ出来ない未満児に対する嘘は、自分の良心、人間性に嘘をつくことです。手ひどいしっぺ返しが社会に返ってきます。だからこそ、未満児たちを毎日見つめている保育士たち、そして、母親たちが子どもたちのために立ち上がらなければならないと思います。本気でいま、「子どものため、子どもの健やかな成長のため」と声を上げなければならないのです。

大日向さん:「なぜ新システムが必要か。子育て、働き方に関するこれまでの考え方や制度が、時代の変化と共に人々の生活スタイルや価値観に合わなくなっているから」。

人間性が失われてもかまわない、というなら別ですが、あきらかに現代社会はシステムが子育てを引き受けることによって、つまり親が親らしくなくなってくることで起こる多くの問題を抱えています。

児童養護施設は親による虐待が主な原因で満員になっています。いじめや不登校、モンスターペアレンツといった問題を抱え、学校の先生が精神的に限界に近づいています。埼玉県で6割、東京都で休職している先生の7割が精神的病です。引きこもりの平均年齢が30歳を越え、信頼関係を失った人間たちに生きる力がなくなってきています。日本とは一桁違う欧米の犯罪率を見れば、親が親らしくなくなること、特に父親が未満児との体験を持たないことは、人間社会からモラル•秩序が欠落していくことだとわかります。百歩譲って、価値観に合わなくなっているからシステムを変えるべきならば、その度に変えなければなりません。すでに20代の女性で専業主婦を望む人は増え始めている。経済競争だけが人生ではない。経済競争だけが社会でもない。日本人は気づき始めていると思います。欲を捨てることに幸せへの道がある、と説いた仏教の土壌がまだ色濃く残っている国なのです。

大多数の人間が子育てに幸せを感じることができなかったら、人類はとっくに滅んでいる。ごく最近まで、人類はその幸福感の第一を「子育て」に見ていたのです。損得を忘れることができるからです。発展途上国の貧しい農村へ行くと、村人たちの表情に心を洗われる、と海外へ経済援助に行って来た人たちがしばしば言います。人間は「子育て」を取り巻く信頼関係に幸せを感じ続けてきたのです。

大日向さん:「少子化が急速に進み、生産年齢が減少して社会保障の維持の上からも危機感が持たれています」

日本の少子化の大きな原因は結婚しない男が現在2割、十年後3割に増えようとしていることです。貧しい国々で経済状況が日本より悪いもかかわらす、人口増加が問題になっていることを考えると、これは性的役割分担の希薄さが原因で、経済問題ではない、という考え方もできます。男たちに「責任を感じる幸福感」がなくなってきている。ネアンデルタール人などを研究する古人類学では、性的役割分担がはっきりしてきたときに人類は「家族」という定義を持つようになった、と言います。性的役割分担が薄れた時に、人類は家族という単位で生きようとしなくなる、ということかもしれません。それでいい、という考え方もあっていい。しかし、それは人類が数万年拠り所にしてきた、頼りあう、信じあうという「生きる力」を土台から失うことでもあります。男女間の絆と信頼関係を失ってゆくことになるのです。

大日向さん:「若い世代は子供を産みたいと願っているが、産めない理由がある。」

経済的理由で、と言いたいのだと思います。社会が育ててくれれば産むのだ、ということでしょう。しかし、日本の少子化現象は、自らの手で育てられないのだったら産まない、という親子関係を文化の基礎にする日本の美学、ととらえることもできます。この考え方の方が、自然だと思います。日本人は、欧米とは違った考え方をする人たちなのです。

自分で育てられなくても産む、という感覚の方が、人間社会に本能的な責任感の欠如を生むような気がしてなりません。ひょっとすると、人間性の否定かもしれません。

大日向さん:「高学歴化、社会参加の意欲の高まり、更には近年の経済不況の影響もあって、働くことを希望する女性は増えている。」

心から希望しているのか、仕方なく希望しているのかによって対策は違わなければなりません。仕方なく希望しているのであれば、子育てを心の中では希望している女性のニーズに応えていくべきです。頼ろうとする、信じようとする、そのことこそが社会参加の基礎であることをもう一度学び直さなければなりません。

子育てが家庭のかすがいであって、子育てが育む信頼関係が人間社会を支えてきたのだ、という意識を強くもてば、子育てを親のもとに返してゆくことは財政的に充分可能です。未満児を育てている家庭に一律7万円支給したとしても、いま未満児に使っている予算に二千億円プラスくらいでしょう。欧米社会で起ってしまったモラル崩壊の流れを考えると、それによって抑えられる犯罪率や児童養護施設や乳児院、裁判所や刑務所にかかる費用を想像すれば安いものです。子育ての社会化を防ぎ、親たち、祖父母たちの手に出来るかぎり子どもたちを返すことは、財政だけではなく、この国の魂のインフラにかかわる緊急かつ最重要問題だと思います。

大日向さん:「依然として職場環境は厳しく、仕事か家庭かの選択を迫られている」

子供が乳幼児の場合、家庭(子ども)から離れる仕事と家庭(子育て)は本来両立出来ません。だから選択を迫られているのであって、選択を迫られるのは生き方の選択を迫られること。どちらがいいとは言いませんが、女性だけが選択を迫られるのは不平等というなら、そういう論議にするべきで、「すべての子供たちのために」と言うべきでない。

大日向さん:「更に、安心して子供を預けられる環境の整備が遅れている。」

その通り。認可外保育所がどんどん増え、規則が曖昧なため百人規模の「家庭保育室」がすでにあります。親へのサービスを主体に考える市場原理に基づいた保育をしようとする園長設置者が参入して来ています。犠牲者が出ています。新システムは、さらにこれを進めようとしています。

保育は市場原理では機能しません。なぜなら、保育士たちが「良心」を持った人たちだからです。日々、子どもたちに「心」を磨かれている人たちだからです。だから実は私は、新システムなんか怖くない。しかし、それが進められ、やがて市場原理が成り立たなくなる過程で、子どもたちがどういう体験をするか、ということを考えると恐ろしくなるのです。

「子どもの健やかな成長」は、「その子の命を感謝する人を増やす」ことです。そういう人がまわりに数人いれば、子どもは見事に生き、その役割りを果たします。

大日向さん:「都市部では深刻な待機児問題が続いている」

その深刻さは、待機児童が増えていることではありません。そこにどのような理由があろうとも、子どもを保育園に預けようという親が増え続けていることが深刻なのです。

待機児童は減らそうとすればするほど増える、現場で親を知る保育士たちは10年前から予言していました。

保育は親たちの意識の中で、権利から利権になりつつあります。

横浜市では待機児童の倍の数の欠員があります。待機児童の問題は単純ではない。最近目立ってきた偽就労証明書、偽装離婚、偽うつ証明書などの問題を、新システムを進めようとしている人たちはどうとらえているのか。気づいていないのか、いずれ仕分けするつもりでいるのか。覚悟のほどを聴きたい。

大日向さん:「保育所を整備すれば問題は解決するかというと、必ずしもそうではない。むしろ、修学前の子供たちが、親が働いている、いないによって幼稚園と保育所に別れている現状が、子供の健やかな育ちを守り、同時に親が安心して働き続ける上で、大きな問題を生んでいる。」

この文章は論点が飛躍しすぎています。なぜ幼稚園と保育園にわかれることが「子供の健やかな育ちを守り、同時に親が安心して働き続ける」ことを妨げるのかがわからない。

幼稚園に行く子どもと保育園に行く子どもとは一般的に家庭の事情、親の意識が違う。わかれる方が健やかな育ちを守る、と考えるのが自然です。しかもそうしてきた日本が、欧米に比べ、経済だけではなく、モラル•秩序、犯罪率、幼児虐待やDVという幸福に直接かかわる問題でははるかに状況がいいのです。

5時間預かる子どもと10時間預かる子どもを一緒に保育するのは大変です。私は、すでに地方で始まっている幼保園でそれを見ています。

「大きな問題」が誰にとってのどのような問題なのか。保育所に「平気で預けたい」人にとって問題なのでしょうか。それでは子どもがかわいそうです。幼児をシステムに10時間も毎日預けるのであれば、それなりの不安やうしろめたさを感じなければ哺乳類の一員ではないと思います。

大日向さん:「幼稚園は学校教育法に位置づけられているが、4時間保育を中心としているために、事実上、専業主婦家庭の子供しか利用できません。その結果、幼稚園は入園希望者が減り、特に地方では減少の一途を辿っている。幼稚園の無い自治体は2割、人口1万人未満の自治体では5割に及んでいる。」

幼稚園のない自治体が2割、これは主にその自治体の歴史がそうさせてきたのであって、幼稚園が親の生き方の変化によって淘汰されたのではありません。幼稚園が選択肢としてあるところでは、例えば埼玉県では幼稚園を選ぶ親と保育園を選ぶ親の比率は7:3、恵庭市や小樽市では8:2、現在の経済状況を考えれば、自分で育てたいと願っている親の方が圧倒的に多い。自分で育てる、そういう本能が人間の遺伝子に組み込まれているのでしょう。本能から来る願いを優先することが、社会に人間性を保つのです。その願いは子どもたちの願いと一致する。親子がなるべく最初の数年を一緒に過ごすことができるように、この国は施策を進めるべきだと思います。多くの親子が何を望んでいるか、という視点が「新システム」には決定的に欠けています。

大日向さん:「保育所は、働く女性の数が増え、保育所の整備が追いついていません。女性の社会進出は経済成長を支える鍵でもあり、保育所の果たす役割は、今後も更に大きくなっていきます。保育所は、幼児教育をしていないという、誤解が一部にあります。子供を幼稚園に通わせるために、仕事を辞める女性もいます。」

「女性の社会進出は経済成長を支える鍵」と言う根拠がない。この論理が正しいのであれば、女性の社会進出が日本よりはるかに進んでいるヨーロッパ諸国の経済がなぜこれほど悪いのか。社会進出して稼いでも、加速度的に福祉に吸い取られ、家庭崩壊によるモラル•秩序の崩壊に国の予算が対処しきれなくなっているのが現状でしょう。EUの経済危機が「家族」という概念の崩壊に根ざしていることを、なぜ日本の学者は理解しないのか。しようとしないのか。

終戦直後の混乱期を除けば、ヨーロッパの国々が一度として経済的に日本を上回った時はない。親が子どものために、子どもが親のために頑張ったから高度経済成長があったわけですし、先進国の中では奇跡的に家族という定義がまだ色濃く残っている日本が、なぜアメリカや中国という大国に続いていまだに世界第三位の経済大国なのか。実は、家庭や家族がしっかりしている方が、経済成長につながるのです。絆が安心感の土台になり、家族のために頑張るのが人間だからです。人間は自分のためにはそんなに頑張れるものではないのです。本来、頼りあう、支えあう、信じあうのが好きなのです。

アメリカという資本主義社会を代表する国で、家庭観を発展途上国で身につけ、教育も発展途上国で受けた英語も満足に話せない移民一世が、二世や三世よりも経済的に成功する確率が高いのです。家族がいて、子育てが中心にあると、人間は、生きる力が湧いてくるのです。

民主主義も学校も幼稚園も保育園も、親が親らしい、人間が人間らしいという前提のもとに作られています。人間らしさを失ってくると、人間の作ったシステムは人間に牙を剥き始める。地球温暖化と似ています。

子どもを幼稚園に通わせたいという親たちは、教育を求めてというよりも、子供の成長を自分の目で長く見ていたい、という本能的な気持ちが出発点にあるのではないか。子育ては、この国では、未だに仕事よりもはるかに幸せの原点になっている、人生の華なのです。

大日向さん:「これはあきらかな誤解です。保育は、養護と教育が一体となったもの。保育所は幼児期の教育を十二分に行っている。」

幼稚園によっては意識的に教育的保育を避け、子どもたちの「遊び」を尊重する保育をやっています。幼稚園よりもっと教育的保育をやっている保育園もあります。どちらでもかまいません。しかし残念ながら、「保育所は幼児期の教育を十二分に行っている」と言われても認可外を含め、保育の内容のばらつきは今でさえ見過ごせるものではありません。ここ10年くらいの間に、規制緩和により保育資格のない保育者を増やし、認証保育所や家庭保育室、保育ママを行政が薦め、園庭のない一部屋保育や駅中保育、短時間のパートでつなぐような保育園が意図的に増やされている状況で、大日向さんのこの発言は事実ではありません。公立保育園の非正規雇用化が進み、自治体によっては九割が非正規雇用という市もあります。まず、保育とは何か、どういう役割りを社会で担っているのか、その意識を整えなければならない段階なのです。

新規参入を奨励する新システムを進めようとしている人たちは、全国的に起っている大学や専門学校の保育科の定員割れをどう考えているのか。願書さえ出せば入学でき、ほぼ全員国家資格がとれるような仕組みの中で、子育てを任せられる保育士を確保するのは急速に難しくなっています。実習に来る学生たちの態度の悪さに驚愕している園長たちに話を聴けば、とても「社会で子育て」などと言えないはずです。

新システムは、客観的に見て、保育園のさらなる託児所化と、幼稚園を雇用労働施策に取り込むことによって託児を兼任させることを目指しています。

自治体が、財政上の理由で規則をゆるめ、罰則規定も整備されていない状況で、財政難+新システムでは、「大人たちの都合で」ますます保育は認可外へ移行するかもしれません。

大日向さん:「保育の必要性については、市町村が客観的な基準に基づいて認定し、それに基づいて、保護者は施設を選択して契約する、いわゆる公的契約とするが、待機児の多い場合、障害や虐待、経済的事情がある子供の行き場がなくならないよう市町村が調整に勤めることも責務としています。」

ここが問題。「勤める」という言葉が使われる時は、できなかったら仕方ないという場合が多いのです。認可外保育の規則がたびたび「おおむね」と「望ましい」という言葉を使い、規則を守らせる立場の役人たちでさえ、設備の不備、人材不足の問題を取り締まりようのない状況になっているのです。

大日向さん:「第三に、保育の質と恒久財源の確保を目指します。新システムは単なる待機児対策ではありません。すべての子に良質な発達環境を整備することを目指している。施設の物理的な環境整備。保育士の人員配置、待遇改善、研修システムの充実など、保育に携わる人の就労環境の整備があってこそ、保育の質が守られる。財源確保は最重要項目です。」

保育の質が子ども主体に守られ、財源確保が行われればいいですが、新システムは、現時点では何も保証していない。財源の議論をしようとしても、保護者負担の割合さえ決まっていない状況では試算しようがありません。実は、新システムを導入は、消費税がらみの増税に理解を得るための看板に使われようとした可能性が高い。(財務省か厚労省が、増税のため、民主党や学者を操った可能性も少し感じます。)

大日向さん:「第四に政府の推進体制、財源を一元化する。これまで、幼稚園は文科省、保育園は厚労省、財源も制度ごとにばらばらでした。新システムでは、こども園給付を創設して、財政と所管を一元化して二重行政の解消をめざす。就学前の子が過ごす場が親の生活状況によって幼稚園と保育園に別れて60数年です。幼保一体化は、多くの関係者の悲願でした。」

23年にわたって保育の現場を見、多くの関係者と話をしてきましたが、「幼保一体化は多くの関係者の悲願」ではない。政府の幼保一体化ワーキングチームの座長が、公共放送で問題の本質に関わるまったく事実ではないことを言うことに、保育団体は、政府に正式に強く抗議するべきだと思います。

業界的考え方をする経営者の一部が地方の幼稚園の生き残り策として望んでいたかもしれない。しかし絶対に幼稚園全体の希望ではなかった。それは去年から全国の私立幼稚園で進んでいる幼保一体化反対署名運動の広がりを見ればすでにあきらかでしょう。

保育園で保育士が幼保一体化を望んでいた、という話も聴いたことがありません。預かる人数を増やし、しかも支出を抑えたい行政が望んでいたかもしれない。ジェンダーフリー的考え方をするひとたちが差別感を解消するために望んでいたかもしれない。幼稚園を厚労省管轄にし、雇用労働施策に取り込むことによって労働力を確保しようという財界が望んでいるのかもしれない。しかし、当事者である親や子供たちがそれを望んでいるという調査結果はないはずです。

大日向さん:「新システム中間の取り纏めはまだ完璧なものではありません。財源は一元化されますが、施設類型、保育所指針の一元化、3歳未満児の保育に、法制度上の教育をいかに保障するか。市町村との調整、事業主負担の在り方など、今後引き続き検討を進めていく予定。幼稚園と保育所の歴史、文化の違いを考慮して、改革を拙速に過ぎてはいけないという意見もあるが、今日の子供や親の生活実態を見れば、改革は待ったなしです。」

引き続き検討を進めていく予定の中に、システムの根幹にかかわる部分が多過ぎます。なぜそれでも進めようとするのか。「今日の子供や親の生活実態を見れば」というのがまた意味不明です。どういう地域のどういう親子をイメージしているのかがわからない。私が見た「今日の子供や親の生活実態」からすれば、子育ての幸福感を親たちに取り戻してもらい、家庭と保育現場の信頼関係を築いていくことの方が大切です。「改革は待ったなし」と言っているのは誰なのか、そろそろそれをはっきりさせないと、正しいように思える言葉のやりとりで、人間にとって一番大切な「子育て」が親の手から離れていくような気がしてなりません。

大日向さん:「子供の今を、日本社会の未来を守るために、新システムの理念を実現すべく、恒久財源を確保して時代に即した、新たな歴史を築いていくことが必要と考えます。」

子どもの今を、日本社会の未来を守るために、新システムの理念を否定し、保育の質を上げるために恒久財源を確保し、人間性に即した、子ども中心の保育を築いていくことが、必要なのです。この新システムを議論することによって、保育の大切さ、それがこの国の土台を支えているのだ、という意識が高まることを期待します。

子ども・子育て新システムの出典?

小宮山洋子著「私の政治の歩き方」(すべての子どもたちのために)という本があります。著者は、現厚生労働大臣です。

本の副題が新システムのサブタイトルになっていて、新システムはこの本から出発したのではないか、とも思えます。だから、民主党はこの人をいま厚生労働大臣にしたのでしょう。けれども、本の中身も新システムも、出発点から「子どもたちのため」になっているとは思えない。「子どもたちのために」と繰り返し、繰り返し書かれていますが、大人たちのために考えられている。

児童虐待が増えたから、それを守るために社会が育てなければいけない、というのですが、子育ての社会化によって人間性が失われると、人間は孤立化しよりいっそうモラル•秩序が希薄になり、それが犯罪率に反影するのです。家庭という概念が希薄になり、子育ての社会化が進んだ欧米で、犯罪率(たとえば傷害事件)を比べれば、アメリカは日本の25倍、フィンランドは18倍、フランスは6倍です。日本がなぜこれほどまだ良いのか。子育てによって培われる弱者に優しい「心」が残っているからです。0才児を預ける親は一割以下なのです。男女が協力し子どもを育てる姿勢が、欧米に比べ奇跡的に残っている。子どもを生み育てる、という大自然が我々に課した「男女共同参画社会」が、この国には根強く残っている。アメリカで3割、イギリスで4割、フランスで5割、スエーデンで6割の子どもが未婚の母から生まれています。欧米で「男女共同参画子育て社会」(つまり家庭)がこれほどまでに崩壊してしまった今、日本が、「子育て」という男女共同参画の根本にある人間性を維持していけば、いつか人類の大切な選択肢になるはずです。

  1. :子ども・子育て応援政策」にこう書かれています。

「就学前のすべての希望する子どもたちに質の良い居場所を。==幼保一体化など」

私は、言い続けるしかない。子どもたちは希望していない。

待機児童のほとんどが未満児(0.1.2歳)です。未満児は希望を発言できない。だからこそ、未満児たちが何を希望しているかを想像するのが人間性。未満児は、親と一緒にいたいと思っています。(老人だって、孫や子どもと一緒にいたいと思っています。)

自ら発言できない人たちの希望を想像することは宇宙のエネルギーの流れを知ろうとすること。注意深く、感性をもって行わなければなりません。なぜなら、それは自分の生き方を決定づけることになるからです。

「希望するすべての子どもに家庭以外の居場所を作ります」

人類の歴史を考えれば、子どもたちの希望は家庭に居場所があることです。それがまわりにない状況ならば、だいたい親の人間性と社会の絆の欠如の問題です。家庭以外の場所に意識的に子どもたちの居場所を作ることは、家庭という居場所が減る動きにつながります。もし、子どもたちが親と一緒に過ごすことを希望しなくなってきたとしたら、希望するように親が変わらなければならない。社会の仕組みが変わらなければいけない。

それが、人類が健やかに進化し、自分を「いい人間」として体験するための道です。

「最近では、働いていなくても、子どもと接する時間の長い専業主婦に、育児不安などで子どもを虐待してしまう人が多いのです。このことからも、保護者が働いていない家庭の子どもにも、質のよい居場所が必要なことは、おわかりいただけると思います。」

育児不安の原因になる子どもを家庭から取り除いても、子どもが園から帰ってくれば、そこにいるのは育児不安になりやすい親に変わりはありません。

「子育て」は、子どもが親を人間らしくするためにあるのです。親たちが忍耐力や優しさ、祈る気持ちや感謝する姿を、育児を通して身につけ、頼りあい、助け合うことに生き甲斐を感じ、絆をつくり、社会に信頼関係を生み出す。そのためにあるのです。

母親の不安は夫の育児参加が足りていないことや、孤立化から起っているのであって絆の欠如の問題です。子どもに新たな居場所を作っても問題の解決にはなりません。

孤立化や絆の欠如に福祉や教育で対処しても、やがて財政的に追いつかなくなります。親心や親身さに福祉や教育が代わることはできません。

いま、こういう時代だからこそ「保育」の大切さを保育界や教育界が認識し、うったえなければなりません。週末48時間親に子どもを返すのが心配だ、と保育士が言う時代です。せっかく五日間良い保育をしても、月曜日にまた噛みつくようになって戻ってくる、せっかくお尻がきれいになったと思ったら、週末でまた赤くただれて戻ってくる、家庭と保育園が本末転倒になってきています。

母親が、妊娠中に預ける場所を探し始めるという行為が、人間にとって実はどれほど不自然か、社会全体が気づかなくなっています。

 

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ある夕方のこと

子どもの発達を保育の醍醐味ととらえ、保育士たちの自主研修も月に一回やり、親を育てる行事をたくさん組んで保育をやっている保育園で…。

園長先生が職員室で二人の女の子が話しているのを聴きました。

「Kせんせい、やさしいんだよねー」

「そうだよねー。やさしいんだよねー」

園長先生は思わず嬉しくなって、「そう。よかったわー」

「でも、ゆうがたになるとこわいんだよねー」

「うん、なんでだろうねー」

園長先生は苦笑い。一生懸命保育をすれば、夕方には誰だって少しくたびれてきます。それを子どもはちゃんと見ています。他人の子どもを毎日毎日八時間、こんな人数で見るのは大変です。しかも、園長先生は保育士たちに、喜びをもって子どもの成長を一人一人観察し、その日の心理状態を把握して保育をしてください、と言っています。問題のある場合は、家庭の状況を探ってアドバイスをしたり、良い保育をしようとすれば、それは日々の生活であって完璧・完成はありえません。

保育士に望みすぎているのかもしれない…、と園長先生は思いました。それでも、いま園に来ている子どもたちのために、選択肢のなかった子どもたちのために、できるところまでやり続けるしかないのです。

そう思いだした時、職員室での子どもたちの会話が、保育士たちへの励ましのように聴こえたのでした。

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救われている

子どもたちに許され、愛され、救われて私たちは生きていきます。子どもたちは、見事に信じきって、頼りきって私たちを見つめます。その視線に、私は感謝します。

子どもたちによってすでに救われている、そう感じた時に、人間は安心する。

「人づくり革命」「新しい経済政策パッケージ」「子育て安心プラン」

ーーーーーーーーー(前回からの続き)ーーーーーーーー

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(再び、政府の「新しい経済政策パッケージ」より抜粋)

0歳~2歳児が9割を占める待機児童について、3歳~5歳児を含めその解消が当面の最優先課題である。待機児童を解消するため、「子育て安心プラン」 を前倒しし、2020 年度までに 32 万人分の保育の受け皿整備を着実に進め・・・』

(例えば、イギリス、フランス、韓国においては、所得制限を設けずに無償化が行われて いる)。 

 

ここで言う「子育て安心プラン」が、規制緩和と無理な施策によって保育の質を急速に落とし、子どもたちの安心、安全を脅かすプランだということはすでにわかっているはず。(保育士不足で休園する園がすでにでてきている。)

「待機児童解消」が「子育て安心」と決めたのは誰なのか。「誰が」安心しようとしているのか。子どもたちの「安心」はどうでもいいのか。

2014年8月、千葉市の認可外保育施設で保育士が内部告発で逮捕される事件がありました。

 千葉市にある認可外の保育施設で、31 歳の保育士が2 歳の女の子に対し、頭をたたいて食事を無理やり口の中に詰め込んだなどとして、強要の疑いで逮捕され、警察は同じような虐待を繰り返していた疑いもあるとみて調べています。

警察の調べによりますと、この保育士は先月、預かっている2歳の女の子に対し、頭をたたいたうえ、おかずをスプーンで無理やり口の中に詰め込み、「食べろっていってんだよ」と脅したなどとして、強要の疑いが持たれています。 (NHKONLINE 8月20日)

4年前にすでに危機的だったのは、この施設の施設長が虐待を認識していたにもかかわらず、「保育士が不足するなか、辞められたら困ると思い、強く注意できなかった」と警察に述べたこと。それが当時全国紙の記事になり、厚労省も政治家も当然知っていたはず。幼児たちを危険にさらし、一生のトラウマとなって残るかもしれない状況が、程度の差こそあれ全国の保育園で起っている。園長が保育士を叱れない、注意できない、悪い保育士を解雇できない。園長や責任者が園児を守れない状況下、以前厚労大臣が「子育ては専門家に任せておけばいいのよ」と言った専門家たちの心労がたまってゆく。

3歳未満児保育は小規模保育を除けば、ほぼ複数担任制で、一部屋で複数の保育士が6人以上の子どもたちを育てています。悪い保育士が子どもにする扱い、その風景に耐えられず、いい保育士が精神的に追い込まれてゆく、場合によっては辞めてゆく。これが保育園での日常になりつつある。

しかもいい保育士たちの離職は、普通の職業と異なり、ある日突然、子どもたちが、いままで抱っこしたり、話しかけたり、一緒に笑ったり、寝かしつけ、育ててくれていた人を失うことでもある。保育士と一緒に過ごした時間が「いい時間」であればあるほど、その悲しみや驚きは心の傷になって残る。その心の傷は誰にも正確には見えない。しかし、それはこの国の将来を傷つけ続けることにもなっている。

そうした致命的な負の連鎖が、政府の「新しい経済政策パッケージ」により始まっています。https://kazu-matsui.jp/diary2/?p=465

繰り返し報道されたこの事件を知りながら、政府は、「子育て安心プラン」を進めようとする。それを、学者たちも、経済界も、どの政党も一様に支持しているとしか思えない。マスコミも子どもたちの立場では、ほとんど報道しない。

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新しい経済政策パッケージを書いた学者たち(?)が大学で教えている。それが「高等教育」の実態だと思う。昔は誰でも知っていた、幼児という弱者の立場に立つことの意味、その気持ちを想像することの大切さがまったくわかっていない人たちが、「子育て安心プラン」(=経済政策)という名の施策をつくっている。「自立」とか「人材」という言葉を使い、ものごとを損得で考える人間をつくることが高等教育の役割のようになってきていて、それに誰も疑いを抱かないのです。

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「人づくり革命」を標榜するこの「新しい経済政策パッケージ」の中に、「子育て安心プラン」の当事者である幼児たちの願いを想像する視線が皆無であること。そこに「高等教育」の普及充実から起こる問題点が見えるのです。子育ての視点が「教育」に向かうことの致命的欠陥が見えるのです。「高等教育」の普及が進むにつれ、0、1歳児の「思い」や「願い」を想像する力が社会から消えてゆく。人間が本来持っているはずの感性が消えてゆく。これでは教育は本当の意味で「知の基盤」にはなり得ない。

義務教育が普及すると家庭崩壊が始まり、それが始まると義務教育が追い詰められ、社会全体が急速に変質してゆく、犯罪率が異常に増えるという欧米の通った道がそこに見えます。

(無償化が行われたイギリスで4割、フランスで6割の子どもが未婚の母から生まれ、犯罪率も日本よりはるかに高い。保育士による虐待を防ぐために監視カメラを保育所に設置する韓国における保育の質の低下については、すでに日本でも報道されています。政府の政策に、単純に諸外国においても、「例えば、イギリス、フランス、韓国においては、所得制限を設けずに無償化が行われて いる」と書いてしまう学者たちのいい加減さ。学問のご都合主義が見えます。

無償「だから、これらの国々はこのようにいい」という具体的な説明もなく、ただ日本はダメだ、遅れている、みたいな論法に外国の名前を入れて発言している人たちが、政府に選ばれ施策立案に関わっている。幼児教育の普及と「無償化」を混同し、それによって親たちの意識がどう変わってゆくかを考えていない。

この経済最優先のトリック、無責任さをなぜマスコミは指摘しないのか。見過ごすのか。現場を知らない「学者」を専門家と呼んではいけない。彼らに「子育て」や「人づくり」に関する政策立案をさせてはいけない。https://kazu-matsui.jp/diary2/?p=208

「米疾病対策センター(CDC)は27日までに、米国内における薬物の過剰摂取による死亡者数が昨年、計4万7055人の過去最高を記録したと報告した」社会で子育てという言葉で家庭崩壊の方向に向かった国で、絆を失った人たちが苦しんでいます。https://kazu-matsui.jp/diary2/?p=1014

アメリカの小学生の1割が学校のカウンセラーに勧められて薬物(向精神薬)を飲んでいると言われます。そんな方法で、辛うじて教師の精神的健康を保とうとするしか道が残されていない。カウンセラーという名の「専門家」が児童に勧める「薬物」が、将来の麻薬中毒、アルコール中毒につながっているという研究さえとっくに終わっているのです。それでも、なぜ「専門家や薬物」に頼らざるをえないか。親が、「子育て」を仕組みに依存することによって、親らしさと絆、相談相手を失ってきているからです。

アメリカで以前、子どもを殺された母親がインタビューに答えて「1人の子どもを育てるには一つの村が必要だけど、1人の子どもを殺すには、たった1人の犯罪者しかいらない」とテレビのニュースで言っていました。「It takes whole village.」久しぶりに聴くフレーズでした。https://kazu-matsui.jp/diary2/?p=1014

学問や教育ではなく、一つの村が子どもを育てるのです。

ーーーーーーーーー(続く)ーーーーーーーーー

政府や学者が、「保育現場が追い込まれる」ことの意味を知らない

ーーーーーーーーー(前回からの続き)ーーーーーーーー

#7 政府や学者が、「保育現場が追い込まれる」ことの意味を知らない

以前は(15年くらい前は?)、少々未熟な若手でも、子どもたちに対する視線さえ良ければ、園で数年かけて一人前の保育士(子どもと居ることに喜びを感じる、子どもの幸せを願う、そして保育の重要性を知っている保育士)に育てることができました。

ほぼ全ての人間が、子育てをする能力を秘めている、その古(いにしえ)の法則は、幼稚園や保育園における職員たちの親身な上下関係があれば、ある程度は成り立っていました。ある程度は・・・、ですが。

新人保育者が数年間、ふつうの園にいてそこの風景を眺めていてくれれば、そして、親身なベテランが相談相手として周りに居れば「まあまあ」ですが、全体的に見て保育界は大丈夫だった気がします。

そうした、ぎりぎりではあったけれど、保育者がそれぞれに育ち、育てられる環境が、政府の「子育て支援策」で大混乱している。保育園が受ける0、1、2歳児の急増と、園庭などなくても、駅ナカやマンションの一室に保育園を作れば便利だというような安易な「待機児童対策」と規制緩和によって、急速に保育界の骨組みが崩れ始めているのです。「子どもたちの成長に関わる保育」から、「親の利便性に応える保育」に移行している。その結果、保育園で子どもが育つことの意味合いが違ってきている。現在の保育事情は15年前のそれとはまったく違うのです。親たちの意識も違うし、保育士たちの疲労度が違う。何よりも、両者の間の信頼関係が急速に薄れてきている。表には出てこない「ヒヤリ、ハッと事件」が確実に増えています。これが10年先どうなっているのか。

何も言わずに置き手紙で辞めていってしまう一年目の保育士が一人いるだけで、現場が窮地に追い込まれる。次が見つからない。政府が認可された制度にしてしまった小規模保育などでは、それが日常茶飯事になっています。子どもに対する保育の質どころではない。人員の国基準を満たすことさえ危うくなっている。派遣会社に電話するか、再び危ない若手を採用するか、規則を無視して無資格者に来てもらうか、安心して保育が続けられる手立てがほとんどないのです。だから、小規模保育では「資格者半数でいい」などという異常な規制緩和が反論なしにまかり通ってしまったのでしょう。

政府や学者が、「保育現場が追い込まれる」ことの意味を知らない。もう遅すぎるくらいなのに、まだ理解しない。

 政府や学者が、「親たちが子育てに幸福感を抱かなくなること」の意味を知らない。https://kazu-matsui.jp/diary2/?p=1839

失礼な言い方を承知で言えば、福祉の限界を市場原理で誤魔化そうとしても、老人相手の介護施設ならまだいいのかもしれません。老人は発言できますから。(介護保険制度がそうでした。)

でも、子どもたちは発言できない。そして、保育は子どもたちの日常であって、そこでの「人間対人間」の体験や「保育士の気持ち」が、三歳未満児の脳の発達に影響を及ぼし、親子の一生に関わってくるのです。考えればわかるでしょう。それは、国の将来に、すぐに関わってくるということなのです。

「脳の発達を考えれば、3歳未満児は何を教えられたかより、どう扱われたかが人生を決める。丁寧に『可愛がる』が基本。保育士の人間性がより問われてくる。保育士不足で、現場が保育士を人間性で選ぶことができなくなっている。政府が幼児の「扱いかた」をわかっていないからこういうことになる。」

(という私のツイートに)

「心にささりました。資格持ってるだけでいいので、是非うちの園に来て下さい状態です。発達障害が疑われる職員でさえ、是非!と受け入れなければ、保育士が足りません…。」

(という現場からの返信。)

こんな状況で、まだ「40万人分、保育の受け皿を作る」という目標を政府は下ろさない。その意図がわかりません。自分が当選している間だけうまくいけば、この国の将来はどうなってもいいというのでしょうか。繰り返しますが40万人の中身は、自分を守れない3歳未満児です。

私も短大の保育科で8年間教えていたことがあります。短大の保育科では真剣に学んでもらわなければ困る、4年制の大学とは違う、ここで資格をとって働くということは幼児の命に関わる仕事にそのままつくということ、と説明して厳しい授業をしました。短大を選び、2年後には現場に出ようという覚悟を持った人たちは高校生の時に人生の道を真剣に考えた人たちで、よくついてきてくれました。

その時の教え子たちの中にいまでも現場に残っている人たちがいます。「保育」に人生を預けた人、生き甲斐を見い出そうとした人たちです。彼女たちが、「保育はサービス」「成長産業」と定義した国の施策の中で苦しんでいる。

公立保育園に勤めて20年、自分は正規でもまわりの非正規雇用化に戸惑う人。若い保育士たちと「気持ち」や「思い」が重ならない。親たちの意識の変化に耐えきれなくなっている人もいます。

私立幼稚園の主任になって、退職した先生の穴埋めに奔走する人。自分の仕事・役割ではないのですが、4月からも子どもたちは園に通ってきます。短時間の派遣で保育はできませんよね、と電話がかかってきます。

保育という仕事に人生を捧げようとした人たちが、これで良かったのだろうか、と自分の選択に疑問を抱き始め、不安になっている。

二十数年前、「子どもたち、その親の人生さえ左右する、責任ある、でも素晴らしい仕事です」と授業で激励した私は、彼女たちの人生にも責任がある気がする。

こんなはずではなかった、と私も思う。でも頑張ってみるしかない、と励まし合うのです。

「新しい経済政策パッケージ」http://www5.cao.go.jp/keizai1/package/20171208_package.pdf

#6 「資格」が学校教育を危機に導く

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#6 「資格」が学校教育を危機に導く

就職しても、年度途中に(あっさりと)辞めてゆく若い保育士が増えている。思い悩んで、精神的に追い詰められて、または直感的に良心に従って辞めてゆく人もいる。毎年3割の保育士が変わり、市議会で、いったいどういうことなのかと問題になったりする市もある。派遣保育士の値段がつり上がってゆく。

保育界に限らず様々な業界で、新卒者の忍耐力、責任感が希薄になっているというのはよく言われること。平均的に三年以内に3割の新卒就職者が離職をするという。

問題なのは、保育という仕事がただの「仕事」ではないということ。環境が安定していることが第一条件としてある。3歳未満児が親、または祖父母や親戚でも村人でもいいのですが、特定の保護者と継続的に愛着関係を育てることの大切さは、人間、誰でも知っていたこと。だから、ユニセフの子どもの権利条約にも「児童は、できる限りその父母を知りかつその父母によって養育される権利を有する」と書いてある。

資格取得の段階で、ほとんど篩(ふるい)にかけられていない、園児たちのことを優先して考えられないような学生が、簡単に「子育て?」の「資格」を取れるようになっている。

そして、明らかに保育士の国家資格を「子育て」の資格とは認めてはいけない状況下に、国は「子育て」を保育士に任せるように親たちを誘導している

もし国が、11時間保育を「標準」と名付け(これも、子どもの権利条約違反だと思いますが)、これほど経済施策を急激に保育界に依存しようとしなければ、保育界はもう少しゆとりを持ち、その質をもうしばらく保てたのかもしれない。

いまさら、保育指針に「教育」という言葉を入れたり、3歳未満児の発達の重要性を書き加えても、保育士の質を資格取得の段階から落としているのだから焼け石に水、保育士を募集した時に倍率が出なければ、どんな人でも雇うしかない。資格を持っているというだけで雇わなければならなくなる、選べなくなる。政府の「やったふり政策」によって、悪循環が進んでいます。

保育士は、保育を「仕事」と考えることで辞めることができます。自分の人生を優先して考えることもできる。しかし、親はそうではない。基本的に、一般的に、「辞める」ことができない。それが私たちが進化するために、または安定的に社会を築くために、与えられた条件です。特に哺乳類の場合は、子どもを優先にしないと自分の本質を体験できないような仕組みになっている。そのことの意味と、違いを理解していないことに、いま政府が進めている保育施策の致命的欠陥がある。施策を決めている人たちが人間性と社会の関係性を知らない、子育てを包む心の動きを理解していない。

(子どもの権利条約に「子どもの最善の利益を優先する」ことと、子育ての「第一義的責任が親にある」ことが、同時に書かれていることには意味がある。この二つが尊重されなければ、人間社会は成り立たない。健全な状態を保つことが難しくなる。)

保育者養成校の学生の質の低下の問題は、実習生たちを受け入れている幼稚園・保育園に聞けばわかります。厚労省も当然知っている。養成校の教授たちは全員知っている。

真面目な学生たちが、同級生のいい加減な態度を見て、なんであんな学生に資格を与えるんですか?ちゃんと試験をしてほしい、と訴えてくる。伝統ある認可園に一週間実習に行っただけで、子どもを叩いたり、怒鳴ったりする習慣を覚えてしまう同級生を見て、保育園の格差の実態を知ってしまう。先輩から、あの園に実習に行ったら保育士になる気がなくなるよ、と園名の伝達が行われていたりする。そうした混乱の中で、保育「資格」が形骸化してゆく。それを親がちゃんと知らされていない。それを知らせると、政府が困るから。

資格を与えなければいい、だけのことです。でも、少子化も重なり、それをすると受験者が減って養成校ビジネスが成り立たなくなる。政府の経済施策で、高等教育を中心に、国全体が「弱者の最善の利益を優先する」「利他の心」を忘れ、子育てが自転車操業になってきています。

そうした状況の中で、火に油を注ぐように、ネット上に「保育園開業マニュアル」、いま儲けるなら保育園、といったビジネスコンサルタント会社の宣伝文句や、保育士転職の仕方マニュアルが幼児たちの頭越しに飛び交っている。

その先にあるもっと恐ろしいネット上の子どものやりとりが、市場原理先進国アメリカで、里親という形ですでに始まっている。https://kazu-matsui.jp/diary2/?p=2083

自分の園の保育士に、養成校時代の同級生、知り合いの保育士を引き抜いて来れば一人五万円出す、と園長が平気で言ったりする。他園の園児たちの日常などどうなってもいい、と宣言しているようなもの。東京のある区長が、税収や財源があるからと言って、月8万円の住居費補助で他県から保育士を青田買いしようとする。待遇改善と言いながら、実は強者に有利な、保育士の奪い合いが始まっている。これが政府の進める市場原理の結果です。「保育は成長産業」と位置付けた閣議決定のたどる保育界の姿です。それがすなわち、国の勧める「子育て」の姿を現している。

大人の都合を優先して、子どもたちの「気持ち」を考えない、自分たちの利便性と損得しか考えない、この強者本位の流れが迫っているのを、いい保育士は見抜いてしまう。子育てが社会の一部ではなく、ビジネスの一部になろうとしているのが見えてしまうのです。だから「いい保育士」も、あっさり辞めてゆくのかもしれない。

「あの人、変、」と幼児が怖がって寄り付かないような保育実習生が園をうろうろする。その風景が、学校教育という仕組みの終焉を示唆しています。

(毎年、保育関係者を中心に全国で講演しています。主に保育界で起こっていることを報告している私のツイッターに、こんな文が返ってきます。@kazu_matsui)

『うちの職場にも「(俗にいう)使えない人材」が採用されています。「子どもなら、自分の自由に動かせる」と非常に恐ろしい考えを、何の躊躇なく話してた彼ら。退職したり、配置転換し、現場から離れましたが一緒に仕事してる時は生きた心地しませんでした。』

『最近の実習生を見ていて、まさに実感しています。『子どもが好き』だと思えない学生が多い。新卒の保育士も同じ。なぜ保育士になったのか?と思ってしまう。結果、新人は注意されればすぐ退職していく。残された保育士の負担増であり、悪循環…』

『トイレから出てこなくなってしまった実習生を引き取りに来た母親の「保育士だったらなんとかなると思ってたのに」という一言は忘れられないけれど、一緒に来た担当講師の「なんとか二週間頑張れば資格とれたんですけどね」という言い草には腹立ちより呆れ。その講師はその養成校の卒業生と聞いて納得。』

ーーーーーーーーー(続く)ーーーーーーーーー

#5 「高等教育」に「人づくり」ができるのか?

ーーーーーーーーー(前回からの続き)ーーーーーーーー

#5

「高等教育」に「人づくり」ができるのか?

「人づくり革命」を目指す政府の「新しい経済政策パッケージ」「高等教育は、国民の知の基盤であり」という言葉が書かれています。本当にそうなのでしょうか。

幼児たちを保育する人を育てる保育者養成校は、高等教育の一つです。国の将来や、人々が安心したり、幸せを感じる社会を目指す、それに必要なモラルや秩序の存続を考えれば、四年生の国立大学よりもよほど身近で重要な役割を担う「高等教育」と言ってもいいでしょう。

いま、進んでいる「保育崩壊」の一番危ない現実は、保育士不足とともに、保育士養成校の授業と学生の質の変化が急速に落ちてきている点ある。国の言う「保育ニーズ」に反比例するように、何人も他人の子どもたちを長時間任せられる人たちがこの種の「高等教育」の中で育たなくなってきている。それは、実は保育士だけではなく、教師も、企業に勤める人たちも、親たちも、社会全体が、そうなのかもしれません。「教育」という言葉がもっと大切な「人間が育ちあう」「体験を分かち合う」という人生の意図を覆い隠し、わからなくしているからではないか、そう思えてなりません。

女性の社会進出という言葉が使われる時に、(本当はそれは「女性の経済競争への参加」に過ぎないのですが)子育てによって女性の自己犠牲が促されている、みたいなことが言われるのです。女性だけが、という不平等感に対する反発があるのかもしれない。しかし、文脈からは、「自己犠牲」が良くないもののような響きが聞こえる。もしそうなら、仏教もキリスト教も、長い間一体何を人々に「薦めて」きたのか。

「子育て」は、自己犠牲が幸せにつながるという「宗教」の教義を、その宗教が地球上に現れる以前から支えてきた進化の法則です。それがいま一般論として否定されようとしているから話がややこしい。高等教育が「経済」を支えようとするからこういうことになる。これではネズミ講のネズミが増えるばかりで、社会は安心と平和からますます遠のいてゆく。

定員割れしそうな養成校に、高校で進路を指導をする一部の教師たちが、様々な問題を抱えた生徒を送り込んでいる。「子ども相手ならできるでしょう」、「ここなら入れるよ、そのまま就職にもつながるから」と、安易に、または熱心に、薦める、指導する。それが仕事だから、「教育?」だから。

進路指導の教師たちが数年後その進路の先にいる幼児たちの時間の質をほぼ考えない。教育の分業化が進み、「子育て」という一本の筋が見えにくくなる。幼児たちがいま過ごす時間の質が、将来自分たちの「教育の質」に関わってくることを考えない。これが仕組みとしての「高等教育」の欠陥であり、実態になりつつある。

高等教育に関わる人たちが、子どもの幼児期における人間関係や環境がその子の人生に与える影響の大きさについて知らないのか、教えられていないのか、興味がないのか。

仕組みとしての高等教育が「子育て」から離れはじめ、人間の想像力を失わせてゆく典型的な姿です。

高等教育が自らを破壊し始めている。https://kazu-matsui.jp/diary2/?p=1478

3歳までは親が育てる、その後も子育ての主体が親という「幼稚園」ならまだ影響は少ないのかもしれません。園生活の中に悲しみや苦しみがあれば、3歳以上児は、たぶんそれを言葉で親たちに伝えることができる、そう思いたい。

しかし、政府が3歳未満児を保育園で預かることをこれほど強く奨励しているいま、誰でも養成校に入ることができ、ほぼ全員が国家資格を取得でき、誰でも採用する、採用せざるを得ない仕組みがその先にあって、そこに人間の信頼関係に包まれて成長すべき0、1、2歳児が居ることを、高等学校の進路指導の教師が意識しなくなっていることに社会として気づいて欲しい。「高等教育」という仕組みの中で、自分の立場と責任を高等教育をする人たちが理解していないということ。

教育や子育てにビジネスやキャリアが絡むと、必ずこういう現象が起こります。教育が産業に隷属し始める。

技術や情報を伝えることに加え、国が真剣に、「人づくり」を高等教育に求めるのであれば、その意図は、「保育資格」を巡って起こっている「この実態」によってすでに崩れている。

ーーーーーーーーー(続く)ーーーーーーーーー

ちびっこランドこやま園の記事

三年前なので、もう忘れている人も多い事件ですが、ちびっこランドこやま園の記事:https://kazu-matsui.jp/diary2/?p=263

園長は、調査に対し「たたいたことはあるが、虐待という認識はなかった」と話している。保育者が幼児をたたくということがどれほどの重さを持つか、それが幼児に対するどれほどの裏切りか、園長が理解していないような状況、仕組みを三年前からすでに国が作っている。(許している?)

こういう園長が存在できる状況を規制緩和で作っておいて、それが「待機時対策」優先でしっかり取り締まれていないから、いい保育士があっさり辞めてゆく。

大手株式会社が三割増しで保育士を募集するということは、毎年三割保育士が辞めてゆくこと。こうした営利優先の一部企業や社福の保育士の使い捨てが、保育界全体を追い詰める。
何より怖いのは、それと並行して、「保育は成長産業」という閣議決定がされていること。

ヒュー・マセケラが逝った。

ヒュー・マセケラが逝った。

地球村の番人がまた一人、フリューゲルを吹きながら去っていった。

彼とはずいぶん長く話しあった。マンデラのこと、人種差別のこと、南アフリカのこと、そしてアメリカという国のこと。

チャカ・カーンの後ろで幾度もディップを踊った。

日本で、「朝食の時に日本人が箸を使ってやるあの呪いは、何のためだ?」と聞かれ、よく聴いてみると、納豆を食べている人が口の前で箸をクルクルやっている仕草のことだった。

それを「呪い」と見たところが部族的で、嬉しかった。

彼のような戦い方が消えてゆくようで、寂しい。

でも、その後ろ姿は、楽しそうだった。

https://www.pbs.org/newshour/show/remembering-hugh-masekela-master-musician-who-fought-for-south-african-freedom

新しい経済政策パッケージ」と「高等教育」について。#4 感性を失う「高等教育」:そして「教育」と「子育て」の違い

ーーーーーーーーー(前回からの続き)ーーーーーーーー

#4

 感性を失う「高等教育」:そして「教育」と「子育て」の違い

低賃金の労働力を確保するために(維持するために)、十数年前に政府は、単純に、保育士養成校を増やそうとしました。養成校で学び資格を取れば、他人の子どもたちの「子育て」ができると、とんでもない勘違いをした。こういう勘違いがどうして起こるようになったのか。「学問をすれば子育てができる」と思うことが、そもそも人類の営みを理解していない未熟すぎる思考です。そして何よりも、「子育てに関わる養成校」(大学や専門学校)の存在自体が授業内容や教える人間の選択からしてまだまだ不完全で、不自然で、未完成な仕組みだと経済学者たちは気付いていなかったのかもしれません。

別の言い方をしましょう。政府は、資格という言葉で、「子育ての責任」を誤魔化そうとした。

 学校教育と保育の違い、教育と子育ての違いをほとんど理解していない。意識していなかったように思えます。(前回からの関連性から言えば、この時点ですでに「高等教育は、国民の知の基盤であり」えない。)

さらに不幸なことに、養成校が定員割れを起こし学生を募集した時に倍率がでなくなることが保育界にとってどれほど致命的かという、その関係性に気づいていなかった。

子育ては「結果」ではなく、人間対人間が、遺伝子をオンにしあう「体験」だということさえ想像できなかった。

「高等教育が国民の知の基盤」などと国の施策として平気で言う人たちは、保育が学校を支えていた、子育てが教育を支えていた、ということさえ見えていなかったのでしょう。

少子化のおり、ビジネス・生き残り優先の養成校の多くが、政府の望み通り受験者のほとんどを入学させ、資格を乱発し、保育に必要な資質、人間性のチェック機能さえ果たさなくなってしまった。その時点で「高等教育」はその本質と存在意義をすでに失っている。それにも気づかなくなっているのか、マスコミも含めて、見ない振りをしているのか。

(ある保育者養成校の教授が「保育は未来に対する投資だ」と言っていた。政府が保育にお金を使えば、経済的に見返りがあるという論法なのでしょう。大学・養成校、自分のやっている学問を成り立たせたいのでしょうが、「子育て」は本来駆け引きや損得勘定でするものではない。

本来もっと別次元の、弱者に優しい自分自身の性質を親たちが体験し、自身のいい人間性に気づくという、人類の存続に「不可欠の行い」だった。

子育てが学問で捉えられ始めた頃、ある西洋の学者が「1ドル子育てにかければ、6ドルになって返ってくる」という子育て論を展開したことがあったそうです。日本の学者たちの多くがこの損得勘定、欧米的な駆け引きの論法に影響されているのではないかと思うことがあります。

現在進行している保育改革は、「保育は成長産業」と位置付けた閣議決定がその原動力になっています。ここで進められる「市場の開放」と「規制緩和」は、80年代に世界経済からモラルと秩序を失わせたトリクルダウンの経済論と重なります。それを安易に保育界にあてはめようとした。しかし、日本の保育界の本質はやはり「子育て」にあって、それをビジネス化しようとしたり、80年代の経済論を当てはめれば、「保育」と「経済」がお互いに傷つけ合う状況を生み出すことになる。保育士たちの子どもを眺める視線と、経済学者たちの視線がちがうことが、子育ての方向性を混乱させる。

子育ての本質は「損得勘定から離れること」。「そうすることによって得られる、利他の幸せに近づくこと」。仏教の「欲を捨て、幸せに向かう道を発見する」という考え方そのものと言っていい。聖書にも同じように、幼児たちこそが天国に一番近い人たち、という説明があります。「信じ切って、頼り切って、幸せそう」、その幼児の姿に人間はパラダイスの在り方を見る。彼らの日々を(男女が一緒に)眺めることによって、人間は根源的な人生の目的を知り、これをやっていれば大丈夫という生き方を学ぶ。

高等教育が真に「高等」でありたいなら、闘うための道具や武器を教えると同時に、「欲を捨てることの意味、そうすることで得られる強さ」を幸福への選択肢として、しっかり教えるべきなのです。倫理学や宗教学、道徳の授業のことを言っているのではありません。もっと深い、自然で本能的な自己実現の機会を作る。毎月一度、幼児たちとまじわるだけでいいのです。高校生、大学生は、毎月幼児たちと数時間過ごす、それだけで、この国はずいぶんいい方向へ動きだす。

「欲を捨てることの強さについて」https://kazu-matsui.jp/diary2/?p=36

子育ての意味や大切さを教えるはずの教育機関(保育者養成校)が自分たちの損得勘定に捕らわれ、産業に組み込まれ、生き残りのために、「資格」の先にいる幼児たちの安全や安心を優先しなくなっている。すでに高等教育は「教育」から「商売」の領域に移っている。高等教育に関わる人たちはみな一様にそれを知っているはずです。それなのに、その事実から目を逸らしている。

ビジネスは「国民の知の基盤」ではありえない。それを隠すために、学者たちは国の政策の中に「高等教育は、国民の知の基盤であり」という宣伝文句を書くのでしょう。この欺瞞が、良寛さまや宮沢賢治、「男はつらいよ」や「釣りバカ日誌」を生み出してきたこの国の風土、文化と合わない。その嘘が、子どもたちに見破られている。

高等教育を考える人たちに「子育て」が見えていない。教育と子育ては異なる。その動機からすれば、ほぼ相反すると言ってよいもの。だから、「幼児たちの気持ち、社会における役割り、人類に必要な自然治癒力とか自浄作用に関わる働き」が見えない。

いままで何とか保育を支えてきた現場の保育士たちは、同僚との意識の差によって混乱し、幼児が優先にされない保育現場の状況に戸惑い疲れ、国の「保育はサービス」「保育は成長産業」という閣議決定を受け入れビジネス優先に考える園長の出現に呆れて、辞めていく。

(以前「保育士の悲しみ」という文章を書きました。 https://kazu-matsui.jp/diary2/?p=740)

 中学校で家庭科の時間に赤ちゃんと触れあう体験を生徒にさせている学校があります。妊婦さんや乳児のボランティアを保健所で募って中学校に行ってもらいます。

 グループになっている中学生の机のところに赤ん坊がきます。お母さんが「抱いてみて」と言います。お母さんは中学生を信頼して大事な赤ちゃんを手渡した。次世代を信じた。信じてもらえた中学生が、誇らしげにクラスの友だちを見ます。いつか自分も次の世代を信じる時が来る。

 赤ん坊を抱くのが上手な男の子がいました。シャツがズボンのそとへはみ出して、不良っぽく見せています。その子には小さな妹がいて、いつも抱いていたのです。みんなが驚いて感心します。彼は、家ではいいお兄ちゃんだったのです。昔の村だったらとっくに知っていたことなのに、いまは、家庭科の授業がなければ知ることのできない友だちの姿です。

 僕も昔はこうだったんだ、と誰かが思います。お母さんたちも、中学生を見て、私も昔中学生だった、と思います。この時、魂の交流が時空を越え人類全体の人間性を形作るのです。選択肢がないことに気づくと、人間は安心するのです。

「新しい経済政策パッケージ」http://www5.cao.go.jp/keizai1/package/20171208_package.pdf

新しい経済政策パッケージ」と「高等教育」について。/ 高等教育は、国民の知の基盤でありえるのか?

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「新しい経済政策パッケージ」の中にこんな文章がある。

「高等教育は、国民の知の基盤であり、イノベーションを創出し、国の競争力を 高める原動力でもある。大学改革、アクセスの機会均等、教育研究の質の向上を 一体的に推進し、高等教育の充実を進める必要がある 」

 トランプ米大統領が自身についての暴露本の出版に反論し、自らのツイッターで、自分は有名大学を卒業しその後企業経営に大成功した最も精神的に安定した天才だ、と宣言した。その数日後、与野党議員が出席したホワイトハウスにおける移民政策の会合で、アフリカやハイチのような「糞溜め(くそだめ)」shit-houseからではなく、なぜノルウェーのような国から移民を入れないのか、と発言し大問題になる。マスコミが「露骨な人種差別」を非難し、ハイチで抗議デモが起こっている。しかし、37%という大統領支持率に変化がない。高等教育が普及したはずのアメリカで……。

さらに、「高等教育を受けた、自称精神的に安定した天才」の発言でアメリカの学校教育が混乱に陥っている。

小学校で、白人の生徒が教室で黒人の同級生に、「糞溜め」に帰れ、ラテン系移民の子に、壁の向こうへ帰れ、と言い始めた。人種差別に起因した学級崩壊に教師が対応策を失い、呆然としている。37%のトランプ支持者を親に持つ小学生が、たぶん37%くらいいるのだ。学校の存在意義が崩壊しかねない、大統領主導の人種や格差、主義主張における分断が始まっている。この分断のエネルギーの前で、高等教育は砂上の楼閣に過ぎなかった。

現実はどうあれ、憲法に書いてある民主主義や平等を正しいこととして教えてきた教師たちが、国民に選ばれた大統領の発言とそれに敏感に反応する子どもたちの前で立ち往生している。

(先代の大統領オバマさんは、父親がケニアから来た移民だった。そして、トランプ大統領のオバマ嫌いはなぜか常軌を逸している。そこに憎しみさえ感じる。)

 高校、大学と高学歴者が増えるほど社会がその本来の姿を失う。自己中心的、個人主義的になり、若者が感性を失っていく。家庭中心にまとまることができなくなり、男女間の信頼が揺らぐと、経済活動に必死になる人が増える一方で、根源的な、未来につながる生きる意欲と目標を失い社会全体が殺伐としてくる。アメリカでは数パーセントの人が九割の富を握っている。それが高等教育をベースにしたアメリカン・ドリームの現実なのだ。

先進国社会で起こっている対立や分断の激化、市場原理における混乱を考える時、私は思うのです。高等教育を信じてはいけない。

 

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アメリカで起こった、高等学校の卒業率が上がることによって世代の全体的学力が下がるという現象にもそれが表われている。1980年代、親の世代に50%だった高等学校の卒業率が70%を超え、より多くの人が高等教育を受けるようになったにもかかわらず世代の平均的学力が下がった。国の歴史始まって以来未体験の現象で、目的としたことと反対の結果が出てしまったのだ。1984年当時アメリカ政府はこの問題を「国家の存続に関わる緊急かつ最重要問題」と定義して大騒ぎした。https://kazu-matsui.jp/diary2/?p=1064

義務養育が普及し、子育てが家庭から仕組みにシフトし、家庭崩壊が始まると、学校教育自体が成立し難くなってくる。

日本でも、似たようなことが起こり始めている。

高学歴社会になり選択肢が増えると、結婚しない若者が増える。高等教育を受けている最中、またはそれを受けた直後に引きこもりが始まる傾向や、引きこもりが長期化していることに表れている。高等教育を受けることの文化人類学的、生体人類学的な負の影響を考える時期にきていると思う。結婚や家族をつくるという種の存続に伴う子育ての「幸福論」が希薄になることによって、人間社会はどのように変化してゆくのか、真面目に話し合う必要がある。「高等教育を、国民の知の基盤にするとどうなるのか」はすでに見えているのだから。

(「引きこもりの状態になった年齢」。20~24歳が増えトップで34.7%。学校教育の普及を単純に「いいこと」と決めてしまっている状況が生んだ数字です。)

 

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人づくり革命」と言って親子を引き離す施策を進める経済学者たちを見ていると、幼児たちの前で謙虚になれない高等教育は進化に貢献しない、これでは存在する意味がない、とさえ思う。親を親らしく、人間を人間らしくするのは学問ではない。幼児たち(子育て)なのだ。

「家族中心」が「自己中心」になり、「自己実現」などという言葉を使って経済競争を成り立たせるための罠が用意される。その片棒を担がされているのが最近の「高等教育」ではないのか。それに騙され、男女の連帯感は一層薄れていき、家族を持ったとしても、それを維持しようとする能力、動機が非常に弱まっている。その時点で、「夢は、次の世代に託すもの」という進化の原則を忘れている。家庭崩壊を補うためにいくら福祉が子育ての肩代わりをしようとしても、その限界は見えている。https://kazu-matsui.jp/diary2/?p=2391

(最近、中学や高校で乳幼児と出会う体験をさせる学校が増えてきました。家庭科の授業を使って中学生の保育者体験をする自治体もあります。親の保育者体験も含め、こうした試みを至急、もっと増やして欲しい。高等教育と共存したいのであれば。https://kazu-matsui.jp/diary2/?p=236 https://kazu-matsui.jp/diary2/?p=260:中学生の保育士体験)

 

もともと「人類」は幼児たちによって自分の中にある進化するための人間性(動機)を体験的に教えられ、「社会」は幼児たちによってその絆と存在意義を幸福観と重ねた。「経済」と呼ばれるものの存在意義もまた、幼稚たちを優先順位の先頭にすることで、そのモラルと秩序を保つ。

 

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(学校はいいものです。いい仕組みです。)

高等教育の大部分は、ごく一部の人間にしか役に立たない特殊な技術や情報です。微分積分や方程式は多くの人にとって使う機会のない知識であって、物理や漢文、外国語などもそう。しかし、それが「義務」として受け入れられてきたのは、人間社会に、進化する過程の「連帯感」があったからです。

「同じ船に乗っている」という意識があれば、ごく一部の人にだけ役立つものでも、それを一時的に全員が苦労して学ぶことを受け入れることは容易でした。「義務として」習わせ、適度に苦しめ社会全体に忍耐力と連帯感を生み出す、それもまたいいこと。高等教育という位置付けからは外れるかもしれませんが、運動会や組体操などもいい試みです。「輪になって踊る、歌う」は義務教育よりはるかに昔からある人間社会のまとまりの原点です。

そして、学校は、利害関係のない友人を作り、人間関係を学び、恩師に出会い、将来の配偶者を見つける、という役割も果たしてきました。多くの人にとって「学校」は、いまでも素晴らしい場所なのです。

一方、私は不自然で危険な一面だと思っているのですが、高等教育は、「授業」という、聞いていない人たちの前でも平気で話す学者(?)教師を生み出し、話している人の前で眠ったり、私語やスマフォに熱中する学生を放置するというコミュニケーションの異常な状況を日常化する。(全ての授業がそうだと言っているのではありませんが、)お互いの気持ちを想像する感性を蝕み、言葉の向こうにある「心持ちと人間関係を察する」というコミュニケーションの本質を見失わせる役割も果たしている。その結果がこういう政府の施策に表われているのではないか。そのあたりが、思ったよりも社会全体を危うくしている、そうも考えられる。

コミュニケーションの深さが失われていく過程で、知識や技術を身につけることは危険です。武器を持つと闘いたくなる、道具を持つと使いたくなるからです。

 

知の基盤は体験的に学ぶべきものであって、イノベーション(意識改革)は「祈り」を伴って創造されるもの。

人づくり革命」が言うイノベーションの意味がよくわからないのです。「人員整理労働力の再配置 」という意味のイノベーションなのか、「意識改革」という意味なのか。「技術革新」という意味であるならはっきりそう書くべきで、こういう肝心な所に様々に翻訳できる外国語を使うから、あとで学者たちの誤魔化しがまかり通ってしまう。英語を知らなければ理解できなような文章を「国の政策」として書くべきではない。もう少し日本語を大切にするとです。すると逆に見えてくるものがある。翻訳しようとする過程で、欧米的経済論の、幸福論とは重ならない「浅さ」が浮き彫りになってくる。

「高等教育」を受けたはずの学者たちには、人間は「国の競争力を 高める」ために生きているのではない、という「知」の原点に気づいてほしい。

(以前ブログに、こうした学校教育の矛盾や危うさを予見した「大酋長ジョセフ」の発言について書きました。https://kazu-matsui.jp/diary2/?p=2453 150年前、学校教育や教会の広まりを拒もうとしたジョセフは、神はすでに在るもの、議論の余地のないものと言った。ここで神というのは宇宙のあり方、不動の真実、大自然、というようなものだと思うのです。学校が先導する西洋的な仕組みや思考を教育しようとした欧米人の意図の本質をついた視点がそこにはある。こういう視点は、いま聴いても嬉しくなります。)

3歳くらいの幼児に、全霊で信じてもらって、これほど確実な信頼の絆はないことに気づいた時に、人生が定まり、人間は楽になるのだと思う。親たちが子どもを授かり、受け入れ、子育てを分かち合い、楽になって、子どももまた不思議に落ち着き、頼りきり幸せそうになる。

子育てにおけるこうした相乗作用が社会の土台となっていないと、不安が、不安を煽り立てて、幼児たちが生き場所を失い始めます。

子どもを育てていると、どうにもならないことがたくさんあります。そのことに守られている気がします。それが自分を体験することなのかもしれません。

「新しい経済政策パッケージ」http://www5.cao.go.jp/keizai1/package/20171208_package.pdf

 

大酋長ジョセフと学校教育

ジョセフ酋長の言葉

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 私の好きなインディアンの大酋長にジョセフという人がいます。150年くらい前に生きた人です。あるとき、ジョセフが白人の委員とこんな会話をしたのです。

 ジョセフは、白人の学校などいらないと答えた。

 「なぜ学校はいらないのか?」と委員が尋ねた。

 「教会をつくれなどと教えるからだ」とジョセフは答えた。

 「教会はいらないのか?」

 「いらない。教会など欲しくない」

 「なぜ教会がいらないのか?」

 「彼らは神のことで口論せよと教える。われわれはそんなことを学びたくない。われわれとて時には地上のことで人と争うこともあるが、神について口論したくはない。われわれはそんなことを学びたくないのだ」

(『我が魂を聖地に埋めよ』ブラウン著、草思社)

“Why do you not want schools?” the commissioner asked. 

“They will teach us to have churches,” Joseph answered.
“Do you not want churches?”
“No, we do not want churches.”
“Why do you not want churches?”
“They will teach us to quarrel about God [translated Great Spirit in other places],” Joseph said. “We do not want to learn that. We may quarrel with men sometimes about things on this earth, but we never quarrel about God. We do not want to learn about that.”
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 もともと西洋人が学校を作った背景には、識字率を上げ聖書を読める人を増やす、という目的がありました。アメリカ大陸に移住してきて、「神」を知らないインディアンを西洋人は不幸な人、野蛮な人と見て、学校教育が必要だと考えたのです。

 ところがジョセフは、神はすでに在るもので、議論の余地のないものと思っていた。これは学校という西洋的な仕組みの本質をついた視点です。こういう視点は嬉しくなります。

 なぜジョセフがそれを見破ったか。大自然と一体になった人間の感性が、白人たちの子育てに何が欠けているかを見抜いたのかもしれません。古(いにしえ)の法則で生きている人たちなのでしょう。神を広めようとする白人の行動に、自分が知っている神の存在を感じなかったのかもしれません。

 『逝きし世の面影』(渡辺京二著、平凡社)に出てくる150年前の日本人の姿と大酋長ジョセフを私は重ねます。西洋人が、日本人は無神論者的だと感じた風景の中に、実は幼児を眺め、幼児を拝み、同時に神や宇宙を眺めることができる特殊な文明が存在していた。神はそこら中に居た。そして、西洋人はその無神論者的な社会に、なぜか一様にパラダイスを見たのです。https://kazu-matsui.jp/diary2/?p=205

 ジョセフがこの発言をしたちょうどそのころ、欧米人は日本というパラダイスを見ている。インディアンの生活が一見原始的であったがために、そこに日本を見て感じたパラダイスが見えにくかったのでしょう。インディアンたちに対しては同じ人間の営む文明として敬意を払うまでにいたらなかったのだと思います。

 当時日本にきた欧米人が、驚いたことの一つに「日本の田舎ではすべての家の中が見渡すことができた」というのがあります。この不思議さは外国人だからこそ気づいた、日本の文化の特徴です。塀や壁や扉をなるべく作らず、作ったとしても昼間は開け放つ。当たり前のように時空を共有することが、パラダイスを形成する安心感の土台にあったのでしょう。もし、同じような観察をアメリカインディアンにもしていたら、西洋人はもっと大きなパラダイスを発見していたのかもしれません。

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 西洋人が学校でインディアンに教えようとしてなかなか教えられなかったことの一つに「所有の定義」がありました。共有の中で生きてきた人たちは、西洋人が正当なやり方でインディアンから土地を手に入れても、そこから立ち退かなかった。大地は天の物、神の物であって、人間が所有できる物ではなかった。この視点の違いから、悲惨な闘いの歴史が始まります。

 日本では、土地の所有に関して血で血を洗う闘争の歴史がありました。しかし、それは主に武士階級の間で行われ、村人の日々の生活の中に別の次元の現実としてあったのは、共有の精神だったと思います。一人の赤ん坊を育てるには数人の人間が必要で、そのことが未来を共有する感性を人々に与えたのだと思います。システムだけ見ているとわからない、魂の次元での一体感や死後へも続く幸福観を村人はちゃんと持っていた。西洋人の観察の中に「確かに日本には封建制はある、武士は一見威張っているように見える、しかし、なぜか村人は武士を馬鹿にしているようなふうがある」とあるのですが、このあたりが本当の日本の姿だったのではないでしょうか。

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 最近の学校教育へ視点を戻します。先生が子どもたちに「夢を持ちなさい」という。その先生たちに、「先生は夢を持っていますか?」と質問すると言葉につまってしまう。「昔は、こんな夢を持っていました」「退職したらこんなことをしたい」といった答えが多かった。

 矛盾に囲まれて子どもたちは生きています。伝承のプロセスに信頼関係や現実味が薄いのです