裾野市の保育士による園児虐待事件

「絵本の読み聞かせ」の道筋を示した父が逝った今年、私は「「ママがいい!」という、七冊目の本を出しました。タイトルにした言葉は、人間社会の中心を耕してくれる幼児たちからの、メッセージです。

母親にとっては勲章ともいうべき、この言葉から「社会」という「体験」が始まるのだと思います。

この言葉に、真摯に向き合わないと、保育という仕組みに限らず、その先にある学校教育や様々な形の「福祉」が、連鎖して崩れていく、と書きました。

「ママがいい!」、この言葉が発せられる「動機」と、それが指し示す「道筋」を、うわべの論争や、損得に惑わされず見つめ、率直に受け入れ感謝する時が来ています。

 

裾野市の保育士による園児虐待事件。

「ママがいい!」にも書きましたが、この手の出来事は、もう三十年前から頻繁に起こっている。養成校の実習生に聴けばわかります。繰り返し、報道もされている。それなのに、なぜ、保育の質を下げる規制緩和と、量的拡大が国によって進められたのか。その仕掛けを、この本を読んで多くの人たちに理解してほしい。

裾野のこども園で起こった虐待のニュースを見て、ショックを受けた方達も多いと思います。

一歳児にこういうことをするのは、仕組みが破綻している以前に、人間としての常識を逸脱しているからです。

しかし、それ以上に、この事件で、園長が保育士たちに、口外しないように誓約書を書かせていたということに、保育界の現状を感じてほしいのです。

養成校で教えている教授たちは、その現状を知っていた。養成校が、実は資格ビジネスになっている実態についても書きました。

(「ママがいい!」より)

良心を捨てるか、保育士を辞めるか

かつて保育の現場で、こんな事件があった。

千葉市にある認可外の保育施設で、三十一歳の保育士が二歳の女の子に対し、頭をたたいて食事を無理やり口の中に詰め込んだなどとして、強要の疑いで逮捕され、警察は同じような虐待を繰り返していた疑いもあるとみて調べています。警察の調べによりますと、この保育士は先月、預かっている二歳の女の子に対し、頭をたたいたうえ、おかずをスプーンで無理やり口の中に詰め込み、「食べろっていってんだよ」と脅したなどとして、強要の疑いが持たれています。

(二〇一四年七月 NHK ONLINEより)

三歳未満児を、親しくない人に長時間預けることにはリスクがある。だから長い間人類はそういう仕組みをもたなかったし、そうしなかった。

問題なのは、保育士の逮捕後、施設長が警察の取り調べに、虐待を認識しつつ、「保育士が不足する中、辞められたら困ると思い、強く注意できなかった」と述べたこと。

この証言で、保育士個人の資質の問題が、国の政治姿勢の問題に変容する。

政府の保育施策(雇用労働施策)は、保育士の「心(人間性)」が保育の質であることを理解しない。そのことが保育士たちを「良心を捨てるか、保育士を辞めるか」という状況に追い込んでいる。

社会保障制度には致命的な負の連鎖が始まっている。

経済財政諮問会議の元座長が「〇歳児は寝たきりなんだから」と私に言ったことがある。誰が世話をしても同じ、と本気で思っているのだ。教育の義務化と高等教育の資格ビジネス化で「子育ての本質」が見えなくなっている。この人たちは、三歳未満児保育を生産性向上を目的とした「飼育」くらいにしか考えていない。

保育の規制緩和と幼保一元化を進めていた野田政権の厚労大臣が「子育ては、専門家に任せておけばいいのよ」と言い、三党合意で安倍政権がそれを引き継いだ。

千葉の事件で、施設長の発言が全国紙で報道されたあとも、政府は保育の量的拡大を進めた。

学校で教師が児童虐待を繰り返して逮捕され、校長が「教員不足のおり、辞められたら困るので注意できなかった」と答えたら大問題になるはず。

叩かれ、食べ物を無理やり口に詰め込まれる相手が二歳以下で、経済活動に必要な仕組みで起こると対策が取られないどころか、政府は保育士不足、保育士争奪に拍車をかけていった。

三年後「保育園落ちた、日本死ね!」という発言が、もっと預かれという趣旨で、国会で取り上げられる。乳児が親と過ごす権利、「保育園落ちた、万歳!」と子どもが思う可能性、悪い保育士を排除できなくなっている現実については国会では取り上げられない。

(引用ここまで)

日常的に行われる園児虐待を口外しないことで、保育士たちの魂が鈍化していったのです。

実習先の園であったことを言わないように、学生たちが学校から口止めされ、先輩から、あの保育園に実習に行くと、保育士になる気無くなるよ、と耳打ちされる。致命的な質の低下が、個人情報保護法、守秘義務、などという法律を隠れ蓑に推し進められていった。

人間社会を守るのは法律ではない。幼児たちを可愛がることによって引き出される「いい人間性」と「常識の共有」です。

(千葉市の事件については、衆議院で参考人をした時にも言いましたし、衆議院調査局発行「 論究 第16号 2019.12」に依頼された提言論文にも書いています。衆議院ホームページで閲覧可。)

私が、何より恐ろしいと思うのは、こういう風景を、日常的に三歳、四歳、五歳児が見て、成長していくこと。異常とも思える風景を繰り返し体験し、親が知らないうちに、トラウマやPTSDを抱えた子どもたちが、すでに親になり、教師や保育者になっているということ。

親と保育者との関係をここまで崩してきたのは、国の経済施策と、実習生たちの内部告発を抑えてきた学者たちだ、と思う。

「保育士辞めるか、良心捨てるか」という決断を迫られた、まったく同じ道筋が、学校教育を追い詰めています。

教師不足が進むほど、良くない教師を排除できなくなる。

「情報は知識ではない、体験が知識なのだ」とアインシュタインは言いました。

損得にからむ情報だけが、生きる手法、知識のように幅を効かせ、大人たちの子育てにおける体験の質が荒くなっている。それによって、子育てを押し付けられた者たちの「良心」が崩れていく。

子どもたちの体験の質も、当然、一緒に落ちていく。それが、様々に未来に波及していくのです。

義務教育は「義務」であるがゆえに、一層逃げ場がない。

良くない担任に当たった時の親たちの選択肢は非常に限られている。いい親であるほど、手段を失い、うろたえ、苦しみや悲しみが深くなる。それが、不登校児過去最多、という数字に現れている。

今回の事件は、流れを変えるとしたら、最後のチャンスかもしれない。

(保育の崩れかた、子どもたちを守る「常識」が、政府主導の市場原理と豊かさによって壊れていった過程について、ぜひ、「ママがいい!」を読んでください。背後にある「欲の資本主義」に気づけば、そして、保育界が「子どもの側に立って」動けば、まだ十分可能性はあると思います。)

 

 

 

 

(三日前の記事です。親父の最後の一踏ん張りのような気がします。)