演奏します。8月2日、夜、池上の實相寺です。

今年二回スイートベージルでの公演に参加したIAMのお寺公演にゲストで参加演奏します。私は初めてのお寺ですが、いい所みたいです。
8月2日(金)開場19:00  開演19:30  終演予定21:00
会場 池上實相寺
http://www.youtube.com/watch?v=pp611Jj-M7s&feature=player_embedded#t=246

親父の会/園での父親の交流が学校でのイジメを減らす

十年以上前に講演した幼稚園へ行きました。その時の講演をきっかけに父の会ができて、それが園でとても大切な存在になっている、という嬉しい報告をお母さんたちからいただきました。先週もそんな園で講演し親父の会の役員たちとピザを食べました。父の日が近づくと改めて父親の役割り、そしていまこそ父親たちが幼児と過ごす時間がとても求められている、と思います。

東漸寺幼稚園の父の会のページは、一年間にこんなに色々出来る、という道標になります。ぜひご覧下さい。お父さんたちの幸せそうな写真が大きな子どもたちのようで、子どものための父の会というより父親のための父の会、という感じが自然でいいのです。それを見て、男の子たちもきっといつか父親になりたくなるのです。少子化対策、親父の会版です。

(いまの少子化の一番の原因は、三割の男たちが一度も結婚しない、男たちが父親になる幸せを見失っていることにあるのです。)

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父親たちが集う意味

 

夫の暴力に苦しむ母親が増えています。小学校のPTAで講演すると特に感じます。講演後に相談を受けることがあります。競争原理に煽られ、操られ、生きる力を失いつつある男たちに優しさや忍耐力がなくなってきているのです。心にゆとりがない。子どもには優しい父親が、妻に暴力を振るう、というケースもあります。子煩悩な父親にはまだ希望がありますが、子どもに関心を示さない父親が暴力を振るい始めると危険です。

早いうちに父親の親心を耕しましょう、と私は保育者に呼びかけます。保育所保育指針に掲げられている「子どもの最善の利益を優先する」という言葉に、いま一番かなっているのです。

一日副担任をやってもらって、一人ひとり幼児の集団に漬け込むのが効果的です。父親の顔が数時間で変わります。ニコリともしなかった表情が園児に囲まれて和みます。すると、家庭の空気が温かくなる。

 家庭内暴力が奇跡的に止まることがあります。暴力を振るうのに誰にも相談に行かない。そういうプライドの高い頑なお父さんが「園の行事」という助け舟に救われ、本来の姿を取り戻すところを何度も見ました。

父親だけ集めて、年に数回酒盛りをさせる幼稚園があります。お母さんと子どもたちはいなくてもいい。父親同士が仲良くなることが目的です。

「父親同士が知り合いかもしれない、友だちかもしれないという意識を、幼児期に子どもたちに持たせることができれば、小学校や中学校でいじめはなくなるんです」

と園長先生が断言します。「本当は友だちでなくてもいいんです。お父さん同士が友だちかもしれない、子どもたちが日常的にそう思うことがいいんです」。部族の感覚。

インドの田舎の村なら当たり前のこと。言い換えれば人類は過ごした時間の99.99%、この感覚に包まれて成長してきたのです。

学校教育の現場から、ある時期、「平等」を勘違いして、意識的に家庭の存在を排除しようとしたことがあります。友だちの向こうにその子を育てた人がいることを意識できなくなった。

見えない絆や、様々な人間関係を「意識すること」で、人間社会はバランスを取り、成り立ってきた。学校という非常に新しい「実験」の中で、放っておくと残酷になりがちな子どもたちの世界には、そうした見えない世界の意識のバランスが必要なのです。人間は様々な絆でつながっているということを、早いうちに覚えるのがいいのです。

お父さんたちの酒盛りから野球のチームができたり、釣りの同好会や、季節の行事が生まれます。それはやがて学校での「オヤジの会」に進化します。「利害関係のない友だち」、競争社会で生きていればいるほど、それが必要です。卒園後も一生続くと良いのです。

 大人たちの部族的意識が子どもたちを安心させ、学校での生活が安定してくきます。

 

 

父親のいない子ども

 

園で父親参加の行事をやろうとすると、「父親のいない子どもに対する配慮は?」と言う人がいます。心ある保育者が「お父さんがいない子は悲しいと思います」と私に言います。優しさから出た言葉です。しかし、人間の幸せは悲しみと背中あわせ。「死」があるから「生」があるように、正面から受け止めずに、真の絆は生まれません。周りの人間たちの悲しみを意識することは、絆そのものかもしれません。

以前、運動会で徒競走に順番をつけないという学校の話を聞きました。平等という概念で絆は育たない。平等なんてあり得ない、支え合って、人間たちは幸せになる。

徒競走でビリになった自分の子どもを親がどう慰めるか。オロオロして一言も声をかけられなくても、オロオロを実感することで「親心」が育っていく。親はオロオロするからいいのです。

漫然と悲しみを避け、現実から顔を背けていると人間は繊細さを失ってゆく。優しさという人間らしさの大切な部分を失っていく。悲しみと不幸は同質ではない。悲しみを分けあう、実感しあう、そのことが、楽しみを分けあうよりはるかに絆を深めることがあります。

「父親のいない子に配慮し」幼稚園が、父親参観日という名前を自粛し、「走るのが遅い子に配慮し」みんなで一緒に手を繋いでゴールするような教育をしたら、信じあうことを忘れ、悲しみをわかちあえない社会になるでしょう。

一人の人間の悲しみを包み込み、絆が育つ。絆が助けあいを生み、助けあいがより深い絆を生む。人間は一人では絶対に生きられない。

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人間が助けあったり頼りあったりしなくていいように、政府や行政がやらなければいけない、とみなが言い始めている。権利として主張し、要求し始めている。これは怖い。

地震や洪水が起きると、マスコミが「心のケア」が必要、「カウンセラー」を政府が用意せよ、とまで言う時代になりました。人々の間に、政府や行政がしてくれないから自分は不幸なんだ、という意識が広まってくる。人々が怒りをぶつける相手を探してあげる、みたいな報道が多すぎます。

悲しみから目をそむけ、日常生活の中で人間関係の絆を築く機会を失い、そのうちカウンセラー(専門家)がいなくては機能しない社会になったら、殺伐とした救いのない不幸が人間社会を満たすでしょう。自分がいじめられないため、形だけの絆を保つために誰かをいじめるという最近の小中学生の世界に、私は未来の日本を感じて怖くなります。

人間は、絆がなければ生きていけない。しかし、その絆が悲しみさえもわかちあう深いものでなければ、幸せにはなれない。

 

「配慮」という言葉に話を戻します。

実はこの地球上に「父親のいない子」は存在しません。クローンでも創らないかぎり、どこかに父親はいる。それがお墓の中であっても、親が離婚したとしても、父親はいる。「それを意識すること」が魂の会話の始まり。それを思い出すことが、現代社会から失われつつある「魂のコミュニケーション」の復活につながります。だから、私はあえて言うのです。「父親参観日」を作りましょう、「父親が遠足へ一緒に行く日」を作りましょう。父親を園に引っぱり出しましょうと。

お盆に子が親の墓参りにきたら、親は死んでも子育てをしているのです。

そして、宇宙は私たち人間に自信をもって〇歳児を与えている。

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「父親のいない子に対する配慮」という言葉を口にすることによって、「実は、父親のいない子は一人もいない」という真実を忘れる。真実から目を逸らしているうちに、やがて父親とはどういうものかさえ思い出せなくなる。

私はお母さん方に話をする機会が多いのですが、「子どもが幼児のうちにご主人の心に祈りの火をともしてあげてください。子どもが小さいうちが鍵です」と言います。

「幼稚園や保育園を利用して、父親が出てくる行事をたくさん作ってもらってください。父親の心に親心が芽生えれば、それがあなたの幸せにつながります。ご主人が文句をいったら、『こういう園長に当たったんだから』とか、『仕方ないでしょ。ほかの子の親だってやってるんだし』とか言って、全部園長先生の責任にしてかまいません」と言うのです。

理屈ではない。父親が保育園や幼稚園に出かけて一日園児たちとゆっくり過ごすだけで、家族の一生が変わる。これをみんなですることによって、国の未来が変わる、人類の進化の仕方に影響を及ぼす、それくらい思っています。

 ちょっと不思議な話をします。

もし、父親の心に祈りの火をともしたかったら、一週間でいいのです。眠っている自分の子に、毎晩、歌わせるのです。

「カラスなぜなくの」でいい。父親に歌を唄わせるのです。一人で。

眠っている自分の子どもに一人で、という一見非論理的なコミュニケーションの場に音楽が加わることによって、父親の心に、ポッと祈りの火がともります

音楽にはそういう不思議な力が備わっています。

音楽の役割はそんなところにある。

本当は、奥さんに言われて、ご主人が実行してみようという気になるような夫婦関係ならばもう大丈夫なのですが、うちはどうかな? と思ったら、まずお母さんがやってみてください。眠っている子どもに一人で唄いかけるのです。お母さんが不思議なことをやっている姿を父親が眺める。その姿には、父親が忘れていた「何か」があるはず。

こうした風景を目にして、人は人らしくなってゆきます。人が互いに眺めあう、言葉を実際に交わしあうよりもっと大切なコミュニケーションの手法です。絆で守りあう姿です。

言葉に支配されている人間が、音楽という儀式に近いものによって魂を解放される、それが子守唄の原点です。

 

自己実現/Self-actualizationまたはSelf realization

 自己実現という言葉が、あまり良い影響を日本に与えていない、と以前から思っていて調べてみると、Self realizationという言葉の訳に使われているのを知ってびっくり。Self realizationは、素直に訳せば「自分に気づく」。少し体裁を整えるなら「自己発見」とか「自己体験」と訳した方が自然。川合隼雄さんの本にもユング派のSelf realizationを自己実現としている箇所があって、これはロスト・イン・トランスレーションではなくてミスリードではないか、と思いました。

 乳幼児との関わりで、人間は自分自身を発見し人類の一体感を体験すると言い続けてきた私にとって、Self realizationという英単語は突然非常に魅力的で、ひょっとしてユングも同じことを言っていたのかもしれない、と期待します。

 ユングについては何も知りませんが、もしSelf realizationが自己体験と訳されていたら全体の方向性がはっきりして来て、日本の土壌にもっと馴染んだのではないかと思います。これを自己実現と訳すことによって、本来他力の発想を、誰かが自力に変えた。意図的だったとしたら非常にまずい行動だったと思います。
 現在私が直面している社会問題をベースに考えれば、浅い次元で、幸福論が経済論に持って行かれたという感じ。
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(少し遡ったところにSelf-actualizationという言葉があって、これは自己実現に近いと思います。しかし、この言葉とSelf realizationとの間にはかなり決定的なギャップがあり混同してはいけない。)
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 私は、ずっと4才児完成説を言ってきて、人間は4才児くらいを眺め、その生き方を目指しているといいんだ、と親たちに伝えているわけですが、ユング派の最終的なカウンセラーは0才児なんだと思います。
 

長田先生のプライムニュースでの発言、孤軍奮闘、凄かった。

 素晴らしかった。番組に横浜市の待機児童解消を評価し、他でも広がればいいという意図があり仕方がないのですが、利他の人、長田先生の孤軍奮闘ぶりが保育や子育てを取り巻く現状を表し象徴的でした。わかる人にはわかる。様々な問題の中心点に視点の相違がある、と鮮明になったはず。保育界にもメッセージになったはず。

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 3才までの子どもの安心安定を願う人と、次の選挙向けに自分の功績を話し続ける人の意図の違い人生哲学の違いが「子育て」をテーマにハッキリ出ていました。反感もあるかもしれませんが、現場の思いは伝わったと思うのです。

 番組が終わってすぐ、都内のある区の前福祉部長から「素晴らしかった。市長との度量の違いが見事だった」と電話をいただきました。子どもを思う現場が長年疑問に思って来たこと、子ども優先になっていないということを保育の歴史を語りながら、的確に言ってくれました。しかも出演していた4人のうち、毎日子どもに関わっているのは長田先生だけです。それに気づく人は絶対にいるはずです。

 番組の司会者が後で長田先生に「先生は保育園をしているんですよね」と言ったらしい。経済で物を考える人たちには理解出来ないかもしれません。自分の仕事の存在を批判している部分があるからです。でも、保育園がこれから子ども優先に動かないともうこの国に未来はない、それほど重要な存在だから流れを変えたいのです。保育園は重要なんだ、この国の魂のインフラを支えているんだ、それを全国の園長主任たちに解ってもらいたいから長田先生は言い続けて来たし、一部の園長を除けば保育界で白い目で見られて来た。それでも先生は風車に立ち向かうように闘って来た。その背後には必ず何百人もの園児たちの願いがあっ

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た。そろそろ、保育界が気づき始めている。

 ありがたい番組でした。

 この国はいい運を持っているはずなんです。

 

 早期の母子分離の危うさは何千年にもわたって常識で、ユニセフの白書、20年前の厚労省の調査でも言われてきました。保育園を三つ経営している人が、安心感がないとご飯さえ食べない、とまで言えば、親はハッとするはず。最後に、人生5年くらいは子どもと過ごそうという視聴者からのメールが読まれ、番組の意図が自然に変わりました。

長田安司先生/プライムニュースに出演されます。本、三刷です。

お知らせいたします。

共励保育園の長田先生が今夜(五月十五日)八時BSフジプライムニュースに出演されます。子どもたちの願いが先生を通して表れ、先生の真意が伝わりますように。日本の保育者たちの長年にわたる思いが理解されますように。先生の「便利な保育園が奪う本当はもっと大切なもの」三刷だそうです。大丈夫かもしれない。

ハーバード大の教授/三つ子の魂百まで

 長田先生のまんさくブログhttp://osadayasuji.com/?p=385 は凄い。ぜひ多くの人に読んでいただきたい。園長や私がくり返し政治家や行政、親たちに訴えてきたことが、ハーバード大の教授によって「ハーバード・ビジネススクールを巣立つ君たちへ」と卒業生に語られる。これなら日本の政治家も学者も少しは耳を傾けるかもしれない。

『「ハーバード・ビジネススクールを巣立つ君たちへ」(How will you measure
your life.?
)と副題し、豊かな人生を送るために、ハーバード・ビジネススクールを卒業する若者へ贈る言葉としてまとめられたものです。』

その中に、『子どもたちが学校にあがってからの追跡調査でも、子どもたちが生後30ヶ月間に聞いた言葉の数と、成長してからの語彙と読解力の試験の成績とは、とても強い相関(0.78)があったとのこと』

 ここでハーバード大の教授が卒業生に、幸せを願って語りかける言葉を「子育ては専門家に任せておけばいいのよ」と言った元厚労大臣、それを支持した前総理大臣、「乳児は寝たきり」と言った元経済財政諮問会議の座長にぜひ読んでもらいたい。経済の仕組みは人間の生の営みの一部、そこに、幸福感や、育てあい育ちあいがないと経済の存在意義さえわからなくなる。アメリカという、市場原理や資本主義経済を代表する国の代表的大学の教授が、これから経済界でリーダーシップをとって働く可能性が大きいひとたちにこれを言う。それがメッセージとして日本に伝わった時、そこに人類の育てあいのようなものを感じる。

 ハーバード大の教授がHBSの卒業生に言うのを待つまでもなく、5才までの子どもの成長に時間をかけて関わることは、人生や人類の進化、人間性と呼ばれるものに影響する人類必修の体験でした。幼児という毎年これほど違う能力と資質を持った人たちと接して得るコミュニケーション能力は人智を越えています。祈りと想像力、思いやり、過去現在未来のつながりを実感する、そうしたこと全てがコミュニケーションの一部であり全体としての人類をかたちづくる。幼稚園や保育園が出来る前、数万年にわたって人類は5才までの子どもから生きる目的と意欲、そして幸福とは何か、どのように手に入れるかを学んできた。この教えを「成功したいなら守れ」というハーバード・ビジネス・スクールの教授の言葉は経済学の真理に近づいています。経済学は根源で幸福論と重なるべきなのです。

 5才までの子どもと過ごす時間は、闘いの気から人間を母性の気に戻す時間かもしれません。この時間が子どもにも親にも、社会にも大切なのだろうと思います。戦闘モードで人間は真の創造者になりえない。

 5才までの自分の子どもと過ごす、この「自分の」というところが社会の絆を育てる。子どもによって人間は利他で繋がる。ハーバード大の教授が卒業生に言う「子どもが幼い頃しっかり働いて、成長してから子育てに関わればいいと思っているかもしれないが、その時にはゲームは終わっている」という言葉と、子どもが学校に入ったから仕事を辞める、と言う母親たちの言葉の差異は、常識が崩れることによって起きているのでしょう。生態学的に人類をその都度守ってきた常識は、時にわらべうたや子守唄で伝承されます。阿部ヤエさんの本を読むとわかりますが、言葉掛けや知恵の伝承が音楽を伴ってされてきた。ここが人間の凄いところだと思います。

 子守唄を歌う経験が少なくなっています。現在2割が一度も結婚しない男たちは特にそう。義務教育の中で乳児相手にこのあたりの体験をさせると現代社会の欠陥を補完するにはいいはず。

 徒然草的に言えば、米国では今ではハーバード大まで言かないと教えてもらえないような大切なことを日本人は常識として知っていた。だから世界第三位の経済大国なのだと思う。それをハーバードまで行かなかった日本の学者たちが「欧米では」と言って崩そうとする傾向がある。真理は簡単で身近な幼児の中に見えるのに。モラル・秩序のない市場原理は喧嘩で適者存続のように見えますが、次世代を思い、子どもを育てようとすれば、必ず自分の身に負の連鎖は降り掛かってきます。喧嘩に勝ったとして果たして幸せになれるのか、ということだと思います。市場原理、規制緩和が日本でも言われていますが、DVや児童虐待の増え方を児相や児童養護施設で見ていると、あまりにもタイミングが悪過ぎる。

 何か根本的なところをまず建て直してからでないと、危ない気がします。

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インドへシスター・チャンドラを訪ねて(その3)

  グジャラート州のアーメダバードはマハトマ・ガンジーの生まれた地。JayaTVのニュース出演は移動中で見れなかったのですが、日本でネットで見た教え子が結構演奏してましたよ、とメールをくれました。もうすぐシスターたちも33時間かけて列車で着きます。明日は不可触民の人々一万人と大行進みたいです。

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 学校教育はITピープルを育てる。敏感な親は価値観の崩壊を恐れています。150年かけてアメリカで起こったこと、私が学校や福祉と家庭の共存は少なくとも欧米ではできなかった、だから日本は何とか別の道を、と言い続けてきたことが、ここ15年位で一気に起こっている感じです。しかも次元と速度がバラバラに。

 競う、の反対側にあるのが、祝う、かもしれない。陰陽の法則のように両方とも一人では出来ない。インドの風景の中には、ITというバーチャルリアリティーと共存して、ヒンズー教という強烈なバーチャルリアリティーが昔からあって落とし所を争っている。バーチャルが理性と重なると恐ろしいが、非論理性があれば大丈夫なのかもしれない。

 シャクティセンターで過ごした最後の日に、4年前来日した時のリーダーだったエスターが一時間半バスを乗り継いで私を訪ねてくれました。来日した時、インタビューに答えて、良くない夫に当たったら「良くするのよ」と、十九才で言い放った彼女、良い夫に当たったみたいで少し貫禄もついて元気そう。可愛い姪っ子を連れて訪ねてくれました。シャクティの卒業生は良い夫に当たる、とシスターが言っていました。

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 結婚二年で子どもが出来ないエスター、結構みな心配しています。結婚=子づくりという意識が村では強いのです。当たり前と言えば当たり前。だから日本では結婚しない男が増えるのでしょう。シェアハウスで充分?淋しくなければそれでいい。それは、自然の流れかもしれません。さとり世代、結構好きな言葉です。昔我々がニューエージと呼んでいたのはこの人たちのことかもしれません。

 「自分でで育てられなくても社会が子育てをすればいい、未婚の母を増やせば少子化は解決する。欧米では、」そこまで言い切る経済学者や社会学者がいるのです。自分で育てられないのなら生まない、この感覚の方が日本的で本来の人間性に合っていると思います。国の経済活性化のために人生を送っているわけではないし、崩壊家庭を増やしても本当に経済が良くなるとは思えない。

 誠実に乳幼児に向き合うことで、人間は育つ。幼児の愛は束縛のように見えるかも知れないが、あなた自身であれ、という愛。幼児に愛される。これが人が体験しうる一番純粋な愛かも知れない。駆け引きのないこの愛を多くの人間が体験することがひとつになるために必要。そして一人では祝えない。親の決断でその時間の意味が決まる。

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 マハトマ・ガンジーの初期のアシュラムが記念館になっていました。いくつか掲げられていたガンジーの言葉の中に、「愛の法則を、人間は幼児から学び、理解する」と書いてありました。ガンジーのサッティアグラハは、幼児が人間からいい人間性をひき出す法則が元になっているのでは、と薄々感づいてはいたのですが、やはりそうなのでした。

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 アンベドカルの生誕祭、気温40℃、一万人の行進にシャクティの太鼓が拠点で加わる。小学生はトラックの荷台から叫んでいる。「キリスト・回教徒の不可触民にもScheduled Cast Statusを」の旗が見えます。大学、教職、公務員などに法律で定められているダリット枠に入れろということ。出生届に入るカースト名で守る権利しかない。小学校入学時にまだ全員がカーストを教師に申告する。ーストによる不利益を、福祉や権利によって是正しようとする仕組みが、カーストを存続させている。では、どうすればいいのか。アンベドカルが憲法を書いて70年が経つ炎天下、それでもシャクティの娘たちは太鼓を叩いて胸を張って歩き続ける。私も、シスター・フェルシーに頼まれた写真を撮りながら必死についてゆく。

 行進したあと集会所で、アンベドカル派のリーダーにつかまる。怒りと我慢が限界に達し、イライラを一人の外国人にぶつけてくる。ダリットと回教徒でインドから分離すればいいんだ、でも纏まらないんだ自分たちが、と吐き捨てる目がギラギラしている。見かねて、友人の神父がうまく連れ出してくれる。

 砂漠の部族の子どもたちの教育をミッションにしているイエズス会の神父。ダリット出身というだけで家に招かれても、一人ガラスのコップでお茶を出される。家族や上位カーストの客は金属のコップ。周知の上で、そんなことが神父に行われる。Untouchabilityを憲法で否定して65年経っている。

 砂漠に水を撒くような、何も価値がない努力のように思えても、シスターは踊り手たちと歩き続ける。

 次の日の晩、三日月の下、グジャラート法科大学の巨大な憲法記念碑の前でシャクティが踊った。観客はほとんど居ないのに、記念碑に音を響かせて、踊った。この踊りは、永遠に記憶に残りそう。美しかった。私も一緒に演奏した。

 月と憲法とダリットの踊り。そこに美しさがあることが人類の救いで、どれが欠けても駄目なのだと感じた。

http://www.youtube.com/watch?v=pk87XBndaLY

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インドへシスター・チャンドラを訪ねて(その2)

 シャクティセンターのこの二年間は試煉の連続だったみたいです。私にはいつも「ちょっと問題があるけど」と書いてきただけですが。修道女は不思議な人たちで、苦労を語る時思わず涙ぐみながらも、2年前よりずっと元気そうです。神は乗越えられない試煉は与えない、という原点に立ち返るのでしょうか。信仰と試煉は両立する。ちょっと子育てみたいですね。

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 シャクティとシスターがグジャラート州まで招かれ、その生誕日に行進するアンベドカルは、マハトマ・ガンジー、ジャワハルラル・ネルーと共にインド建国の父と呼ばれ、不可触民の出身でありながら博士号を複数取り、差別撤廃運動を進め、その起点となる憲法草案に深く関わった人です。不可触民という定義のない仏教徒に亡くなる数ヶ月前に50万人と一緒に改宗した人。いまだに遅々として進まない差別撤廃運動と格差の状況を知ったら、天上で愕然とするかもしれません。

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 しかし今インドが抱える問題は、どこか質が違います。

 (チェンナイのホテルで日記代わりのツイッターを書きながらふと思い出しました。日本を出る時JayaTVのニュースに出演することも、アンベドカルの誕生日に私も一緒に追悼演奏もすることになることも知らなかったのです。人生は何が起こるかわからない。思い切って来て、よかった。)

 IT産業を中心に国全体の収入が増えるとともに格差が激しくなり、それに伴って犯罪が増えている。「携帯電話がいけないんだと思います」とシスターはつぶやくように言いました。親の知らないコミュニケーションツールを娘たちが持つことで、村でも少しずつ家族の信頼関係が壊れ始めている、というのです。ダリットの村という、選択肢のない信頼関係が生活の基盤だったコミュニティーにさえも、そこに世代を切り離すツールが入ってきている。これは広義解釈すると義務教育もそうなのですが、そこまでシスターには言えませんでした。教育の普及はシスターの人生をかけた目標です。でも以前、この義務教育の普及と家庭崩壊の関係については、アメリカの例を挙げてシスターとじっくり話し合ったことがあります。

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 祈りとか乳児との会話、子守唄もそうですが、沈黙を共有する種類のコミュニケーションが日常生活の中で希薄になり、人生が騒音主体に聴こえ始めると、人は攻撃的になるのかもしれない。自分自身を体験しにくくなる、喧噪に焼かれながら、そんなことを思いました。そこにインド特有の生きる力、宗教、カースト、貧困、因習などが加わり、同じ道でありながら、日本とは次元の違った、はるかに強烈に人間性を人間に問う、厳しい道を突き進んでいる感じなのです。それぞれの道なのに共通点もある。しかし、その変化の速度が異常なのです。

 政府は子どもを学校へ行かせる為、児童を雇った工場主を厳しく罰している。それでもダリットの少女たちには学校自体が通学路も含めてまだ安全ではない、とシスター・フェルシーが言いました。ダリットの少女が犠牲になっても警察は見て見ぬ振りをすることがある。しかも、小学一年生になる時にはダリットだということを学校に申告しなければならない。そして、慢性的は汚職と賄賂が経済発展によって増々ひどくなっている。

 バスの中でシスターに「最近は何を話してるの」と聴かれ、「ずっと同じです、増々赤ん坊を預けたがる人が増えていて」と答える。すると目を見開いて「なぜ?日本は豊かな国でしょう?」。説明しようと思ったけど、インドの風景の中では説明にならないのだ。シスターは頷いて「頑張りなさい」と言った。

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 インドには、説明のつかないことがもっと一杯あるのだ。子育てという進化の土台はまだあるけれど、人間が創り出した様々な奇妙な仕組みと、市場原理で先進国から侵入してくるテクノロジーと矛盾する幸福観のおかげで、日本より何がなんだかわからなくなっている。

 シスターの「頑張りなさい」は、私も頑張る、という意味で信仰から言ってくれているのです。背景にGod’s Will(神の意思)がある。

 

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 インドには昔からベジタリアンとノンベジタリアンという人間の分け方があります。一番大雑把なカースト制かもしれない。60歳以上のベジの多くは社会の急激な変化を人生に重ね合わせ、誇りの中にノンベジに対する蔑みと頑なな鎧を身につけ、ほぼ下克上には耐えられない。ベジはブラフミンと重なる部分があり、彼らの視点から言えば、対極にいるノンベジがダリットです。貧富の差が逆転しているような都市部でも、ダリット出身者の立派なアパートから魚を焼く煙が入ってきたというだけで、怒鳴り込んでくるブラフミンがいるのです。

 最近のインドの混迷はもっと複雑。回教とヒンズー教に代表される宗教対立に加え、カーストがあり、ベジとノンベジ、EducatedNon-Educated、貧富格差がありIT(アイ・ティー)とNon-ITがある。

 このITピープル(インターネットピープル)が結構凄いのです。両親よりも稼ぎが多く、親に知らせず勝手に入籍し、しばらくしてさっさと離婚するようなのが3割くらい居るという。結婚のほとんどが親に決められた相手との見合い結婚だったインドでは考えられないことです。カースト破壊の糸口かもしれない。

 カースト破壊の糸口?それを飛び越えて一気に家庭崩壊まで行ってしまうというのです。ITピープルは親の世話をしない、女性が夜飲み歩く、という噂です。(忘れないで下さい。回教徒が2割いる国です。)保守的なベジもまだ生きている。Non-Eduも居て、村には米国や日本の存在を知らない人たちがいるのです。そこで暴行事件が起こっている。生き方のぶつかり合いが凄いのです。

 インドの回教徒は独立の過程でパキスタンとバングラデシュに分離されたといえ、実は日本の人口より多い。街では若い女性が月光仮面のように顔をすっぽり覆い隠しスクーターで二人乗りしている。顔を絶対に見せない若い学生を大学でも見る。親の影響力が無いとあり得ないこと。その娘たちがITピープルとキャンパスで混在する。そしていまだにカースト越えの結婚が原因で、村が一つ焼き払われたりするのです。

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 タミルナード州で最近起こった村の焼き討ち事件は、上位カーストの娘がダリットの青年と恋愛し結婚。父親が帰るよう村に説得に行ったが娘がそれを断り、父親が自殺。父親の住む村の村人が怒り、青年の村の家を300軒焼き払ったというのです。なんとも過酷な死生観と根深い差別意識、家族意識です。村を焼き払う、という行為も驚きですが、父親が娘のカーストを越えた結婚で自殺をする、というところに絆の深さと、その絆をここまで支えて来た価値観や情念の深さを感じます。人間はこういう方法で生きて来たのです。

 シャクティの娘も、私の作ったドキュメンタリーに出て来るスダが恋愛し自ら逝きました。(以前ブログに書きました。)続く。

インドへシスター・チャンドラを訪ねて(その1)

インドへシスター・チャンドラを訪ねて(その1)

 

 ぎりぎりまで行けるかわからなかった、でも行ってよかった不思議な旅でした。ビザの発給が一日遅れたら中止だった。自分で、さっさと決断していれば何の問題もなかったのですが、決断が遅くなったな、と実感します。

 シスターに会いに行くには往復旅行日が三日半かかります。日程を十日とって、一緒に居れるのは一週間。飛行機を乗り継いで空港での待ち時間、チェンナイでホテルを探して……、と考えると躊躇してしまいます。以前は二日でとれたのに、四日から十二日かかると言われたビザが四日で降りた時、行こうと決め航空券を探しました。(ある不思議な人物から、シスターとは年に一度くらいは会っておいたほうがいい、と言われたことも気になっていました。)デリー経由の切符がみつかりました。

 シスターがその間グジャラートに行くと聴いていたので、帰りはデリー経由でもいいかもしれない、と思ったのです。そうすれば帰りにデリーで一泊してもう何年も会っていない画家のラマチャンドランにも会えるかもしれない。

 成田〜バンコク〜デリー〜チェンナイ〜マドライ。途中デリーで一泊し、新しくなった田舎のマドライ空港で炎天下、シスターとシスター・フェルシーが向こうから歩いてくるのを見たときは、暑さの中で、頬が両手で挟まれたように、ホッとしました。

 二年ぶりです。前回来ていた時に東北大地震がありました。(二年前のブログに書きました。)

 シャクティの踊り手たちは、順番に結婚してすっかり交替し、知っているのはカビタだけになっていました。それでも村の娘たちは同じように温かく、素直で、輝く瞳で見つめてくれます。シャクティに来ている娘たちは、様々な理由で学校をドロップアウトした子たちです。それでも勉強を続けたいという子たちは、村でも選ばれた子たちなのかもしれません。その子たちが、踊ることで、村では出来ない体験をし、体の芯のところに自信を植え付けられるのです。

(今回の旅の動画を始まりからユーチューブに載せました。編集がされていない、インドでアップしただけの映像ですが臨場感はあると思います。http://www.youtube.com/user/LucyKM2011?feature=watch。)

 

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 シャクティのグジャラートへの旅は三日後に迫っていました。私はてっきり飛行機で飛ぶのかと思っていたら、ディンディガルからチェンナイまでバスで7時間、そのあと列車で33時間non/ACというのです。インド縦断の長旅、興味はありましたが、さすがに体力的に無理かもしれないと思いました。私だけエアコンつきのACコーチに乗ったとしても、道中迷惑をかけることになったら困る。シスターも、アーメダバードの主催者に連絡をしておきますから、あなたは飛行機で行きなさい、と言ってくれました。

 グジャラートではスピーチをしますか?とシスターに聴いたら、言葉が通じませんよ。時々忘れますが、インドは大雑把に分けても十幾つの言語が使われ互いに通じません。宗教と伝統のタガが外れた時にどうなるのか、そこに人類の道筋が現れるのだろうと思います。

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 実は、そのタガが外れ始めたインドを感じた旅でした。日本の問題がマイルドに思える。

 貧しい人たちがますます貧しくなっています、犯罪も増えました、とシスターが教えてくれました。ディンディガルでは、一時間ごとに一時間の停電がもう一年も続いていました。ホテルや金持ちは発電機に切り替える仕組みを備え、中流は、バッテリーに切り替え、いくつかの明かりを確保していました。しかし、貧しい人たちは一時間おきにロウソクやカンテラの灯で暮らしていました。つい最近までそうしていたので苦にはならないのでしょう。

 貧しさと犯罪が増える中、大都市の目抜き通りを除いて、ゴミの増え方に驚きました。一番始めにインドに行った38年前、お茶は素焼きの土器で飲み、外へポイと捨てればカシャンと割れて、ゴミは土に還った。村の家々には伝統的にトイレも無かった。伝統的な自然との共存が崩れ、ゴミはゴミ箱へという習慣が教えられる前に土に還らないプラスチック容器やビニール袋が市場原理とテクノロジーで浸透し、インドはまるでゴミ捨て場のようになりつつあるのです。テクノロジーは使いこなす教育や生活習慣の転換を伴わないと人間社会から急速に美しさを奪う。先進国における教育の普及と家庭崩壊の関係に似ています。それが、インドでは強烈で、先進国の速度に追いつけない人々が、世代交代で美しさという拠り所をなくしてゆくのです。

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 チェンナイまで、夜7時間のバス行軍は思ったより負担でした。昔、カルカッタでドゥルガプジャという祭りに噛まれて寝込んだ感じ。頭も体もフラフラになりました。シスターと踊り手たちはそのまま33時間の列車の旅に出て、私は次の日に飛ぶことにしました。TV局のプロデューサーをしている友人のソウバさんが、じゃあ夕方のニュースに出ろと急遽準備し出演しました。(動画をユーチューブに載せました)

 シスターと踊り手たちはアーメダバードへ33時間の列車の中。気が咎めましたが、収録されたJayaTVのワールドニュースで、インドで頻発している暴行事件、貧富の格差、貧しさが絆を失って荒れていること、インドだけではない懸念を、シスターを意識しながら話しました。つづく。(放送もユーチューブにアップしました。)


写真はシャクティセンターで。上から夜景、シャクティバス、台所。

「農場の少年」「太陽の戦士」、笑わない一歳児

 17ヶ条でも多いかもしれない。あとは幼児を見つめ自分と宇宙に聴く。法は国のためにあり、国は人間性とか親心が日常的に育つことを前提に存在する。そこが崩れると法が人間を支配するようになる。人類はけっこう複雑なところまで来てしまった。だからこそ、尋ねる相手を間違ってはいけない。相手が喋れなくても。
 
 学校に「子育て的な機能」を期待するなら、第三者機関は非情に筋が悪い。当事者同士の信頼関係を修復できるとは思わない。法を介入させて白黒つけたければ、そうすればいい。第三者機関は中身が曖昧で、曖昧な者達を法のように使うと逆に不信感が増し、あまり子どもたちへの手本にはならない。
 

 明るくて、元気が良くて、何でもシャキシャキ出来る保育士ばっかりだったら、子どもはくたびれてしまう。一日5時間の幼稚園と違い保育園は毎日が長丁場。おとなしくて優しい先生もいないと子どもはホッとできない。主任がしっかりものだと園長がボケていたり、その逆でもいい。保育園は村社会、部族的感じがいい。

 

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 0才児と、言葉の通じない一年間をゆっくりと過ごして、人間は文字のなかった時代に熟成された自らの遺伝子を確かめる。沈黙の中で暮らしていた時の絆と信頼の強さを体験する。一歳児二歳児と一緒に、音楽を創り出した時代の宇宙との交流を思い出す。理解は出来ない。理解しようとすることが大切、だと。

 

 

 政治家に望みは何ですか?と聴かれました。(大望)この国が欧米とは違った選択肢となって人類に貢献する。(中望)幼児の存在の意味と意義にみんなが気づく。(望)それに気づくための仕組みを作る。一日保育士体験の普及。(切望)子どもに良くない保育の仕組みを止める。一日保育士体験の完全普及が良くない保育を淘汰するはず。

 

 政治家への追伸。待機児童は、出来るなら自分で育てたいという母親たちの願いに沿って解決して行けば、いなくなります。意思と主旨が正しければ、人間は本来の自分に気づき始めます。それを体験しようとします。待機児童という言葉は、通常、人間が自分自身の存在理由から離れようとする宣言になる。繰り返していると危ない

 

 詩人は言う。私たちは幼児によって「救われている」。そうやって人間性は危機を乗越え回り続けてきた。絶対的弱者が運動の始まりに存在して、動機、意思を生み出す。私はこの詩を講演で読み、配っています。
『愛し続けていること』 詩/小野省子

詩集、講演で配っています。母親の感性、時につらいし、淋しい、でもそこに人間社会に絶対に必要な次元の理解力が育つ瞬間がありますね。

 

 ローラ・インガルス・ワイルダーの「農場の少年」という児童文学がある。子育てと労働がほぼ一体で、学校教育がそこに入ってくることに対する人類の抵抗が見事に書いてある。150年前の人間たちが予見したのは、子育ての道が大きく変わる危うさと淋しさかもしれない。こうした時空を超えての警告が人間たちの凄さだと思う。

 

 ローズマリー・サトクリフ著の「太陽の戦士」という本がある。沈黙の関係の確かさが主人公と犬に現れる。青銅の時代から鉄の時代に移る時に人間が失ったもの、その向こうに今も存在する石の時代の哲学が児童文学の形で書かれている。シャーマニズムと祈りの存在意義を忘れると迷い始める、とある。とても予言的な本です。

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 以前、競争原理や起業家精神を授業で教えようとする校長に出会った。ビジネス界から転身した校長は、起業家の9割が失敗し、その失敗の上に競争社会が成り立ち、家族という信頼の基盤が揺らいでいる社会で失敗がいかに辛く、希薄な人間関係を崩壊させるかは教えていなかった。経済論は忘れ、教師は子どもの幸せを願い、真実を語るべきだと思う。心を込めて。

 

 保育ママ、スマート保育、起業家:「絆が生まれること」が活動の目標で「子育て=助け合い、信頼関係が生まれる道」という理解があれば大丈夫なはず。この人の子は預からない、という決断が出来れば社会に自浄作用が働く。誰の子でも、というサービス産業的動機、チャリティー精神は子どもに危ない。

 

 小規模保育:「自分たちで」という動機はいい。ビジネスを動機にすると賠償責任という壁に必ずぶつかる。社会福祉法人を減らし国が24条にまで手をかけようとする背後に、賠償責任から外れようとする意図がある気がしてならない。日本人は本当の訴訟社会、市場原理を知らない。だからまだ安全なのだが。

 

 保育士たちの間で、理不尽な親から自分を守るため、噛み付き痕をお迎えまでにどうやって消すか、技術が伝授される。隠蔽しないと仕事をやっていけない。1歳から始まっているのだから、教育委員会の隠蔽体質を批判するなど愚の骨頂。噛み付き痕は風呂に入れると戻ってくる。噛みつく子も毎朝戻ってくる。

 

 一歳児担当の保育士から隠蔽体質は始まる。もう、噛み付きくらいのことなら仕方ないことだと思う。でも、もし学校教育を本気で立て直したいなら、一歳児を囲む信頼関係から育て直さないと無理。三歳未満児の預かり方が人類の将来を決定する。家庭保育室も保育ママさんも、それを進める行政や政治家も、そこを理解しているのだろうか。

 

 創立30年の園で講演。一日保育士体験を三年前からやっている理事長、最近の施策に憤り、しばし二人で炎上。春もう一つ園を設立。保育士集まりましたか?と尋ねると「問題ありませんでした。養成校からも優秀な学生がいるのでお願いしますと言われました」いい園にはまだ良い保育士が集まる。

 

 親は死んでも子どもの意識の中で、子育てを続ける。その次元の交流だから、人類は子育てを簡単に放棄してはいけない。ディズニーランドでダンボに乗る順番を待ちながら、ジッと親の手を握り続ける子どもたち。その時の感触で生きる力がついてゆく。その感触にしがみついて親は一生、生きていける。

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 笑わない一歳児。園長が母親と面接するが母親も笑わない。父親を呼び出すと不機嫌。祖父母を呼び出した時点で誰もこの小さな命に感謝していないのでは、と気づく。保育士に号令「くすぐってもいいからこの子を笑わせろ!一日中!」子どもが笑う。母親が少し笑う。やがて一家が命のまわりで笑い出す。これが保育。

 

 政府の方針に、この、一家を子どもの笑顔で変える園長は憤る。「保育士がいないのに、幼保一体化も家庭保育室も保育ママも、保育は託児だ、誰でもいいから預かっていればいいんだよ、と私は横っ面を叩かれてる気持ちです。保育園の前に待機して、入りたい入りたいと言ってる未満児なんかいやしないんだ」

 

 保育新システムの大日向教授:「少子化が急速に進み、生産年齢が減少し社会保障の維持の上からも危機感が持たれています」。だから幼保一体化などでたくさん預かり、税収を増やさないと、という論理なのだが、日本では、結婚しない男が現在2割、十年後3割という。一方貧しい国々で人口増加が続く。少子化は性的役割分担の希薄さが原因ではないのか。男たちが生きる力を失う過程と考えた方が当たっていると思う。 

 

 若い保育士が、母親が風呂にも入れない子の担当になり、私に泣きながら聴く。「5歳までは私がやります。でも卒園したらどうなるんでしょう」。私が「卒園してからも縁を切らないで下さい」と言うと、園長がハッと明るい顔になる。「通勤途中で寄ればいいんだ」仕事から解放された真の保育士の顔。感謝です。

 

 一年目の保育士にかなう保育士はいません、と言いきった園長がいた。若手の保育士は保育園にとって大切な役割を持つ。この人たちが簡単に辞めて行く現象が起こっています。若いひとたち、感性があっても忍耐力がない。教わるということが、技術の伝達になってしまって、魂の伝承になっていない。社会全体で起こっていることを反影しているのだと思います。保育というジャンルが変わらざるを得ない。でも、変わっていいのでしょうか。

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 子育ては思うようにいかない。時々どうして良いか解らなくなるから育てる側に絆が生まれる。「子育ての専門家?」胡散臭い。強いて言えば、回りでオロオロしている人たちが専門家で、第一に親と祖父母。オロオロすればするほど、必ず子どもたちは自分専用の専門家たちを上手に育てる。猶予は五十年くらいあるし。

 

 2・3才児には功徳を積ませるのがいい。散歩していて、向こうからお年寄りが来たら「こんにちは!」と大きな声で言うんだよ、と仕込んでおく。日光猿軍団みたいなもの。芸をさせると笑顔が生れ、お年寄りの一日が変わる。これほど簡単に功徳を積める時期はない。人生、結構運だから早目に功徳を積んでおくことは大切だと思う。

 

 十数年前、政府が保育制度拡充を目指し「安心して子どもが産める環境づくり」と言った。園長たちは「気楽に子どもが産める環境づくり」になるんだ、とピンと来た。安心して子どもを他人に預けるなんて、そもそも親ではない。気楽に預けることなら出来る。無意識に責任転嫁と言いわけの道を進む。

 

 幼い我が子を他人に預けて安心できる人間は不自然です。(本当はそんな社会があれば人類は完成。)一日8時間/年260日となると尋常ではない。しかし、人間は慣れる。みんながやっているから私も、という人が増えるといい保育士は減ってゆく。待機児童という言葉に追われ、保育の基準が甘くなり、保育士による虐待と事故は増える。