依存されること、甘えられることで育ってゆく絆

人間性を失った経済優先主義が国主導で広がっている感じがします。

「母親は赤ちゃんのそばにいたいし、赤ちゃんも母親のそばにいたい。節約して欲しいものを我慢しても子供を手元において愛情一杯の子育てをしたい、そんな当たり前の事が経済的に男性に依存する甘えた女という批判の対象になる風潮がおかしい。」

というツイートがありました。

その通りだと思います。一歩進めて、社会が、依存すること、甘えることを悪いことのように受け止め始めることの「怖さ」を最近感じるのです。

「自立」という資本主義社会を回してゆくための不自然な幸福論がその根元にあるのだと思うのですが、これでは幼児の存在を否定することにつながりかねない。依存されること、甘えられることで育ってゆく何かがあって、それが人類の存続にとって結構大切な鍵を握っていたのだと、みなで一緒に乳幼児を眺めながら、思い出さなければならない時なのだと思うのです。

 

仕事をするということには社会的責任がある。だから、「個人的な」子育てより優先されなければならない、というような言葉を聞くこともあります。これは本末転倒です。形の上ではそうであったとしても、人間が本気でこんなことを思い始めたら「社会」が成り立ちません。

幼児期の子ども(子育て)を最優先することが本当の意味で社会的責任なのではないか、という意識が社会全体に欠けてきている。とくに、社会人という言葉に現れるように、「社会」という定義が、それすなわち「経済競争」のように捉えられるようになって、年月が流れ、「言葉」に支配され始めている。

義務教育が語られる時に頻繁に登場する「自立」という言葉。それを目指すことが目的になり、そうすることが本当に幸福なのか、という議論も検証もない。この国の将来を考えた時、「自立」という言葉の呪縛から離れ、本来「社会」というものは、自立と反対の方向に位置するもの、助け合いなのだという記憶が戻ってくるといいのですが。

社会的責任は支え合いの幸せに基づいていて、一人では生きられないことを宣言すること。すべての人間が生まれて数年の間、幼児期にその宣言をしてきたということ。つまり、「社会的責任」は家族という単位から始まっていることを思い出し、それが施策に反映されるようになるといいのです。

親たちの意識が子ども優先の方向に戻らない限り、国の今の経済優先で人間性を失ってゆく方向性は変わらない。アメリカ大統領選とその後の価値観の混乱を見ればわかる通り、民主主義の危険性は経済優先で人間性を失ってゆくこと。しかし、人間性を失った経済優先主義では、多数が生きる力を失い始め、いずれ経済そのものも破綻し始める。政府やマスコミが、そこに気づいて、思考や報道の経済優先主義からの方向転換を計ってほしい。それが可能な唯一の先進国が日本という国だと思うし、この国の個性だったはずです。

 

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都議選が近づき、選挙絡みの講演依頼があります。発言できるチャンス、候補者に聴かせるチャンスですから一生懸命やります。でも同時に、受かってしまったらそれっきりの場合が多い。選挙の時だけ真剣に耳を傾ける、みたいな人が候補者になっていることが最近とくに増えている。志をもった政治家がいない。

全国で、話しかけない、抱っこしない未満児保育がじわじわと密室で広がっています。これが日本という国を土台から蝕んでいる。保育士に都合のいい子、事故が起こりにくい子、親が知らないうちに、後天的な発達障害が進んでいる。

そして、345歳児で簡単に薬物が処方されるようになってきている。

「もうすぐ学校ですから、そろそろお薬を飲み始めましょう」みたいな言葉が普通に聞かれるようになっています。政府の言う保育の「受け皿」とは、実質的に質の悪い保育と子育てにおける向精神薬の普及に進むための乗り物のような気がします。予算的にも人材的にも、義務教育には致命的な感じがして恐ろしい。この広がりの影響は対処しようがないということに早く気づいて欲しい。

外国人を雇っている東京都の認可保育園で、園長が保育士に「0歳児は言葉がわからないから外人でいいのよ」と言ったのを思い出します。それが10年前です。人情味があって幼児にいい外国人は確かにいます。でも園長がこれを言うことは、この国の保育に対する認識が「子育て」から外れ始めているということ。雇用労働施策になっている、ということなのです。

引きこもり・愛着障害・幼い中学生

2017年6月1日

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内閣府の調査で若者の引きこもりが54万人。3割超が7年以上で、長期化、そして高齢化しているという。

注目すべきは「引きこもりの状態になった年齢」です。

20〜24歳が増えトップで34.7%。次が16〜19歳の30.6%。引きこもりというと小学生や中学生の時に始まる問題のように思いがちですが、意外とそうではないのです。三歳未満児保育を国が経済、雇用のために数値目標を掲げて奨励し、幼児期に親子関係における安心の土台をしっかり作れないままに、保幼小連携などといって小一の壁を低くしようとしたり、「保育は成長産業」として子育てをサービス産業化しようとすると、20〜24歳で「世間の壁」「社会の壁」に跳ね返される、そして、ここで跳ね返されると引きこもりは長期化する、ということです。

「子育ての社会化」、現在の混乱状況にあってはもはや意味不明ともいえる言葉ですが、子育ての外注化と言った方がいいかもしれない、これが進んで、根本的な人生における目的意識、幸福論がゆらいでいる。幸福になるには自分自身の成り立ちを知らなければならないのに、それが伝えられていない。わからなくなっている。以前書いた文章ですが一例を挙げます。

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 高校生の保育士体験でのことです。ズボンを腰まで下げて悪ぶっていた高校生が、三才児に「ズボンこうやってはくん大よ」と説明されて慌ててズボンを上げるのです。校長先生や教頭先生が三年注意しても上がらなかったズボンが、三才児が指摘するとすぐに上がる。これは一体どう言うことなのか。三才児の存在意義は、ひょっとすると高等教育よりもはるかに人類にとって大切なものなのです。
 三才児は無心に。無意識に、人間たちを「いい人間にする」という自分の存在意義を表現し、高校生の成り立ちを指摘する。
 高校生は無意識の中で、三才児がいるから自分がいい人になれる、三才児がいるから、自分はすでにいい人なのだ、ということを知っている。遺伝子のレベルで知っている。知っていることを憶い出すために、高校生には三才児が絶対に必要、ということなのです。
  遺伝子に組込まれているもの、年月をかけ、進化の過程で培われたものを、社会という括りの中で(たとえば常識や文化といういい方で表してもいいのですが)身近に感じさせてくれるのが乳幼児とのやりとりだったのです。幼児と丁寧に暮らし、その時「本当は誰と、何と、誰が」会話をしているのか、無意識の中で気づかないと、自分自身の成り立ちがわからなくなる。人生という限られた時間の中で、自分自身を充分に体験できなくなる。三歳未満児を生産性のない人たち、と括って、単に育てばいいんだという浅い考えで政府が家族たちから引き離すと、双方向に不安がどんどん広がっていきます。

そして、もう一つ「引きこもり」について・・・。

欧米に比べ日本には奇跡的に家族という概念が残っていて、引きこもらせてくれる環境がある。江戸時代からの次男、三男の部屋住みなどの伝統文化があったことも一因でしょうか。役に立たないように見える人にもその価値があると考える。その存在が成り立つようにする。

3歳未満児と真面目に付き合っているとそういう価値観が身につくのだと思います。こういう人たちがいないと、社会というパズルが組めなくなる。以前書いた文章から引用します。

 (障害児、障害者、認知症のお年寄り、この人たちはどんな時代にも社会の一員として居た。最近名前がついただけで、以前は名前をつけて分けなくてもいいくらい、普通に居ました。人間社会はいつも様々な命の組み合わせで成り立ってきたのです。与太郎さんのような古典落語の重要な脇役は、いまの分け方から言えば障害者かもしれません。日本の昔話や民話の主人公に意外と多いのが「怠け者」です。三年寝たろう,眠りむしじゃらあ、わらしべ長者。一見負担になったり、一人ではなかなか生きられないひとたちと、パズルのように組み合わさって生きてきた。様々な次元で、お互いに育てあうのが人間社会だったのです。
 そのパズルの組み方を学ぶために、0歳1歳2歳児との、ゆっくりと時間をかけた付き合いが人間が支え合うために必要だったのではないか、と思うのです。この、絶対に一人では生きていけない人たち、すべての人間が一度は身をもって体験するその人たちを理解すること、または理解しようとすること、が一つ一つの命の存在意義と存在理由を人間たちに教えてきたのだと思います。)

いまの、日本特有のと言ってもいい引きこもりの状況を見ていると、経済的戦力にはなりませんが、とりあえず犯罪の抑止にはなっていると思います。「引きこもり」を研究している学者が、引きこもっている人の多くが親への殺意を感じたことがある、と発表していました。それが最近限界に来ている。家族の定義が「待機児童をなくす」といった言葉によって変化し、支え合う絆が薄れ、引きこもらせてくれる人たちが高齢化しているのです。

そして、中学生が非常に幼い。この現象は自然界からの警告のようにも受け取れます。遺伝子からの警告かもしれない。必死に果たせなかって「役割」を果たそうとしているのではないか。保育の質の問題もありますが、親の意識の変化がより大きな原因でしょう。保育のサービス産業化と福祉が、親の子育てに対する意識をこれからさらに変えてゆく気がしてなりません。

子どもたちが、親を育てる、弱者が強者を育てるという、人間社会にモラルや秩序を生み出す法則をもう一度思い出さないと、日本という国がその個性として持っていた「子どもに優しい社会」が崩れてゆく。

立ち止まって、心静かに考える時です。

 

(数年前、猪瀬知事が「スマート保育」というのを始めた時のブログがありました。https://kazu-matsui.jp/diary2/?p=211:いまだに手を変え品を変え、待機児童対策は保育士や幼児の気持ちを考えずに数合わせで進められている。この程度の意識からまだ抜け出ていないのです。)

スマート保育、プロジェクト2000、3歳児神話

小一プロブレム・仕組みで子育ては出来ない

「小一プロブレム・保育や学校という『仕組み』で子育ては出来ない」

「保育士にとって都合のいい幼児にするために、0、1歳児には話しかけない、抱っこしない保育が少しずつ増えていて、この時期に話しかけてもらえないと、壁に向かってじーっとしているような幼児が数ヶ月で出来てしまう。それを親たちが知らない」と以前、現在進行形の現状について書きました。

園長設置者の意識の問題もあります。こんなひどいこと園長・主任が許さなければできるはずがないのです。私には、「話しかけない保育」は、人間の未来に対するもっともたちの悪い犯罪行為のように思えます。こうした子どもの将来を考えなくなっている現象に拍車をかけているのは、政府の目指す保育の市場原理化や、雇用確保のために行われている「親たちの意識改革」です。

0、1歳児を預けることに後ろめたさを感じる必要はない。それは当然の権利なのだという考え方を広げ、一方で規制緩和によって子育ての受け皿の質を落としてゆく。無理に無理を重ね、保育界全体が無感覚になる方向へ追い込まれているのです。その流れに、実は親たちが加わっていることについて書きます。

この「保育士に都合のいい子」が、最近、親にとっても都合のいい子になってきている。そこが一番恐ろしいのです。問題が仕組みの問題から、人間性の領域に入ってきています。

以前、既存の園の運営を引き受け、子どもが活き活きするように保育内容を園長が変えたら、親たちから「子どもが、言うことを聞かなくなった」とクレームがきて、その子たちが卒園するまでは保育内容を変えないように行政指導された園長の話をブログに書きました。数年前の話です。この辺りにすでに出発点がありました。保育サービスという言葉を厚労省が使い始めたころから、親たちも、保育園に、自分にとって都合のいい子に育てるよう要求するようになってきた。そして数年後、民主党政権の厚労大臣が、「子育ては、専門家に任せとけばいいのよ」と私に言い放ったのです。

一緒に子どもを育てているはずの親たちと保育者の心が一つにならない。「サービス」という言葉を保育園の定款に政府が無理矢理入れられた頃から、そんな景色が広がり始めたのです。

待つ園長先生と待たない園長先生の話

 

優先順位

政府の「子ども・子育て支援新制度」が、大人の都合(経済優先)で組まれているのと似ているのですが、社会全体の子育てにおける常識、優先順位が、ここ10年くらいの間に急激に変わってきています。

障害児支援のデイでも似たようなことが起こっています。これも以前ブログに書きました。https://kazu-matsui.jp/diary2/?p=269。無資格の指導員でいい「デイ」で訓練のような「しつけ」を受けた子どもが保育園に戻って暴れる。どんな訓練をしているのか園側が問い合わせても教えない。その上、親に「『専門家』(デイの指導員のこと?)のところではおとなしく出来ている、だから素人(保育園)は駄目なのよ」と言われ本当に頭に来た、と熊本である園長先生が話してくれました。競争で成り立つ市場原理が、一貫したルールが確立されないまま、「子育て」における対立関係をあちこちで生んでいるのです。

 

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親子という運命にも似た関係、選択肢がほとんどない状況で長い間行われていた「育てあい」「育ちあい」(時に、しつけと呼ばれる育てあい)が、仕組みの手に移って行った時に、仕組みを維持する人たちの質、心構え、絆が、人手不足の陰で一気に崩れてゆく。

こんなツイートが保育士からありました。

『私も1年目の時、2年目の先輩と理事長に「なんで人が育たないのにどんどん新園建てるんですか?」って聞いたなぁ。そしてその答えは、「それでもやるって決めたから」的なこと言われて、まったく納得いかなかった。1ミリも。』

親たちよりも長く子どもたちと付き合い、「子どもを優先して考えている」保育士の気持ちが、先輩保育士や園長の「やるって決めたから」という言葉に押し切られてしまう。その向こうにあるのが、無知な学者にそそのかされた「保育は成長産業」「市場原理に任せれば質が保てる」という現場を知らない安易な閣議決定です。

そんな優先順位の狂った環境で育った(育たなかった)親子関係が、小一プロブレムを一気に進めている。こんな記事がありました。

「小1プロブレム 県内急増」

http://www.yomiuri.co.jp/local/tottori/news/20170521-OYTNT50020.html 保育新制度が押し進める学級崩壊がいよいよ始まっている。数年後もっとひどいことになる。このままでは教師の精神的健康がもたない。

この記事にある「小一プロブレム」に対するマスコミや学者の分析と対処法が、実は、ますます小一プロブレムを増やしていくのです。保幼小連携と言われますが、それは小学校に入る時の壁を低くしようとすることでしかない。保育園や幼稚園を学校という仕組みに近づけても、本当の解決にはならない。5歳まで特定の人たちに可愛がられること、特定の人たちを信じることで子どもは安心し、安定する。それが何千年もやってきた子育ての基本です。そうすることによって、人間は人生に必要な価値観や絆の土台を作る。その土台さえあれば、子どもたちは壁を乗り越えられる。むしろ、その壁が、子どもを育てる。その壁が、親を育てる。親子の絆を強くする。

壁をなだらかにする、そんなごまかしでは、いずれ、高校や大学を卒業した時にもっと大きな壁に跳ね返されるだけです。それが人生の致命傷になりかねない。それがひきこもりや暴力を生んでいるのでしょう。人間の成長、そして絆が存在するために、常に壁は必要です。

百歩譲って、この記事にあるように、学校教育を成り立たせるために、本気で幼稚園や保育園を学校という仕組みに近づけようとするなら、つまりしつけをちゃんとしろということなのですが、小規模保育や家庭的保育事業の規制緩和は何なんだ。3歳未満児を40万人預かるために、資格者は半数でいいなどと安易な規制緩和をしておきながら、しつけもちゃんとしろ、というのは無理難題どころか本末転倒、施策としては意味不明です。

未満児保育は脳の発達と直接関わる大切な役割です。それを知っている園長が、いい加減な保育をされた3歳児は預かりなくないと思っても不思議はない。自分の園で未満児保育した子どもたちでなければ預かれません、とはっきり言う園長もいます。「子育て」を真剣に考えれば、当然でしょう。

未満児の時に親をしっかり指導できなければ保育は成り立ちませんから、親にサービスだけしているような園から来た3歳児は引き受けません、と言う園長もすでにいます。

園長先生たちは、この慢性的な保育者不足という困難な時期に、必死に保育士を守らなければならない。保育は、保育者の元気と楽しさがその中心になければ保育ではない。それが、幼児という「幸せを体現する人たち」と付き合う責任でもあるからです。

幼児が5歳くらいまで、特定の大人たちに可愛いがられていれば、学校教育は成り立っていたのです。幼児は、他人に無理やり「学校教育がなりたつために」しつけられるものではありません。

記事はこう締めくくられています。

『鳥取大地域学部の塩野谷斉教授(幼児教育学)は、「小学校と幼稚園、保育園などが一体となって子どもを育てる意識が大切。学校の教員と保育士らが連携すれば、子どもの発育を連続した視点でとらえ、より充実した保育、教育ができる」と話している。』

学者や政治家は、仕組みで子育ては出来ないことにいつ気づくのでしょう。仕組みが手を替え品を替え子育てを肩代わりしようとすることが親心の喪失を進め、より一層仕組みの機能不全を招いているのです。

この括りの文章・発言に、「親」が登場しないことが致命的なのです。「誰かが、育ててくれるんだ」という親の意識が、小一プロブレムの中心にあるのです。

学問が子育てから「心」を奪っている。

 

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こんなツイートがありました。

「保育現場で悲鳴が上がっている。子供だけでない、保育士を育てなければならないからだ。育て直し‥大人になった人を育てることは子育て以上に難しい。だから子供時代が一番大切なのだ。乳児期が一番大事なのだ。それなのに、今の保育園はどうだ?本当に子供が大事にされているだろうか・・。」

そして、「子どもを安心して保育園に預けられない理由」という記事がありました。これがすでに現状、現実なのです。 https://news.nifty.com/article/magazine/12210-20170519-9559/?utm_

子どもたちからの警告・学問が子育てから心を奪っている

子どもたちからの警告

待機児童解消、保育士不足、少子化対策、幼児の気持ちを置き去りに、言葉だけが「社会」と呼ばれるものの中を飛び交います。

久しぶりに保育に復帰した人が言っていました。新しい、小規模の保育園だったのですが、保育士の資格は持っていても幼稚園しか体験したことのない主任さんだった。保育園の保育を理解していない、と思い、すぐに辞めました、というのです。

それでも、その保育園には毎日子どもが通ってくる。多くが、期待に胸をときめかせ、ワクワクしながら・・・、通ってくる。その期待に応えようとしなければ、国が成り立たないことを、政治家たちは知ってほしい。考えてほしい。感じてほしい、と思います。

 

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子供たちがなりたい職業ランキング(ソニー損保生命)
保育園の先生は上位から消えました。
2015年は第3位。2017年は第11位。
 
 厳しく辛い、子どもたちからの警告ですね。現場の保育士と子どもたちが過ごす日々を考えず、安易に「預けて、働け」「預けて、働け」と親たちに言う政治家たち、そして、その動きを「権利」「権利」と扇動するマスコミ。このランキング調査は、そうした経済中心の動きに対する「子どもたちからの」警告だと思います。
 保育士たちが活き活きとしていないのかもしれない。保育が「子育て」であること、幼児にとっては一対一であることを忘れ、「仕事」なってきているのかもしれない。子どもたちが、いつか大きくなって、幼児と関わることに惹かれなくなっている。
 0、1歳児を躊躇せずに預ける親が増えたからかもしれない。子どもたちは、敏感に育てる側の本心を見抜きます。繰り返し許してはくれますが、見抜きます。
 保育の現場から、幼児たちが本能的に感じていた「子育て」の魅力が、ここ数年間の間に突然、欠け始めているのです。
 このリサーチは、将来、本当に保育資格をとってほしい、心ある子どもたち、資質のある選ばれた生徒たちが保育者養成校に来なくなることを意味しているのです。
 もうすでに、そういう状況に入っている。
 以前、保育士が子どもたちの「夢」だった頃、なりたい職業のトップ3だった頃、子どもたちは、賃金とか労働条件とか、そんなことでこの仕事に魅かれていたのではなかった。あの「先生」が好きで、あの「先生」に憧れていたはず。「賃金とか労働条件」よりもっと大切で、魅力的な「人間の優しさが作り出す雰囲気」、「家族的な空気」、「自分がいい人になれる時間」に子どもたちは引き寄せられたのだと思います。そのことに政治家たちは気づき、いま、子どもたちによる警告を見て、肝に銘じてほしい。このままでは、この国の根幹が壊れてゆく。
 
 子育てを、国や学者が、一生に数度しかできない素晴らしい体験と位置付けないから、「育てる側を育てる」という、その貴重な意味を、理屈ではなく「常識」としてマスコミが伝承しようとしないから、巡り巡ってこういうことになる。男たちが結婚しなくなっているのと似ています。みんな、自分の持っているいい人間性に感動する体験をしようとしない。それどころか、自分自身を体験することから、逃げ始めている。
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学問が子育てから心を奪っている

 

低賃金の労働力を確保するために(維持するために)、十数年前に政府は保育士養成校を増やそうとしました。養成校で学び、資格を取れば、他人の子育てができると勘違いした。学問で子育てができると考えた。そこがそもそも異常なのですが、養成校の存在自体が不自然で、まだまだ不完全だと気付いていなかった。資格という言葉で責任を誤魔化そうとした。

その上一番悪いのは、養成校が定員割れを起こし倍率がでなくなることが保育界にとってどれほど致命的かということに、まったく気づいていなかった。

ビジネス・生き残り優先の養成校は、政府の望み通り資格を乱発し、人間性のチェック機能さえ果たさなくなった。子育ての意味や大切さを教えるはずの教育機関が、資格の先にいる幼児たちの安全や安心を優先しなくなった。それまで何とか保育を支えてきた現場の保育士たちは、幼児が優先にされない状況に疲れ、国の「保育はサービス」という言葉を受け入れビジネス優先で考える園長の出現に疲れ、辞めていった。その結果がこれです。

「てめぇら!」響く保育士の怒鳴り声 “ブラック保育園”急増の背景” (週刊朝日)https://dot.asahi.com/wa/2017052400011.html

 やっとです。ここまで保育界が追い込まれ、子どもたちの日常が保育という仕組みでは守れなくなって、子どもが何年も怒鳴られ続け(もちろん一部ではありますが)、やっとマスコミが真面目に取り組み始めた。
「遅い!」と言いたい。でも、これからでもいい。真剣に取り上げ続けてほしい。

書籍では「保母の子ども虐待」という本がすでに20年前に出ていました。当時本の内容に関して報道もされましたし、みんな実は気付いていたはずです。それなのに、規制緩和と市場原理で、ここ数年、保育界は一気に追い込まれている。週刊誌、新聞、テレビが、幼児の立場に立って、繰り返し、「こういう状況が止まるまで」徹底的に報道してくれないことが、政治家の安易な「子育てに対する姿勢」と現在の「子どもの立場に立たない保育施策」を生んできたのだと思います。
こんな状況になっているのに、「あと40万人保育の受け皿を用意します」と去年首相が国会で言い、それが今年は「50万人」になっているのです。もちろん、全ての野党が(こういう状況であるにもかかわらず)「待機児童をなくせ」と言っているのですから、与党がダメだと言っているのではありません。安倍さんだったら、もう少し日本の未来は子どもたちの育ちにかかっている、ということを理解してくれるのではないかと、期待していたくらいです。(萩生田さんにも何度も説明しましたし。)

いま、問題なのは、こうして実態が報道され始めても、それでも躊躇せずに0、1、2歳を預ける親が増え続けていること。
そして、待機児童を自園の人気と勘違いし、親の保育士に対する正当なクレームに「じゃあ、やめればいいだろう」と平気で言う園長さえ現れていること。

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 三年前、子ども・子育て支援新制度が始まる前年に、宇都宮の保育施設で乳幼児が亡くなる事件(事故)がありました。当時大きく報道もされ、私もブログに書きました。https://kazu-matsui.jp/diary2/?p=255

こういう事件が、保育制度を規制緩和し労働力を確保しようという政府の保育施策の警告にならなかった。「待機児童をなくせ」という掛け声のもと、むしろ増える方向にいまだに進んでいる。だから小一プロブレム、学級崩壊が止まらない。
義務教育という仕組みは、一部の親子関係、家庭のあり方がすべての子どもの成長に影響を及ぼす、非常に影響力の大きい、同時に繊細で壊れやすい仕組みです。いま、閣議決定で進められている、「11時間保育を標準」と名付けた「子育ての社会化」という流れでは、これから義務教育が破綻し始める。そう簡単に止められない親たちの「意識改革」は現在進行形で進んでいるのです。

この国が、欧米のように訴訟社会になることでしか止まらないのか、と思うと情けなくなります。

『「社会で子育て」大日向教授、小宮山厚労大臣の新システム』https://kazu-matsui.jp/diary2/?p=208

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スコセッシ監督の映画「沈黙」を見てきました。http://chinmoku.jp 良かったです。

遠藤周作さんのキリスト教への視線は、以前原作を読んだ時、「死海のほとり」のイエス像でも共感できて、それをスコセッシ監督がしっかり受け止め表現していて嬉しかったです。東洋的な解釈、仏教との対比からキリスト教会を見ていて、本当はカトリック信者でありながら遠藤さんは易行道が好きだったのではないかと思います。日本という国、泥沼と例えられていたのですが、不思議な表現で、いまとても意味があることに思えました。それぞれの文化や宗教で異なる神とのスタンスを見誤ったり、誤解することがここ数千年の人類の歴史なのでしょう。

映画の中で、神の声がモーガン・フリーマンの声だった気がして、エンドクレジットで一生懸命探したのですが見つかりませんでした。もしそうだったとしたら黒人の声を神の声に使っているわけで、スコセッシ監督のメッセージが隠れている気がしました。モーガンが監督したボパという作品に演奏で参加したことがあります。

0、1、2歳児を預かるということは、その子の人生を預かること

全国を講演して回っていると、保育士不足と、それに伴う保育の質の低下は限界を越えています。義務教育がもたない。小一プロブレムはもはや止められない。政府主導の保育士不足が義務教育によって、すべての子どもの人生に「いじめ、不登校、学級崩壊」という形で影響を及ぼし始めている。

保育士は、資格を持っていれば誰にでもできる「仕事」ではない。(私は、30人の他人の4歳児を二時間世話できないし、笑顔ではいられない。それが8時間できる人、毎日笑顔でできる人は、選ばれたごく少数の人、生まれつきの才能、個性なのだろうと思います。)
しかし、政府の子ども・子育て支援新制度は、それが始まった当時、2万4千人の待機児童に対し、あと40万人「保育の受け皿」を用意するという雇用労働施策でした。幼児の最善の利益が優先されることなく、保育士たちの気持ちを考えることなく、受け皿だけ「待機児童をなくす」という掛け声のもとに増やしていった。小規模保育、子ども園、家庭的保育事業、3歳未満児を預かるために、資格も含め制度の規制緩和を一気に進めていった。(その先にある学童保育の混乱状態も待ったなしの状況です。最近、学童の指導員さんたちに講演して思いました。こんないい加減な仕組みでは、いい指導員さんたちの心がもたない。その人達がいなくなったらどうするつもりだろう。民間委託や下請けといった市場原理では支えられない。)

忘れてはならないのは、政府が新制度を始める前に、3、4、5歳児は幼稚園と保育園でほぼ全員預かっていたということ。「あと40万人」(今年はそれを50万人に増やしている)と政府が目標にしたのは3歳未満児だということ。皮肉にも、その掛け声と、「保育園落ちた、日本死ね」という言葉と言葉遣いの流布、待機児童をなくします、いう政治家の安易な選挙公約などに背を押されるように、親の「子育て」に対する意識が一気に変わってきている。0、1歳児を預けることに躊躇しない親が突然増えている、と役場の人達が口をそろえて言うのです。それが、待機児童の増加に拍車がかかるという結果を生み出している。保育の現場を追い込んでいる。
新聞に「誤算は想定以上に利用希望者が増えたこと」などと書かれています。しかし、それは経済でしかものを考えない学者や政治家たちの「誤算」であって、待機児童を減らそうとすれば増えますよ、ということは現場では10年も前から言われていました。東京23区などでは現象としてすでに現れていたのです。

「保育はサービス、保育は成長産業」という政府の指示を鵜呑みにした保育関係者の中に、保育の質を考えずに「ただ預かればいい」というとんでもない意識を持つ園長・設置者もでてきているのです。
 0、1、2歳児を預かるということは、その子の人生を預かること、という意識がない。
人間が生まれて三年間の脳の発達を考えれば、その時期の話しかけや抱っこ、接し方、声の調子や叱り方、刺激や関わりがその子の将来の行動パターンに様々な影響を及ぼすことは証明されていて、だからこそ、国連の子どもの権利条約やユネスコの子ども白書にも特定の人間(主に家族)と乳幼児が過ごす権利や、その大切さが謳われている。それすら保障されない状況にこの国が、政府の経済施策によって追い込まれているのです。

保育士に都合のいい幼児にするために、0、1歳児に話しかけない保育が少しずつですが、増えています。この時期に話しかけてもらえないと、壁に向かってじーっとしているような幼児が数ヶ月で出来上がります。それを親たちが知らない。
質の悪い保育士を雇わされて、事故が起きないようにするためには仕方ない、子どもがじっとしている方が安全という園長もいれば、政府に11時間保育を標準と言われ、乳幼児を3人、4人、次々に抱っこしていたら保育士の腰が持たない、労災の問題です、と堂々という園長もいる。そこまで言われると、そうですね、所詮仕組み自体が無理なのです、0、1、2歳児を今の仕組みで預かることが間違っているのです、と答えるしかありません。

脳細胞、シナプスの相対的関係

脳細胞、ニューロン、人間の魂の分野に属することを科学的に話すのはあまり好きではないし、不得意なのですが、時々そうだろうな、と思うことがあります。
ニューロン(脳細胞)の数が一番多いのは人間が生まれる直前で、生まれるときに大量に捨てるのだ、というのです。その捨て方には個人差があるそうです。その捨て方は人生に影響を及ぼすはずです。(ひょっとして、この「意識が働いているか」、それが「誰の意識なのか」はっきりしない出来事が運命や宿命と呼ばれ、仏教でいえばカルマ、修行の目標なのかもしれません。)
そして、人間は、このニューロン(脳細胞)をシナプスというものでつないでゆくのだそうです。それをニューロンネットワークといって、個人で異なる「思考」の仕方はこのネットワークのつながり方、その回路・通路のあり方の違いだそうです。そのニューロンネットワークは、生まれて一年くらいで最多に達するというのです。そこから、こんどは思考の回路を自ら削除してゆく。環境や体験にあわせ、どういう考え方がそこで生きて行くために重要かという優先順位を、それぞれその時の体験から決めていくわけです。
人間としての基本的な生き方に加えて、言語や文化、伝統、習慣、常識といったその社会で生きるための知恵や知識が、共有する思考形態として定まってゆくのでしょう。脳の重さはほぼ五歳で成人並みになると言われていますから、生きるために減らしてゆくニューロンネットワークの数と脳の大きさが一番相乗効果を生んでいるのが四歳くらいで、人の思考の可能性、感性がそのころ最大となるのではないでしょうか。
私はその状態を、「信じきって、頼りきって、幸せそう」というものさしから、四歳児で完成、最も幸せでいられる可能性を持っている姿としたのです。

一人の人間をニューロンに置き換え、人間同士の「絆」をシナプスと考えると、人類の目的が見えてきます。「生きる力」とは個の自立を目指すことではなく、「絆」を作る力です。信じあい、頼りあうことが「生きる力」です。

(だからこそ「話しかけない保育、抱っこしない保育」https://kazu-matsui.jp/diary/2013/12/post-225.html の出現は進化のプロセスにおける強い警告だと思います。)

実際、四歳児が完成された人間かどうかは、別の議論に任せます。しかし、そのように四歳児を眺めることで、先進国で起こっているほとんどの問題が解決するのです。
そこに人類の進化における相対性理論が見えます。

なぜ「四才児」完成説なのか。脳細胞、シナプスの相対的関係

講演で、「四歳児が一番完成している人間」と言います。「完成」という言葉さえ本当は変で、「目標とする姿」と言ったほうが近いのかもしれない。
「頼り切って、信じ切って、幸せそう。これは宗教の求める人間の姿です」と付け加えます。
仏像や聖母子像や観音様のように、人間は具体的に崇拝したり、目標とする何かが近くにあったほうがいい。これを拝んでいれば大丈夫、という共通した何かがあると、心が一つになりやすい。仏教やキリスト教が現れる前から、それはあったはず。

保育園で、〇歳から五歳児の部屋で三〇分ずつ過ごしてみたのです。すると、四歳から五歳になる時、何かが変わるような気がしました。集団の雰囲気が、馴染みのあるものになった。園長先生に言ったら、そうですね、とうなずかれました。四歳児までは神や仏の領域。存在としてはまだ宇宙の一部なのでしょうか。五歳で人間?。
園長先生が言います。
三歳児はやりたい放題、鬼ごっこをすれば自分から捕まりにいってしまう。四歳ごろから、ルールを守った方が面白い、ということを学ぶ。鬼ごっこでは、ちゃんと逃げるし、捕まったら鬼になることも理解する。他者との関係がわかってくるのです。自制心を持って他者と関われば、もっと面白いということがわかってきます。相手もそのルールを守ってくれることで信頼関係が芽生えるのです。このあたりの幼児の発達過程は人間社会がどうあるべきか、どのように形成されるかという次元まで重なってくる、とても興味深い変化・進化です。
それを親が眺めるといい。
自分が通ってきたプロセスのおさらいをするように。〇歳から四歳までの子育ては、無意識のうちに一人の人間の完成、人類の進化の歴史を四年かけて眺めることなのかもしれません。そうして、人は自分という人間を人類の一員として理解し、安心したのでしょう。幼児を理解しようとするプロセスが、人間を作るのです。

世界が宗教間の軋轢や、人種や民族間の争いに満ちていても、もし四歳のときに子どもたちを混ぜてしまえば、そしてそこに親心があれば、平和や調和は可能でしょう。先進国は、その可能性に気づき、その可能性を大事にしなくてはいけません。
なぜ、人間は四歳で完成したのに、情報や知識を得て不完全になろうとするのか。自ら不完全になることによって、集まって大きな完成を目指そうとしているのではないか、そんな風に考えます。人類全体で「絆」を作って完成するために、一度自分を見失う、という苦難の道をゆくのでしょう。
人類としての完成、それが何百年先になるのかわかりません。でも、運命(宿命)はそんなところにあるのでしょう。だからこそ我われは、時々、四歳児という完成品、目標を眺めていないと、人類全体としての道を間違う。
人類の歴史の中で、いまが一番大切な時かもしれない。私たちは、人類の進化を決定づける不思議な時代に生きています。
だからこそ仕組みの発達と、経済という進化のエネルギーでもある欲の具現化が生んだ「話しかけない保育、抱っこしない保育」https://kazu-matsui.jp/diary/2013/12/post-225.html の出現が恐い。

園長先生と刺しゅう

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「園長先生と刺しゅう」
 
 全国あちこちに師匠と思っている園長先生たちがいます。先進国社会特有の家庭崩壊の流れを止められるとしたら園長先生たちが鍵を握っている、と思っています。
 
 親が、まだ親として初心者のうちに幼児としっかり出会わせることが一番自然で効き目のある方法です。そういう講演をしていると、達人のような園長先生に出会うのです。
 
 もう二十年前になるかもしれません。こんな人に会い、こんな文章を書きました。一見無駄のように思える「刺しゅう絵」という作業が、親たちの人生に深みを与え、その感性を豊かにするのです。こういう園長たちが大地の番人のように、居たのです。
 
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 先日(注:20年前)、横浜南区のあゆみ幼稚園で講演しました。
 
 講演の一週間前に、30年間の園の歴史をまとめた一冊の本が送られてきました。「育ちあい」という本でした。感動しました。
 
 母親たちに毎年、園長先生が子どもが描いた絵を一枚選んで、その絵を元に、刺しゅう絵を作らせているのです。布を一枚渡し、子どもの絵を丁寧にトレースし、布の上に写しとり、そっくりそのままに刺しゅう絵に刺してゆくのです。
 
 園長先生は言います。
 
 「子どもがどこからパスをスタートさせたかを読みとり、パスの動きを追いながら一針一針進めます。そして約一ヶ月をかけて完成し、原画と共に園に提示して家族そろって鑑賞しあいます。もちろん祖父母のみなさんも大勢・・・」
 
 子どもたちが10分ほどで描いた絵でしょう。普通だったら幼稚園から持って帰ってきた絵をちょっと眺めて、ああ上手だね、と誉めてやって終わってしまったことでしょう。その絵を母親が何日もかけて同じ大きさの刺しゅうに仕上げてゆくのです。
 
 本には、子どもの絵と母親の刺しゅうが上下に並べられたカラーのページがあって、それは見事でした。筆先のかすれているところまでちゃんと糸で表現してあるのです。
 
 そして、その絵の下に、母親たちの感想が載っていました。私はそれを読んで、園長先生の達人ぶりに驚かされました。
 
 「『やった!やった! ああよくやった』13日午前1時30分、一人で声をだしてしまいました。この4~5日、深夜に集中できました。子どものために、こんなに一生懸命になれることって何回あるでしょうか。さあ、今夜はゆっくり・・・」
 
 「鳥の後ろ足の部分は主人が刺してくれました。刺し終えた時は、主人と二人で思わず『できたね』と声をかけあいました。いい思い出になると思います。」
 
 「どんな巨匠が描いた絵より『ステキ、ステキ』と自画自賛しています。刺しながらどんどん絵の世界に引き込まれていきました。試行錯誤しながら作る過程は、まるでキャンバスに絵の具をおいていく楽しさでした。」
 
 「できました! 3枚目です。もう最高です。産みの苦しみも赤ちゃんの顔を見たとたん忘れてしまう、今、そんな気持ちです。息子は左利き、私は右利き、同じような線にならず何回もほどきました。もうこの子のために、こんなに長い時間針を持つことはないだろう・・・、そう思いながら刺しました。今、一つのことをやり終えた充実感と三人分無事終えた安堵感でとても幸せです。」
 
 「『お母さん、まだ、こんなところなの? ボクなんて、サッサと描いたんだよ』と息子が横目でチラリ。私だってどんなにサッサとやりたいか・・・。眠い目で遅くまで刺し、目を閉じると絵の線が、はっきり浮かんで夢にまででてくるのです。やっと終わった!という喜びと、もうこれで最後なのだという寂しさと・・・。この素晴らしい刺しゅうを持っている子どもたちは幸せだと思います。」
 
 「途中でめげそうになった時、主人が少し手伝ってくれ、その姿を見て子どもも目茶苦茶ではありますが『手伝っておいたよー』と。よい思い出と、よい記念ができました。」
 
 「この一ヶ月睡眠時間を削り、家族には家事の手抜きに目をつぶってもらい本当に大変でした。でも苦労した分だけ満足感も大きく主人から『ご苦労さま!』と声をかけられ、こどもからの『ママとても上手だよ。そっくり!』のひとことでやってよかったと思いました。」
 
 「先輩のお母さまが相談にのってくださり、前年度の作品を参考にと貸してくださいました。『私だって初めの時は、同じように先輩にしていただいたから』のことばに胸が熱くなる思いでした。くじけそうになった時に応援してくれた主人と子どもたちにも感謝の気持でいっぱいです。」
 
 「一針一針刺していると小さな針先から子どもの気持が伝わってくるのです。こんな素敵な、あたたかい気持との出会いができた刺しゅうに感謝します。」
 
 「でき上がりました。目の疲労を感じながらも心は軽やかです。刺しゅうをしていくうちに、だんだんとこの絵が好きになっていくのです。とても不思議なことでした。いとおしいとまで思うようになりました。」
 
 「すてきな絵を描いてくれた娘に・・・。家事を協力してくれた主人に・・・。アドバイスや励ましをくれた友達に・・・。何よりこの機会を与えてくれたあゆみ幼稚園に心から感謝を込めて。」
 
 
 
 すべての鍵がここにあります。人間社会を家庭崩壊の流れから救うすべての鍵があるのです。学者の教育論や社会論、子育て論や福祉論、保育論を吹き飛ばすすべてがあります。
 
 幼稚園版「幸せ家族計画」とでも言いましょうか。でもこの場合には賞品はありません。母親たちを動かすのは園長先生の人柄でしょう。(祖母のような方です。)
 
 園長先生にたずねました。「強制的に全員にやらせるのは大変でしょう」
 
 すると園長先生は「いえいえ、強制じゃないんですよ。やりたい人だけなんです。でも100%志願なんです。それが嬉しいです」
 
 私はハッとしました。そうなんだ。まだ日本の母親たちはすごいんだ。こんな園長先生の心を生き続けさせているのは、それにしっかり応えている母親たちなんだ。
 
 「もう30年もやっているんですが、最近になって母親たちの間に、刺しゅうのやり方を伝えるノートが代々受け継がれていることを知ったんです。先輩の母親から、本当に詳しく、少しずつ書き加えていったんでしょうか。このクレパスの赤い色を出すには、何々社製の何番の糸がいいとか、かすれている部分をうまく表現するテクニックとか色々あって、そのノートが伝承されていくんです。子育てもやっぱり伝承ですから、先輩から次の世代のお母さんへ、受け継がれてゆく大切なもの、気持ち、がその中にあるような気がして嬉しかったんです」
 
 わが子の絵を刺しゅう絵にする。
 
 この一見意味のないように思える妻の無償の努力を傍らで見つめる夫。自分の描いた絵が時間をかけて少しずつなにかとても立派なものになってゆくのを、わくわくしながら見つめる子ども。一枚の刺しゅうを囲んだ家族の心の動き。
 
 自分の手で再現されてゆくわが子の絵を見つめ、針を運びつづける母親の心。針の先に見えてくる絆・・・。
 
 将来この一枚の布を見るたびに、母親の心に一ヶ月の凝縮された過去の時間がよみがえるのでしょう。
 
 こんな課題を母親に与えてくれる園長先生がいた。
 
 これは理論ではないな、と思いました。
 
 子育ての「負担」を軽くしようと、延長保育やエンゼルプランを園に押し付けてくる文部省や厚生省の役人には、こういう大自然の摂理は理解できない。
 
 発想が全然違う。
 
 幸福感の次元が違う。
 
 宇宙に対する見方が違う。
 
 魂に対する理解度が違う。
 
 園長先生が、幼児を見つめながらこれほどまでに心眼を磨いて真理を見ている。
 
 親たちに「親」というひとつの形を舞わせている。その様式美に夫と子どもがちゃんと気づく。
 
 「かたち」から入る日本の文化の真髄がここにあるのでしょう。理屈ではなく、かたちなのです。
 
 人生は出会いだと言います。こういう人に出会える親たちの幸運。子どもたちの幸運。私の幸運。
 
 さっそく次の日、鹿児島でこの話を園長先生たちにしました。
 
 「すごい!」
 
 「鳥肌がたつわ」
 
 「私も頑張らなきゃ!」

「人材の流動性」、幼児の成長と発達には、実は致命的な言葉です。

人材の流動性

 

保育界で起こっている状況に、「リスクが高すぎる。人材の流動性も高くなる一方。」というツイートが返って来ました。

3歳未満児の保育は日々命を預かること。保育士の責任感と経験が未熟だと危ない。少ないベテランを3歳以上児にとられ、未満児たちには新人を当てるか、資格を持っていても3歳以上児はとても保育できない保育士をあてざるを得ない状況が全国で起こっています。

未満児だけ預かる保育所も増え、ただ預かっているだけ、保育をしていない園もあります。そういう保育所から来た子どもは預かりたくない、責任が持てない、他の子どもたちの保育に影響する、とあからさまに言う認可園もあるのです。

保育士不足が決定的で、これからますます安全性が脅かされ、リスクが高くなる。

それがわかっていても見ぬ振りをする「業者」の保育参入をどうやって止めるのか。特に小規模保育に名を借りた規制緩和は、国からの補助が旧認可保育園並みになり、儲けるなら保育だ、というビジネスコンサルタントの浮ついた言葉をネット上に溢れさせているのです。

「条例をつくっても、市の計画に入れなければいいのです」と行政の人から言われました。保育にサービス産業が入ってくることに違和感を感じる行政の人、市長はまだいます。国の施策がおかしいと思えば、保育課長が市長を説得し、市政の段階で阻止することもまだできます。でも、それさえも選挙を挟んで限界に近づいている。

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『全く向いていない人が保育士となる。預ける側にはそれはわからない。大切な我が子を安心しては預けられない状況なのですね。』というツイートに、

『昔から確実に少しそうでした。その可能性が突然広がりますます増えている状況です。しかし同時に「大切な我が子を安心して預けられる」ことはどんな状況でもできないわけで、その安心を信頼関係で補い、得ようとするのが人間社会の絆だと思います。』と私がツイートを返します。

 

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園によっては毎年、2、3割の保育士が辞めてゆく。交代してゆく。危機管理のために必要な一体感が職員たちの間になくなってきている。こんな、派遣会社に頼らざるを得ないような方向への「保育」の広まりを、10年前、一体だれが予測したでしょうか。

 

「人材の流動性」、幼児の成長と発達には、実は致命的な言葉です。

幼児期、「育てる人たち」がほぼ数人で、一定している状況で、つまり、家族、親族、もう少し広げて村人や部族という一定の人々に囲まれて人間の遺伝子は何万年にもわたって進化してきたのだと思います。そうであること、は幼児期の人間の成長や発達に確実に影響があった。その環境で遺伝子が進化してきた。だからこそ、国連の子どもの権利条約にも、幼児期の安定的な人間関係を「家族」という単位をベースに守るべきことがうたわれているのです。

最近の政府の保育施策を見ていると、政治家や学者がこの「育つ環境」を完全に忘れているように思えるのです。保育を「飼育」のように見ている。保育士が入れ替わり立ち替わりでも、誰かが見ていればいいんだ、と言わんばかりの規制緩和と業者に都合のいい市場原理の導入が続きます。一番大事な子どもたちの「日常」がどういうものかイメージできていない。

いま、「ひとつの園に長く勤めるよりも、派遣の方が気楽です」と言う保育士さんが出てきて、もうそれは止められないかもしれない。看護師さんの働き方において、よく言われることだそうですが、幼児の成長にこれほど直接的に関わる「保育」と「看護」は人生に影響する深さが違うと思うのです。

一人の保育士が、5年間同じ子どもたちを、その成長を眺めながら一喜一憂し保育できなくても、乳幼児期を世話した保育士が、卒園式の日にその園に居るかいないかで、保育という仕組みの空気が変わってくる。それによって、家庭の代わりをしなければならない保育園の存在理由がギリギリのところで保たれる。派遣会社の参入を許し「社会で子育て」などと言う政治家や学者たちはそのあたりのことをまるで理解していない。

保育園や幼稚園という人類にとって非常に新しいまだまだ実験的な仕組みは、社会というより、ある程度「家庭」「家族」というものに似せておく必要があったのです。保育園の場合は特にそうだった。子どもたち目線から考えれば当然なのですが、以前、この国の保育に対する考え方はそうだった。保育指針にも、家庭と園が「心をひとつにする」ということの大切さがいまだに謳われているのを読めばわかります。

一人では絶対に生きられないから家族がいる。家族だけでは生きるのが難しいから村がある。そんな時代を何千年も経て、いま、村がなくても生きられる、家族がなくても生きられる、一人でも生きられる、という感触が、幼児を育てることの意味を忘れさせようとしている。だから、保育園や幼稚園という、村単位の絆さえ補えるかもしれない可能性を捨ててはいけない。その可能性にしがみつく時。ただの仕事場にしてはいけない。

 

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講演依頼・頑張る無認可保育園・素晴らしいブラック保育園・

NHKの視点論点・子ども・子育て支援新制度の原点

保育者たちの研究会で、子ども・子育て支援新制度について講演を頼まれました。現場は、新制度が始まって二年目で追い詰められています。保育士不足による保育の質の低下、何より、11時間保育を「標準」と名付けられたことが致命的でした。新制度の出発点、原点にあった「新システム」が民主党政権下、進められようとした時に保育誌に書いた文章を中心に現在の状況を加えながら、どういう発想が原点にあり、この流れが始まったのか、ざっとですが振り返ってみました。

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視点論点

以前、いまの「子ども・子育て支援新制度」が三党合意で民主党から自民党に受け継がれる前、NHKの視点論点という番組で、「子ども・子育て新システム」について、幼保一体化を中心に専門家が順番に意見を述べたことがありました。大日向雅美氏(大学教授)、山村雄一氏(大学教授)、普光院亜希さん(保育を考える親の会)の3人で、現場で保育に関わっている人が意見を述べなかった、その機会を与えられなかったことが残念でした。この施策が決まっていく過程を象徴しているようでした。

保育界は幼稚園、保育園という分類があり、新制度が始まり内閣府が関わり始めるまでは、文科省管轄、厚労省管轄に分かれていました。そこに、私立、公立、旧認可、旧認可外、新しい形の小規模保育、家庭的保育事業、子ども園、そしてその全てに「子ども主体に考える人、親へのサービスと考える人」が居て、その立場や仕組み、思い入れにによって問題点がずいぶん異なります。つまり「現場の代表」が誰なのか、が難しい。だからこそ、学者にはしっかりと様々な状況を考えて「研究」し、現場の状況を学んでもらわなくては困るのです。

山村氏は、新システムが「子どもの思いを受け止めていない」、と一番当たり前のことを警告していました。つまり、その動機と「筋」が悪いということです。保育士の「良心」をこの仕組みが成り立つ要素(係数)に加えれば、とても重要なことでした。とくに0、1、2歳児の保育にとっては、保育士の精神的健康と子どもの最善の利益を優先する姿勢は一番重視されなければならない必要条件です。

普光院さんは「こども園が、幼稚園と保育園のそれぞれの機能を弱くするのではないか」という論点で、新システムに反対しました。これもまた現実的です。現在の幼稚園型認定子ども園における、幼稚園型の親と、保育園型の親の生き方の違い、それが園運営の障害になってきている状況、そして慢性的な保育士不足を考慮すれば、3歳未満児の保育をこれ以上進めると、保育全体の質が低下してゆくのは明らかでした。

(新システムの根底にあるのは、当時民主党政権下、25万人3歳未満児を保育所やこども園で預かることによって労働力を確保しようという経済学者主導の雇用労働施策でした。新制度として自民党が実行した時は、それがさらに増えて40万人という目標を掲げました。)

大日向さんの発言は、公共放送で「(当時の)新システムを進める政府の委員」によって国民に説明されたという意味で、とても重要な発言でした。施策を進める政府の考え方を述べるという位置付けと、そして、こうした学者の意見が施策を作り出しているという責任は大きかったはずです。

 

大日向さんは番組で、「新システムは、すべての子供の育ちを社会の皆で支えるという、子育て支援の理念の画期的な変化です」とまず述べるのです。

当時すでに保育園や学校で起っていた保育士と保護者、教師と保護者間の摩擦や軋轢を考えれば、非常に抽象的な、机上の空論のように思えました。保育園や学校に子育ての責任を依存しようとする親が出始めている時に、「すべての子供の育ちを社会の皆で支える」ことができるはずがない。綺麗事に過ぎる、深く考えれば、人類史上かつて一度もあり得なかった社会、独裁政権でも作らないかぎりこれからもありえない社会です。似たような試みがイスラエルのキブツや、ソ連の共産主義的仕組みの中で国家事業として進められたことがありました。カナダのケベック州が試みた「全員保育」https://kazu-matsui.jp/diary2/?p=2314は州単位の試みですが、これもうまくいかなかった。範囲を広げれば中国の「一人っ子政策」などもそうですが、国家が家族という仕組みに介入してくると、モラルや秩序が育たなくなってくる。

部族という社会単位であれば可能かもしれませんが、子育ては、夫婦(親)を中心とした「家庭」主体で行われてきたのです。その家庭を支えるための「社会」だったわけです。この順番は絶対に忘れてはいけない。

大日向さんは、当時の「保育の友」九月号でも、「これまで親が第一義的責任を担い、それが果たせないときに社会(保育所)が代わりにと考えられてきましたが、その順番を変えたのです」と発言していた。

これは人類の進化にかかわる発言と言ってもいい。遺伝子の組み替えでもしないかぎり無理でしょう、と思います。ただの学者が学生相手の授業で言うならいい。でも大日向さんは、当時政府の保育施策の中心にいた人だったのです。この安易な、一見容易い方向転換のように聞こえる発言の先に、いまの保育士不足や保育の質の低下、「保育園落ちた、日本死ね!」などという言葉があるのです。

(この発言は実は同時に、幼稚園教育要領と教育基本法を否定することでもありました。「幼稚園教育要領、第十条: 父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有するものであって…」私は、本来こういう人間性の根源にかかわることは法律などで言うべきでないと考えていますからこういう矛盾を突くような論法は避けたいのですが、幼保一体化ワーキングチームの座長による発言でしたから、幼保一体化の意味と意図を明確にするためにあえて書きます。保育界を迷走させる明らかな矛盾がそこにはあった。そして、厚生労働省が抱える「厚生」と「労働」の矛盾が、幼児が日々を安心して過ごす、という日本の未来を政府の選んだ学者の言葉が脅かしている。)

この「保育の友」における発言に出てくる「社会」の意味が曖昧で怖いのです。このインタビューでは「保育所」とキャプションがついていましたが、通常は誰もはっきりと定義しない。NHKの視点論点でも、「社会皆で支える」と簡単に言っています。でも、これは具体性に欠ける明らかな誤魔化しです。新システムのことでの発言です。「システムで支える」と正直に言うべきです。

よく使われる「女性の社会進出」という言葉の意味さえ、実はあえて誰も定義しない。経済競争という意味でしょうけれど、経済競争はよく考えれば社会のほんの一部でしかない。祈ること、祝うこと、踊ること、歌うことも「社会」です。そのことが明らかになるのが嫌で、誰も「経済競争」と、はっきり言わない。

 

別の番組、NHKのクローズアップ現代でも大日向さんから同様の発言がありました。その時も「社会」が何を意味するか明確な説明はありませんでした。こういう曖昧にして「社会」という言葉を使うひとたちは、いつでもその意味をもっと幅広い、「家庭を含む」「隣近所のおじちゃんおばちゃん」まで広げて逃げる準備をしています。ところが、子育てを「社会化」(システム化)すると、地域の絆どころか、夫婦揃ってやる子育て、社会の最小単位である「夫婦」の絆が崩れてゆく。3割から6割の子どもが未婚の母から生まれる欧米先進国がいい例です。そして、家庭崩壊が始まると児童虐待と女性虐待が広がり、老人の孤立化も加わり「社会」(システム)を支える福祉の財源が枯渇してくる。

夫婦が、子育てによりお互いのいい人間性を確認し、それを育てあい、信頼関係を築いてゆく。人間たちが、愛とか忠誠心といった「損得を離れた絆」を社会に育み続けるために子育ては存在するのです。

 

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以前頻繁に使われていた「介護の社会化」という言葉を思い出します。その結果孤立する老人が急増し、無縁社会といわれる状況にまで進んでしまった。(福祉で絆の肩代わりをしようとした北欧で、20年前に起ってしまった現象とほぼ同じです。)親身な関係を生むための助け合いと育ちあいを「社会化」することによって、人間性が社会から失われていく。そして、福祉で人間性を補うことは不可能です。

選挙と結びついた福祉と、市場原理が背景にあるシステムの変革が、人間の意識や本能が支えていた社会の構造を加速度的に変えて行く、人類史上かつてない過渡期に私たちは直面しています。

 

以前から指摘されていたのですが、背後に「保育は成長産業」という閣議決定がある現在の子ども・子育て支援新制度が、介護保険制度と似ている。これほど「無縁社会」を推し進めた介護保険を、厚労省は財政削減につながったとして、「成功」と見ているふしもある。誰のための「成功」なのか、見極めなければいけない。保育制度の場合、「誰」の主役は「幼児」であることを見落としてはいけない。

 

大日向さんは、「働き方の見直しと、子育てと仕事の調和を目指す。何よりも、子供の健やかな成長を議論の大前提としている」と付け加えます。

「子どもの健やかな成長のために」というなら、子育てと仕事の調和を目指す前に、子育てを中心にした家族の調和を目指すべき。(百歩譲って、保育士不足の問題をまず先に解決すべき。)

最近の児童虐待やDVの増加を考えれば、家庭の中心に子育てが優先的に存在しないと、社会全体の調和が崩れてくる。それを保育で肩代わりしようとしても限度、限界がある。肩代わりしようとすることが、なお一層児童虐待やDVの増加を進める。

「調和」には親と子の両方が成長する「時間」と「環境」が必要なのです。ゆっくりと流れてゆく、言葉を発しない赤ん坊と過ごす時間が「絆」の出発点として大切で、それは人類史の上で常に存在していた。幼児と親はなるべく引き離さない、その方向へ保育施策を考えないと、調和が、希薄な偽物になってしまう。

引き離さずに、親子を育てる、そんな役割を保育界が担うようになればいいのです。

 

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いま、鳥取県が始めようとしている、自分で育てる親に月額三万五千円を給付をする、そういう方向の方が「健やかな成長」(子どもにとっても親にとっても)につながるはずです。未満児を持つ父親の残業を制限する、父親の一日保育者体験を広め、早いうちに父親の感性を育てる。そして、この時期(人生の始めの3年間)だけでも母親が子育てに集中できるように仕組みを組み替えてゆく。それをしないと保育という仕組み自体が崩れてゆく。難しいことではない。子どもの願いを中心に「子育てと仕事の調和を目指す」べきなのです。

そして、認可保育園や幼稚園に子育て支援センターを作って、既存の保育施設が役割的にも財政的にも健全に存続できるようにする。

 

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新システム(新制度)は始めから「雇用・労働施策」と定義されていて、現場を無視した数値目標が始めにある。しかし、保育士の数が決定的に足りない。これでは、小学校も含めて「現場」は追いつめられるばかりです。早く、方向転換しないと傷はますます深くなる。いまの保育者養成校の学生の質を考えれば、いますぐ政府が方針を変えても、10年は立ち直れないかもしれない。

(ただ、資格者を増やせば「保育」ができると思っている政府やマスコミも想像力に欠けていますが、世間知らずの経済学者ならまだしも、養成校で教えている保育の「専門家」たちの中にも、「社会で子育て」などという人たちがいて、その人たちは、簡単に無責任に、たぶんビジネスだから、保育資格を現場に来てはいけない学生たちに与え続けている。)

 

今、全国ほとんどの地域で、保育士に欠員が出たら埋めるのが大変です。それでも政府は規制緩和、市場原理を使って無理にでも進めようとしている。実は「子どものためではない」と知っているから、「子どものため、子どもの健やかな成長のため」などと言ってごまかそうとする。自己主張できない子どもたちに対して、これほど白々しい嘘はありません。手ひどいしっぺ返しが社会全体に返ってきます。

だからこそ、未満児たちを毎日見つめている保育士たち、そして、母親たちが子どもたちのために立ち上がらなければならないと思います。本気でいま、「子どものため、子どもの健やかな成長のため」と声を上げなければならない。

 

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大日向さん:「なぜ新システムが必要か。子育て、働き方に関するこれまでの考え方や制度が、時代の変化と共に人々の生活スタイルや価値観に合わなくなっているから」。

人間性が失われてもかまわないなら別ですが、あきらかに現代社会はシステムが子育てを引き受けることによって、つまり親が親らしくなくなってくることで起こる新たな多くの問題を抱えています。時代の変化に対応することによって、「生活スタイルや価値観」が大人中心のものになってきている。

児童養護施設や乳児院が、親による虐待が主な原因で満員になっています。(定員に満たない施設もありますが、人材不足・財源不足による定員割れです。これは介護でも保育でも同じことが起っています。)

いじめや不登校、モンスターペアレンツといった問題を抱え、学校の先生が精神的に限界に近づいています。埼玉県で6割、東京都で休職している先生の7割が精神的病です。引きこもりの平均年齢が30歳を越え、信頼関係を失った人間たちに生きる力がなくなってきています。

(公立保育園中心にやってきた自治体で、0、1歳を預ける親が急増しています。保育を理解していない役場の保育課長が、とりあえず、3、4、5歳に当てていた加配保育士たちを0、1歳に回している。いまの、4、5歳児を保育士一人で30人毎日世話するのは無理です。保育に教育的要素を、などと言っても学者の空論、できるわけがない。質の悪い保育士によるしつけは、簡単に虐待につながってゆく。3、4、5歳児の部屋で収拾がつかなくなり、そこで保育された子どもたちが4月には小学校に入るのです。そんな状況が全国で一気に進んでいます。)

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日本とは一桁違う欧米の犯罪率を見れば、親が親らしくなくなること、特に父親が未満児との体験を持たないことは、人間社会からモラル•秩序が欠落していくことだとわかります。百歩譲って、価値観に合わなくなったからシステムを変えるべきならば、その度に変えなければなりません。すでに20代の女性で専業主婦を望む人は増え始めている。経済競争だけが人生ではない。経済競争だけが社会でもない。日本人は気づき始めている。欲を捨てることに幸せへの道がある、と説いた仏教の土壌がまだ色濃く残っている国なのです。

大多数の人間が子育てに幸せを感じることができなかったら、人類はとっくに滅んでいます。ごく最近まで、人類は幸福感の第一を「子育て」に見ていたもです。損得を忘れることができるからです。発展途上国の貧しい農村へ行くと、村人たちの表情に心を洗われる、と海外へ経済援助に行って来た人たちがしばしば言います。人間は「子育て」を取り巻く信頼関係に幸せを感じ続けてきたのです。

 

 

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大日向さん:「少子化が急速に進み、生産年齢が減少して社会保障の維持の上からも危機感が持たれています」

この辺りに、今度の保育改革が進んだ学者と政治家の「本音」がある。しかし、日本の少子化の大きな原因は結婚しない男が現在2割、十年後3割に増えようとしていること。貧しい国々で経済状況が日本より悪いもかかわらす、人口増加が問題になっていることを考えると、これは性的役割分担の希薄さが原因で、経済問題ではない、という考え方もできます。

男たちに「責任を感じる幸福感」がなくなってきている。ネアンデルタール人などを研究する古人類学では、性的役割分担がはっきりしてきたときに人類は「家族」という定義を持つようになった、と言います。性的役割分担が薄れた時に、人類は家族という単位で生きようとしなくなる、ということかもしれません。それでいい、という考え方もあっていい。しかし、それは人類が数万年拠り所にしてきた、頼りあう、信じあうという「生きる力」を土台から失うことでもあります。男女間の絆と信頼関係を失ってゆくことになるのです。

 

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大日向さん:「若い世代は子供を産みたいと願っているが、産めない理由がある。」

経済的理由で、と言いたいのだと思います。社会(保育所)が育ててくれれば産むのだ、ということでしょう。しかし、日本の少子化現象は、自らの手で育てられないのだったら産まない、という親子関係を文化の基礎にする日本の美学ととらえることもできる。この考え方の方が、自然だと思います。日本人は、欧米とは違った考え方をする人たちなのです。

自分で育てられなくても産む、という感覚の方が、人間社会に本能的な責任感の欠如を生むような気がしてなりません。ひょっとすると、人間性の否定かもしれません。全国各地で役場の担当の人が「0歳児を預けるのに躊躇しない親が増えた」と顔をしかめます。「保育園落ちた、日本死ね」という言葉の裏には幼児と母親という二つの人生がある。それが心情的に重ならない。

大日向さん:「高学歴化、社会参加の意欲の高まり、更には近年の経済不況の影響もあって、働くことを希望する女性は増えている。」

心から希望しているのか、仕方なく希望しているのかによって対策は違わなければなりません。仕方なく希望しているのであれば、子育てを心の中では希望している女性のニーズに応えていくべきです。それであれば幼児たちのニーズとも重なります。頼ろうとする、信じようとする、そのことこそが社会参加の基礎であることをもう一度学び直さなければなりません。

子育てが家庭のかすがいであって、子育てが育む信頼関係が人間社会を支えてきたのだ、という意識を強くもてば、子育てを親のもとに返してゆくことは財政的にも充分可能です。欧米社会で起ってしまったモラル崩壊の流れを考えると、それによって抑えられる犯罪率や児童養護施設や乳児院、裁判所や刑務所にかかる費用を想像すれば効率的にもいいはず。子育ての社会化を防ぎ、親たち、祖父母たちの手に出来るかぎり子どもたちを返すことは、財政だけではなく、この国の魂のインフラにかかわる緊急かつ最重要問題だと思います。

 

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大日向さん:「依然として職場環境は厳しく、仕事か家庭かの選択を迫られている」

子供が乳幼児の場合、家庭(子ども)から離れる仕事と家庭(子育て)は本来両立出来ません。だから選択を迫られているのであって、選択を迫られるのは生き方の選択を迫られること。どちらがいいとは言いませんが、女性だけが選択を迫られるのは不平等というなら、そういう論議にするべきで、「すべての子供たちのために」と言う誤魔化しは使うべきではない。

大日向さん:「更に、安心して子供を預けられる環境の整備が遅れている。」

その通り。本来「安心して子供を預けられる環境」がある、と親に思わせることがおかしい。自分の親に預けたって心配です。国のやっている仕組みだから安心、という考え方は人間的ではない。いまの、ほぼどんな学生にも資格を与えてしまう養成校の状況を考えれば、学者のペテン、思い上がりです。規制緩和で、規則が曖昧なため百人規模の「家庭保育室」がすでにあります。資格者は半数でいい、という小規模保育が増えています。親へのサービスを主体に考える市場原理に基づいた保育をしようとする園長設置者が参入して来ています。そして、犠牲者が出ています。新制度は、さらにこれを進めようとしています。

保育は市場原理では機能しません。なぜなら、保育士たちが「良心」を持った人たちだからです。日々、子どもたちに「心」を磨かれている人たちだからです。だから実は私は、新制度なんか怖くない。いい保育士が辞めていくことでブレーキはかかります。しかし、それが進められ、やがて市場原理が成り立たなくなる過程で、子どもたちがどういう体験をするか、ということを考えると恐ろしくなるのです。

「子どもの健やかな成長」は、「その子の命に感謝する人を増やす」ことです。そういう人がまわりに数人いれば、子どもは見事に生き、その役割りを果たします。

 

大日向さん:「都市部では深刻な待機児問題が続いている」

その深刻さは、待機児童が増えていることではありません。そこにどのような理由があろうとも、子どもを保育園に預けようという親が増え続けていることが深刻なのです。

待機児童は減らそうとすればするほど増える、現場で親を知る保育士たちは10年前からすでに予言していました。

保育は親たちの意識の中で、権利から利権になりつつあります。

横浜市では待機児童が一番多かった頃、その倍の数の欠員がありました。待機児童の問題は単純ではない。最近目立ってきた偽就労証明書、偽装離婚、偽うつ証明書などの問題を、新制度を進めようとしている人たちはどうとらえているのか。気づいていないのか、いずれ仕分けするつもりでいるのか。覚悟のほどを聴きたい。

 

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大日向さん:「保育所を整備すれば問題は解決するかというと、必ずしもそうではない。むしろ、修学前の子供たちが、親が働いている、いないによって幼稚園と保育所に別れている現状が、子供の健やかな育ちを守り、同時に親が安心して働き続ける上で、大きな問題を生んでいる。」

ここに、幼保一体化に対する大日向さんの考え方の原点があります。簡単に言えば、働く女性にとって不公平だということです。

この文章は論点が飛躍しすぎています。なぜ幼稚園と保育園にわかれることが「子供の健やかな育ちを守り、同時に親が安心して働き続ける」ことを妨げるのかがわからない。

幼稚園に行く子どもと保育園に行く子どもとは一般的に家庭の事情、親の意識が違う。わかれる方が健やかな育ちを守る、と考えるのが自然です。しかもそうしてきた日本が、欧米に比べ、経済だけではなく、モラル•秩序、犯罪率、幼児虐待やDVという幸福に直接かかわる問題でははるかに状況がいいのです。

5時間預かる子どもと10時間預かる子どもを一緒に保育するのは大変です。

「大きな問題」が誰にとってのどのような問題なのか。保育所に「預けたい」人にとっての問題なのでしょうか。それでは子どもがかわいそうです。幼児をシステムに10時間も毎日預けるのであれば、それなりの不安やうしろめたさを感じるのが普通です。

(新制度では、11時間保育を「標準」としたために、様々な問題が起きています。加配相当の発達障害を持った親が、「私も、標準にします」と言ったとたんに、園全体の保育の質が影響を受ける。)

大日向さん:「幼稚園は学校教育法に位置づけられているが、4時間保育を中心としているために、事実上、専業主婦家庭の子供しか利用できません。その結果、幼稚園は入園希望者が減り、特に地方では減少の一途を辿っている。幼稚園の無い自治体は2割、人口1万人未満の自治体では5割に及んでいる。」

幼稚園のない自治体が2割、これは主にその自治体の歴史がそうさせてきたのであって、幼稚園が親の生き方の変化によって淘汰されたのではありません。もともと、そうだったのです。そういう自治体では、役場の指導で親が偽就労証明書を書いていた。でも、四時には保育園は空になった。だいたい、そんな仕組みだったのです。

幼稚園が選択肢としてあるところでは、例えば埼玉県や横浜市では幼稚園を選ぶ親と保育園を選ぶ親の比率は7:3、自分で育てたいと願っている親の方が多い。

自分で育てる、そういう本能が人間の遺伝子に組み込まれている。本能から来る願いが幸せにつながっていた。それを優先することが、社会に人間性を保つ。その願いは子どもたちの願いと一致する。親子がなるべく最初の数年を一緒に過ごすことができるように、この国は施策を進めるべきだと思います。多くの親子が何を望んでいるか、という視点が「新システム」(新制度)には決定的に欠けています。

 

 

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大日向さん:「保育所は、働く女性の数が増え、保育所の整備が追いついていません。女性の社会進出は経済成長を支える鍵でもあり、保育所の果たす役割は、今後も更に大きくなっていきます。保育所は、幼児教育をしていないという、誤解が一部にあります。子供を幼稚園に通わせるために、仕事を辞める女性もいます。」

「女性の社会進出は経済成長を支える鍵」と言う根拠がない。この論理が正しいのであれば、女性の社会進出が日本よりはるかに進んでいるヨーロッパ諸国の経済状況がなぜこれほど悪いのか。社会進出して稼いでも、加速度的に福祉に吸い取られ、家庭崩壊によるモラル•秩序の崩壊に国の予算が対処しきれなくなっているのが現状でしょう。EUの経済危機が「家族」という概念の崩壊に根ざしていることを、なぜ日本の学者は理解しないのか。しようとしないのか。

終戦直後の混乱期を除けば、ヨーロッパの国々が一度として経済的に日本を上回った時はない。親が子どものために、子どもが親のために頑張ったから高度経済成長があったわけですし、先進国の中では奇跡的に家族という定義がまだ色濃く残っている日本が、なぜアメリカや中国という大国に続いていまだに世界第三位の経済大国なのか。実は、家庭や家族がしっかりしている方が、経済成長につながるのです。絆が安心感の土台になり、家族のために頑張るのが人間だからです。人間は自分のためにはそんなに頑張れるものではないのです。本来、頼りあう、支えあう、信じあうのが好きなのです。

アメリカという資本主義社会を代表する国で、家庭観を発展途上国で身につけ、教育も発展途上国で受けた英語も満足に話せない移民一世が、二世や三世よりも経済的に成功する確率が高いのです。家族がいて、子育てが中心にあると、人間は、生きる力が湧いてくるのです。

民主主義も学校も幼稚園も保育園も、親が親らしい、人間が人間らしいという前提のもとに作られています。人間らしさを失ってくると、人間の作ったシステムは人間に牙を剥き始める。地球温暖化と似ています。

子どもを幼稚園に通わせたいという親たちは、教育を求めてというよりも、子供の成長を自分の目で長く見ていたい、という本能的な気持ちが出発点にあるのではないか。子育ては、この国では、未だに仕事よりもはるかに幸せの原点になっている、人生の華なのです。

大日向さん:「これはあきらかな誤解です。保育は、養護と教育が一体となったもの。保育所は幼児期の教育を十二分に行っている。」

幼稚園によっては意識的に教育的保育を避け、子どもたちの「遊び」を尊重する保育をやっています。幼稚園よりもっと教育的保育をやっている保育園もあります。どちらでもかまいません。しかし残念ながら、ここ10年くらいの間に、規制緩和により保育資格のない保育者を増やし、認証保育所や家庭保育室、保育ママを行政が薦め、園庭のない一部屋保育や駅中保育、短時間のパートでつなぐような保育園が意図的に増やされている状況で、大日向さんのこの発言は事実ではありません。公立保育園の非正規雇用化が進み、自治体によっては九割が非正規雇用という市もあります。まず、保育とは何か、どういう役割りを社会で担っているのか、その意識を整えなければならない段階なのです。

 

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新規参入を奨励する新制度を進めようとしている人たちは、全国的に起っている大学や専門学校の保育科の定員割れをどう考えているのか。願書さえ出せば入学でき、ほぼ全員国家資格がとれるような仕組みの中で、子育てを任せられる保育士を確保するのは急速に難しくなっています。実習に来る学生たちの態度の悪さに驚愕している園長たちに話を聴けば、とても「社会で子育て」などと言えないはず。

新システム(新制度)は、客観的に見て、保育園のさらなる託児所化と、幼稚園を雇用労働施策に取り込むことによって託児を兼任させることを目指しています。

自治体が、財政上の理由で規則をゆるめ、罰則規定も整備されていない状況で、財政難+新システムでは、「大人たちの都合で」ますます保育は旧認可外に近い形に移行するかもしれません。

 

大日向さん:「政府の推進体制、財源を一元化する。これまで、幼稚園は文科省、保育園は厚労省、財源も制度ごとにばらばらでした。新システムでは、こども園給付を創設して、財政と所管を一元化して二重行政の解消をめざす。就学前の子が過ごす場が親の生活状況によって幼稚園と保育園に別れて60数年です。幼保一体化は、多くの関係者の悲願でした。」

30年にわたって保育の現場を見、多くの関係者と話をしてきましたが、「幼保一体化は多くの関係者の悲願」ではない。政府の幼保一体化ワーキングチームの座長が、公共放送で問題の本質に関わるまったく事実ではないことを言うことに、保育団体は、政府に正式に強く抗議するべきだと思います。

業界的考え方をする経営者の一部が地方の幼稚園の生き残り策として望んでいたかもしれない。しかし絶対に幼稚園関係者全体の希望ではなかった。全国の私立幼稚園が進めた幼保一体化反対署名運動の広がりを見ればあきらかでしょう。

保育園で保育士が幼保一体化を望んでいた、という話も聴いたことがありません。預かる人数を増やし、しかも支出を抑えたい行政が望んでいたかもしれない。ジェンダーフリー的考え方をするひとたちが差別感を解消するために望んでいたかもしれない。幼稚園を厚労省管轄にし、雇用労働施策に取り込むことによって労働力を確保しようという財界が望んでいるのかもしれない。しかし、当事者である親や子供たちがそれを望んでいるという調査結果はないはずです。

 

大日向さん:「子供の今を、日本社会の未来を守るために、新システムの理念を実現すべく、恒久財源を確保して時代に即した、新たな歴史を築いていくことが必要と考えます。」

子どもの今を、日本社会の未来を守るために、新システムの理念を否定し、保育の質を上げるために恒久財源を確保し、人間性に即した、子ども中心の保育を築いていくことが、必要なのです。この新システムを議論することによって、保育の大切さ、それがこの国の土台を支えているのだ、という意識が高まることを期待します。

 

子ども・子育て新システムの出典?

小宮山洋子著「私の政治の歩き方」(すべての子どもたちのために)という本があります。著者は、元厚生労働大臣です。

本の副題が新システムのサブタイトルになっていて、新システムはこの本から出発したのではないか、とも思えます。だから、民主党はこの人を厚生労働大臣にしたのでしょう。けれども、本の中身も新システムも、出発点から「子どもたちのため」になっているとは思えない。「子どもたちのために」と繰り返し、繰り返し書かれていますが、大人たちのために考えられている。

児童虐待が増えたから、それを守るために社会が育てなければいけない、というのですが、子育ての社会化によって人間性が失われると、人間は孤立化しよりいっそうモラル•秩序が希薄になり、それが犯罪率に反影するのです。家庭という概念が希薄になり、子育ての社会化が進んだ欧米で、犯罪率(たとえば傷害事件)を比べれば、アメリカは日本の25倍、フィンランドは18倍、フランスは6倍です。日本がなぜこれほどまだ良いのか。子育てによって培われる弱者に優しい「心」が残っているからです。0才児を預ける親は一割以下なのです。男女が協力し子どもを育てる姿勢が、欧米に比べ奇跡的に残っている。子どもを生み育てる、という大自然が我々に課した「男女共同参画社会」が、この国には根強く残っている。アメリカで3割、イギリスで4割、フランスで5割、スエーデンで6割の子どもが未婚の母から生まれています。欧米で「男女共同参画子育て社会」(つまり家庭)がこれほどまでに崩壊してしまった今、日本が、「子育て」という男女共同参画の根本にある人間性を維持していけば、いつか人類の大切な選択肢になるはずです。

  1. :子ども・子育て応援政策」にこう書かれています。

「就学前のすべての希望する子どもたちに質の良い居場所を。==幼保一体化など」

私は、言い続けるしかない。子どもたちは希望していない。

待機児童のほとんどが未満児(0.1.2歳)です。未満児は希望を発言できない。だからこそ、未満児たちが何を希望しているかを想像するのが人間性。未満児は、親と一緒にいたいと思っています。(老人だって、孫や子どもと一緒にいたいと思っています。)

自ら発言できない人たちの希望を想像することは宇宙のエネルギーの流れを知ろうとすること。注意深く、感性をもって行わなければなりません。なぜなら、それは自分の生き方を決定づけることになるからです。

「希望するすべての子どもに家庭以外の居場所を作ります」

人類の歴史を考えれば、子どもたちの希望は家庭に居場所があることです。それがまわりにない状況ならば、だいたい親の人間性と社会の絆の欠如の問題です。家庭以外の場所に意識的に子どもたちの居場所を作ることは、家庭という居場所が減る動きにつながります。もし、子どもたちが親と一緒に過ごすことを希望しなくなってきたとしたら、希望するように親が変わらなければならない。社会の仕組みが変わらなければいけない。

それが、人類が健やかに進化し、自分を「いい人間」として体験するための道です。

「最近では、働いていなくても、子どもと接する時間の長い専業主婦に、育児不安などで子どもを虐待してしまう人が多いのです。このことからも、保護者が働いていない家庭の子どもにも、質のよい居場所が必要なことは、おわかりいただけると思います。」

育児不安の原因になる子どもを家庭から取り除いても、子どもが園から帰ってくれば、そこにいるのは育児不安になりやすい親に変わりはありません。

「子育て」は、子どもが親を人間らしくするためにあるのです。親たちが忍耐力や優しさ、祈る気持ちや感謝する姿を、育児を通して身につけ、頼りあい、助け合うことに生き甲斐を感じ、絆をつくり、社会に信頼関係を生み出す。そのためにあるのです。

母親の不安は夫の育児参加が足りていないことや、孤立化から起っているのであって絆の欠如の問題です。子どもに新たな居場所を作っても問題の解決にはなりません。

孤立化や絆の欠如に福祉や教育で対処しても、やがて財政的に追いつかなくなります。親心や親身さに福祉や教育が代わることはできません。

いま、こういう時代だからこそ「保育」の大切さを保育界や教育界が認識し、うったえなければなりません。週末48時間親に子どもを返すのが心配だ、と保育士が言う時代です。せっかく五日間良い保育をしても、月曜日にまた噛みつくようになって戻ってくる、せっかくお尻がきれいになったと思ったら、週末でまた赤くただれて戻ってくる、家庭と保育園が本末転倒になってきています。

母親が、妊娠中に預ける場所を探し始めるという行為が、人間にとって実はどれほど不自然か、社会全体が気づかなくなっています。

ある夕方のこと

子どもの発達を保育の醍醐味ととらえ、保育士たちの自主研修も月に一回やり、親を育てる行事をたくさん組んで保育をやっている保育園で…。

園長先生が職員室で二人の女の子が話しているのを聴きました。

「Kせんせい、やさしいんだよねー」

「そうだよねー。やさしいんだよねー」

園長先生は思わず嬉しくなって、「そう。よかったわー」

「でも、ゆうがたになるとこわいんだよねー」

「うん、なんでだろうねー」

園長先生は苦笑い。一生懸命保育をすれば、夕方には誰だって少しくたびれてきます。それを子どもはちゃんと見ています。他人の子どもを毎日毎日八時間、こんな人数で見るのは大変です。しかも、園長先生は保育士たちに、喜びをもって子どもの成長を一人一人観察し、その日の心理状態を把握して保育をしてください、と言っています。問題のある場合は、家庭の状況を探ってアドバイスをしたり、良い保育をしようとすれば、それは日々の生活であって完璧・完成はありえません。

保育士に望みすぎているのかもしれない…、と園長先生は思いました。それでも、いま園に来ている子どもたちのために、選択肢のなかった子どもたちのために、できるところまでやり続けるしかないのです。

そう思いだした時、職員室での子どもたちの会話が、保育士たちへの励ましのように聴こえたのでした。

救われている

子どもたちに許され、愛され、救われて私たちは生きていきます。子どもたちは、見事に信じきって、頼りきって私たちを見つめます。その視線に、私は感謝します。

子どもたちによってすでに救われている、そう感じた時に、人間は安心するのです。

 

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子育ての社会化が、子育ての仕組みへの依存につながる。ここで言う仕組みとは、様々な福祉、保育園、幼稚園、学校ということですが、その親による子育て依存が、やがて子育て放棄や家庭崩壊につながってゆく。この「子育て放棄」と「家庭崩壊」は、どちらが先がいろいろなのですが、夫婦にとって、社会にとって「子はかすがい」ではなく「子育てかすがい」だったことを政治家が忘れ、仕組みの充実を図ろうとすると、社会から親身な絆が薄れてゆく。そうなった時に、福祉や教育は限界を超える。子育てを受けきれない。すると、市場原理に逃げ道を探そうとする。すると、子どもが大人の都合でやり取りされる、売り買いとまではいきませんが、それに近い状況が起こってくる。それを政府が「違法」にすることがもはやできなくなる。

BS世界のドキュメンタリー「捨てられる養子たち」。映像が伝えてくる「警告」は恐ろしいほどリアルで、人間社会の可能性を示唆しています。https://www.facebook.com/watch/?v=1820006938239263

 

https://www.youtube.com/watch?v=Cj8FNG3OS7M

心の土台

心の土台

小一プロブレムと呼ばれるように、小学一年生から頻発する学級崩壊や新卒の教師の半数が3年以内に教職を去るという危機に直面し、保幼少連携という言葉が使われるのですが、本来、保幼少は連携などしていなくてもいい。
家庭における家族関係、愛着関係、特に幼児期の母子関係が土台にあれば、教育も保育も充分成り立ってきたわけですし、家庭で作られる愛着関係の絆が薄くなったからといって保育や教育という仕組みがそれに対処、対応しようとすればするほど、仕組みでは肩代わり出来ない子どもたちのとっての「心の土台」が消えてゆく。その事に学者や専門家が気づかずに保育や教育に関する施策が進められてきた。少なくとも政府の施策を決めてゆく立場にある学者たちが気づいていない。気づいていても、自分のキャリアや立場を守りたいのか、素直に、さっさと反省しない。子どもたちを支える「心の土台」(親心)が希薄になれば、学校教育は成り立たない。それだけのことなのです。

 子ども・子育て支援新制度の前身、「新システム」を進める委員で、民主党のブレーンでもあった大日向雅美教授は、当時「保育の友」という雑誌で、一連の変革について、
「これまで親が第一義的責任を担い、それが果たせないときに社会(保育所)が代わりにと考えられてきましたが、その順番を変えたのです」
と言っていました。
何気ない発言でしたが、業界紙であってはいけない保育雑誌でこういうことが言われ、問題視されなかった。ここが分岐点だったと思います。
ここで、現場を支えてきた保育士たちの良心が、国の施策と完全に食い違ってしまった。幼児たちの思い、が国の経済施策から外された。
当時、国の保育施策の中心人物でもあった大日向さんのこの発言は、人類の進化に直接的にかかわる発言で、一学者が軽々に言う事ではない。その後大日向さんは、NHKの番組で、「新システムは、すべての子供の育ちを社会の皆で支えるという、子育て支援の理念の画期的な変化です」と述べている。
これがいまだに政府の保育施策の原点にある。教育要領の改訂にも同様な考え方があるのです。

「社会で支える」は時々「人々の絆で」、などといって誤摩化されますが、現実は子育てを保育と教育、そして福祉で支える、ということです。その裏に「働く親の代わりに」という意図があるからこそ経済施策という位置づけになっている。

保育園や学校で起っている保護者との摩擦や軋轢、子育てに関わる者同士の不信感の広がりを見ればわかると思いますが、自分の子どもの育ちを第一義的責任として支えようとしない、安易に保育園や学校に子育てを依存しようとする、責任を転嫁しようとする親が明らかに増え始めている。役場の窓口の人が、0歳児を預けることに躊躇しない親が突然増えている、人材もいないし財源もない状況で、保育士にこれ以上押し付けるわけにはいかないと言っている時に、「すべての子供の育ちを社会の皆で支える」なんてことができるはずがない。机上の空論、夢のまた夢、そんなものは人類史上かつてあり得なかった社会であって、永遠に不可能な、常に絆を求める「人間性」と相容れない方針だと思います。
部族という社会単位であれば可能かもしれませんが、学者が考えた「仕組み」では無理。長い間、子育ては、夫婦(親)を中心とした「家庭」主体で行われてきたのです。本来、子育ては、主に家庭という場で、育てる側の絆を育てるために存在してきたのであって手法ではない。その家庭の集合体としての社会があったはずなのです。

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子育てにおいて、家族より社会の仕組みを優先するという試みは、独裁的な共産主義体制やイスラエルが試行したキブツなどの例を見ても、短期間に必ず失敗に終わっている。または、モラル・秩序を著しく欠いた社会を生み出している。

いまの政府の施策は、家庭よりも個を重視することで消費を促し経済活動を活性化させようという、人間性を無視した経済学者の考えを政治家が鵜呑みにしているだけ。ここ数年、市場原理・競争原理主体の経済学が政治家を動かしている。世界的にその流れが、取り返しのつかない摩擦を生み出している。

首相が国会で言った、もう40万人乳幼児を保育園で預かれ、そうすれば女性が輝く、という考え方は、「ヒラリー・クリントンがエールを送ってくれました」という首相自らの言葉に表れているように、日本の乳幼児を育てている女性の産業・経済における労働力化を欧米並みにしようという論理です。
そのアメリカで、警察官の発砲事件の多発している。毎週1人の市民が警官に殺されるシカゴでは、市長が、市の警察官に対して「人間性を持つように」と指令を出している。市長が警察官にこれを言わなければならない国で、去年、一度に四人以上が撃たれる事件(mass shooting)が331件起こっている。一度に四人、ということは、恨みつらみの問題ではない。社会全体の空気、優しさ、一体感の問題なのです。
去年のアメリカの大統領選に象徴されるような欧米社会のモラル・秩序の低下と、その混乱ぶりを見れば、経済を中心に考える社会は仕組み的に失敗しているということは明らかなはずです。その失敗の根本に三割から六割の子どもが未婚の母から生まれるという、家庭という概念の崩壊があるのです。

 (フランスのテレビ局制作のドキュメンタリー「捨てられる養子たち」、BS1「世界のドキュメンタリー」。https://www.youtube.com/watch?v=Cj8FNG3OS7M ぜひ、ご覧ください。
  英語のタイトルは「Disposable Children」。「処分できる、自由になる、自由に使える、使い捨ての」子どもたち、なのです。)
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幼児の存在意義を忘れてはいけない。人間の絆がどのように形成されるのか、金銭のやりとり以前の本来の姿を憶いだす時が来ているということを、文化人類学者や心理学者、哲学者や宗教家が真剣に考え、発言してほしいと思うのです。

すでに成り立たなくなっている「福祉」

 フランスのテレビ局制作のドキュメンタリー「捨てられる養子たち」が、BS1「世界のドキュメンタリー」で再放送されました。https://www.facebook.com/satooyarenrakukai/videos/20161027-bs世界のドキュメンタリー捨てられる養子たち/1820006938239263/ (いつまでアップされているかはわかりませんが、youtubeに載っています。ぜひ、ご覧ください。)
 
 英語のタイトルは「Disposable Children」。普通に訳せば、「処分できる、自由になる、自由に使える、使い捨ての」子どもたち、なのです。
 
 里親を望む「親希望の人たち」の素性調査さえ出来ない、しないNPOや団体による里親探し、養子の斡旋、ネット上の子どものやり取り、売買に近いような実態が子どもたちの体験を通して報告されます。
 
 こういう風景が日常的に受け入れられている社会がすでに存在している。私は、30年前にこういう社会派のドキュメンタリーをアメリカで次々に見て、衝撃を受け、「親心」という人間性が消えてゆくことの危険性、そして、ほとんどの人間が乳児と一定期間安定的に接することによって、乳幼児たちが社会に満ちるべき人間性を育ててきたことについて、日本で講演したり、本を書いたりし始めたのです。
 当時見たもので、印象に残っている番組の中には、10人に1人の聖職者が信者の子どもに性的な虐待をするというリポート、それだけならまだしも、その神父たち専用のリハビリセンターがアリゾナ州にあって、そこで研修すれば復帰できる、それほど聖職者不足に困っているとか、
 刑務所で、殺人犯たちに不良少年たちを更生させるたまに脅させるプロジェクト、年間10万人という誘拐事件のほとんどが家族を求めての誘拐で、それゆえ9割が解決しない、幼稚園に子どもを入れると将来の誘拐に備えて、「指紋を登録しておきますか」という手紙を園からもらう、など、日本人にとっては、驚くような現実ばかりでした。
 
 「捨てられる養子たち」にも出てきたFASの問題を、ブログ「米国におけるクラック児・胎児性機能障害(FAS)と学級崩壊」https://kazu-matsui.jp/diary2/?p=1428、にも書きました。
 
 伝統的家庭の価値観、Traditional Family Valueという言葉が盛んに使われ、家庭崩壊と学級崩壊が社会問題になり始めた頃でした。
 
 
 市場原理、強いもの勝ち(運のいいもの勝ち)の競争社会(経済競争)の中では、弱者である子どもたちが必ず後回しにされる。しかし、後回しにされた子どもたちの多くは、数十年間その社会の一員として、負の連鎖、人間不信の歯車を回し続ける。この「親心の喪失」という歯車が回りだすと、止めることは至難の技になってくる。
 
 「Disposable Children」を見ればわかると思うのですが、問題なのは、「写真入カタログやネット上の写真を見て、簡素な手続きで身寄りのない子どもを引き取ることができる」、子どもの取り引きを取り締まる法律が出来ていないことなのです。それを作ろうとする議員がいても、数十年間野放し状態という子どもの人権が後回しにされる民主主義の現状なのです。市場原理のようなものに頼らなければ弱者救済ができない、すでに成り立たなくなっている「福祉」がそこに浮き彫りになってきます。
 
 福祉に人間性の代わりはできない。モラル・秩序を社会に保つのは、司法でも警察でもなく、長い間「人間性」だったということ。そして、長い間その「人間性」を支えてきたのが、「子育て」だったということ。
 
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 日本でも「保育は成長産業」とした閣議決定の考え方の流れの中に、すでに福祉で受けきれなければ市場原理に任せればいい、という経済学者の学問的思考が見え隠れしています。(https://kazu-matsui.jp/diary2/?p=252) 先進国で起こってしまった「子育て」をめぐる現実から、「保育は成長産業」という施策を考え直す必要がある、それをもっとマスコミが伝えてほしいと思います。
 
 世界中で起こっている保護主義への流れ、それはいわば部族主義への回帰の流れで、もう無理かもしれない、幻想のようにも思える「家族主義」への回帰とパラレルのように見えます。民衆によって「経済学者」のグローバリゼーション、自由貿易的方針が見放されようとしている時代に、方向性を見出せない日本の政治家たちは、いまだに経済学に頼ろうとしてる。保育(子育て)施策が経済施策に入れられているいま、これは危ない。
 
 子育てや教育の問題を考えるとき、文化人類学的、倫理学的(心理学的)、または宗教学的視点がもっと優先されないと、その本質が見えなくなる。
 
 グローバリゼーションがすでに終焉を迎えていることは欧米を見れば明らかなのに、いまだに小学校における「英語教育」などと呑気なことを政治家たちは言っている。英語は戦うための武器、武器を持つと戦いたくなる、道具を持つと使いたくなる、しかし、果たして経済競争に勝つことに本当の幸せがあるのか、百歩譲って、経済競争に勝つ確率はどれほどあるのか。そうしたことを次世代のために真面目に考える義務が私たちにはある。
 
 この国の文化や伝統、守ってきたものがいま一番地球規模で求められている時に、いまだに失敗した欧米の後を、教育という分野でも追おうとする。そろそろ欧米コンプレックスから卒業してほしいと思います。
 
 (アダム・スミスの国富論の対局に彼自身による「道徳感情論」があって、そのバランスで経済は成り立ってきた。しかし、欧米人は「道徳感情論」が義務教育の普及によって壊されたことを理解しない。「道徳感情論」を「子育て」と重ねることをしなかった。)
 
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 日本でも、保育園で親子を一定時間引き離さなければ子どもの命が危ない、親に子育てを任せておいたら児童虐待に進むかもしれない、だから3歳未満児であっても預かったほうがいい、と言う人たちがすでにいます。
 
 それは現象に対する対処法としては確かにそうなのですが、それで本当にいいのか。対処すればするほど壊れてしまうものがあるのではないか。そして何よりも、税で成り立つ福祉が、将来にわたってそれを受けきれるのか、ということなのです。
 
 アメリカのような、日本の経済学者が女性の社会進出という側面では後を追いたがり、「女性が輝くために、もう40万人保育園で預かります、ヒラリー・クリントンがエールを送ってくれました」と首相が国会で言った、いかにも目標とすべき社会で、子どもたちがこれほど無残に「使い捨て」になっている、それを禁じる法律が作られていないという事実を考えてほしい。子どもを守るための法律を作ろうとすることに「経済」という歯止めがかかっている現実を知ってほしい。そうしたことをもっと日本人は直視すべき、まだこの国なら間に合うから、知っておく必要があると思うのです。
 
 
 
 ドキュメンタリーが映像で語る「毎年里子となる10万人のうち2万5千人が捨てられいる」仕組みの中で、確かに数万人の子どもたちが救われている。この仕組みがあったおかげで、より良い人生を送っているかもしれない。それもまた事実です。日本人には常識はずれに思えるこの合法的な活動が法的に規制されたら、もっと多くの子どもたちが不幸になるのかもしれない、その論法も確かに成り立つ。だからこそ、そうなる前に、もっとずっと手前のところで、幼児と過ごす時間を貴重で大切な時間、と感じる雰囲気や常識を、私たちは保ち続けなければならないと思うのです。
 
 このドキュメンタリーを見て、里親を希望する人にシングル(独身者)が多いことに驚く人もいるはずです。血のつながりを基本とした家庭という定義、イメージが現実には存在しなくなってきている。アメリカにおける誘拐事件のほとんどが家族を求めての誘拐であるのと似ていて、無法地帯とも言っていい里親制度の底辺にあるのは、大人たちの孤独です。しかもそこに性的な欲求が絡んでいる場合が少なからずある、とドキュメンタリーは指摘します。
 
 以前、NHKのクローズアップ現代で取り上げられた中国の状況とアメリカの状況を比較してブログに書いたことがありますが、(「“行方不明児20万人”の衝撃 「中国 多発する誘拐」/アメリカの現実」https://kazu-matsui.jp/diary2/?p=276)、二つの国に共通しているのは、経済政策によって家庭崩壊を進めながら、家族を求める大人たちの欲望により子どもたちの人生が扱われ、翻弄されている、というアイロニーです。
 
 アメリカと中国という、絶対に真似してはいけない二つの国が、GDPでは世界の一位と二位になっているのです。だからこそ日本が三位にいることに意味があると思います。日本という国が選ぶ「子育て」の方向が、人類の歴史にいい影響を及ぼす可能性が十分にある。
 
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「捨てられる養子たち」NHKBS1
 
2017年4月20日(木)午前0時00分~
 
簡単に養父母になり、簡単に解消できるアメリカの里親制度。毎年里子となる10万人のうち2万5千人が捨てられている。子どもをペットのように扱う社会の暗部を描く。
 
体育館に敷かれたカーペットの上を歩く子どもの姿を、両脇で見守る里親希望の夫婦たち。その手元には子どもたちの写真入カタログが。簡素な手続きで身寄りのない子どもを引き取ることができるアメリカだが、その一方で深刻な問題も。14歳でハイチから引き取られたアニータは、5回目の引き受け先が8人の養子を持つ家庭で、養父は小児性愛者だった。育児放棄や虐待の結果、心に深い傷を受けるケースも少なくない。その実態に迫る。
 
原題:DISPOSABLE CHILDREN
 
制作:BABEL DOC production (フランス 2016年)
 
(ブログに少し詳しく書きました。)https://kazu-matsui.jp/diary2/?p=1413
 
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 欧米と日本の違いは、日本では「自分で育てられるのなら、自分で育てたい」という母親が、15年間まで9割居たこと。それが最近7割まで減っている。政府主導で減らされている。徐々に意識が弱者から離れ、それによって社会全体の安心感が崩れはじめている。保育(子育て)が経済施策(雇用労働施策)に入っているからです。だから、国の子ども・子育て会議が11時間保育を「標準」と名付けたりする。しかも、地方版「子ども・子育て会議」では、現場の意見が国の方針と違ったりすると議事録から削除されたりした。https://kazu-matsui.jp/diary2/?p=237
 
 社会全体の安心感が崩れはじめた時、身を守る「お金」を得るために、絆を捨て始める、この流れをなんとか止めるためには、子どもたちを眺め、その人たちの私たちに向ける信頼の眼差しに感謝するしかないと思うのです。